第四十話
翠の視線に気づいたのか、ゆさゆさとロープによたれ掛かっていたチャンピオンがおもむろに翠の方を見た。
「よう、御影の坊や・・・。つまんねえもん見せちまったな。これじゃあ何の参考にもなりゃしねえだろう。」
チャンピオンがリングから何かを喋っているのに気がついたギャラリー達が次第に静かになっていく。近くの席に挑戦者である翠がいるのに気付いた者もいるようだ。
「へへ、どうせ俺もこのままじゃ消化不良・・・何のトレーニングにもなりゃしねえ。どうだい・・・大将。ここは一つ、自分の身で俺の実力って奴を味わってみねえか?」
「な、な、な、な、何を言うんだチャンピオン!!今日は単なる練習で・・・」
満田が慌てて立ち上がり諌める。チャンピオンは体を完全に翠の方に向けた。
「練習・・・ああ、練習さ。当然ここでの結果に関わらず来月の試合はやらせてもらうさ。だがな、練習といえどやるからには全力。ルールはさっきと同じ、おめえさんが勝ちゃ当然ベルトはくれてやるぜ。つまりよ、二回分のチャンスが得られるって訳だ。」
思わぬ内容にギャラリーの何人かはどよめき出した。会話の聞こえぬ後方はその身を乗り出している。
「だめじゃだめじゃ・・・翠君、焦らずともチャンピオンは逃げやしない。1ヶ月じっくり鍛えてだな・・・」
チャンピオンに取り付くしまなしと見た満田は今度は翠を諭し始めた。チャンピオンはダメ押しで続ける。
「会長さんよ、心配しなくても1ヶ月もありゃ怪我なんて大体治っちまうぜ。試合には支障は出ねえよ。」
「黙って聞いてれば・・・」
ここで遂に、翠が立ち上がった。そのままリングへと登っていく。
「怪我だ来月の試合だとどいつもこいつも俺が負ける事ばかり・・・良いだろう、相手になってやる。但し来月の試合は無しだぜ・・・ここでお前のベルトを貰って帰る。」
うわああーっ!!
思わぬ展開に会場中が湧き上がる。
「あ、翠君ー!!」
満田はその場に崩れ落ちた。
「・・・へへっ、そう来なくちゃな。」
ニヤリと、チャンピオンは静かに笑った。
「・・・む!?まだだ、まだ戦えるぞ・・・。」
リングの隅で伸びていたシュベルトが今更目を覚ます。状況を思い出し再びチャンピオンに構えを取った。
「・・・お前の出番は終わりだぜ。もうしばらく眠ってな。」
そう言うとチャンピオンはシュベルトの頭を右腕に付けた重りで殴った。鈍い音と共に再び気を失う。
「・・・そいつは外さないのか?」
翠がチャンピオンの四肢にはめられた重りを見て問い掛ける。
「ああ・・・言ったろ、あくまでこれは練習だってな。これがシンプルだけど結構効くんだぜ。・・・後でお前にもお土産にしてやろうか?」
「いらないさ・・・後で文句付けるなよ・・・!!」
翠は勢い良く飛び出した。
・・・案の定、攻める翠のパンチもチャンピオンには通じなかった。
数々の強敵を沈めた鉄拳が、虚しく空を切る。
「く・・・!」
決して捉えられぬスピードでは無い。まして相手はハンデ付き、当てられぬはずはない。
しかし焦り逸るほど、その攻撃は外れるばかりだった。
(どうしてここまで躱すことができる?・・・筋肉や関節を見るといったな、ならば・・・!)
今度は足と右手にフェイントを入れ、左の拳で勝負を掛けた。これならば避けられまい。
が・・・それも難無くチャンピオンに避けられてしまった。
「な・・・!」
「おっと・・・へへへ、今のは惜しかったかもな。」
翠は困惑するばかりだった。こうなるともう次の手を繰り出せない。にやにやとこちらを見るチャンピオンの顔に不快感が募る。
(何にやけてやがるんだ・・・じろじろじろじろとこっちを見やがって、何をそんなに・・・ん、待てよ・・・!)
何かに気付いた翠は再び飛び出した。チャンピオンは相変わらずの笑みでそれを迎え撃つ。
(へっ、またそんな攻撃・・・うっ・・・?)
次の瞬間、翠の拳はチャンピオンを捉えた。
蹴りに肘に・・・次々攻撃が決まる。
翠は己の考えに確信を得た。
(見えた・・・!やはりそうか、簡単な事だったんだ。奴はこちらの視線で攻撃を読んでいたんだ・・・!そうと分かれば・・・)
対するチャンピオンもまた、異変に気づいていた。
(何だ・・・?突然デタラメな方向に打ち始めやがって。・・・にゃろう、気付きやがったな。だったら・・・!)
チャンピオンが次に仕掛けたのは敢えて視線の先に回避する事。そこならば、翠の攻撃は絶対に来ないと踏んだのだ。
しかし、翠もまた読んでいた。これほどの相手が何も仕掛けて来ないはずは無い。今度は敢えて視線の通りに攻撃を仕掛けたのだ。
その凄まじい読み合いに勝ったのは彼だった。必殺の蹴りがチャンピオンに突き刺さる。
「ぐ・・・!」
さしものチャンピオンも、少し揺らめいた。
・・・いけるかもしれない。
ほんの僅かだが、翠は勝機を感じていた。
どすん!重い大きな音が響く。
チャンピオンが、重りを外し放り投げたのだ。
「へへへ、参ったぜ・・・レンの試合を見ても半信半疑だったが・・・とんでもねえ男だったよ、お前は。こんな玩具付けてちゃ失礼だな。」
この大きな会場が、ほんのり揺れた気がした。単なるパフォーマンスで、あの重りは本当は重くも何ともないのでは?・・・そう思っていたギャラリーの何人かは考えを改めた。
「さあ行くぜ・・・こっからが正真正銘の本番だ。」
チャンピオンは拳を握り締め、踏み出した。
翠もまた迎え撃つべく構える。
二人が拳を振り上げる・・・!
「そこまで!そこまでじゃ・・・!!」
ピタリ、その拳が止まる。二人の間に、満田が転がり込んだのだ。
「チャンピオン、ここまでだ。貴方ほどの人がそう易々と熱くなっちゃいけない。翠君の非礼は詫びるし、なんなら慰謝料も・・・」
「・・・いらねえよ、そんなもんは。むしろ非礼を詫びるのはこっちだぜ。超一流の男を軽んずる様な真似をしちまったんだからな。」
そう言うとチャンピオンはくるりと背を向けた。
「すまねえな、坊や・・・いや、御影。こん次はよ、まどろっこしいのは抜きで思い切りやろうぜ・・・。」
先程の熱が嘘のように、彼は手を振って静かに去っていった。
「殴らなかったな・・・彼は。」
「・・・え?」
満田がぼそりと呟いた言葉を、翠は聞き返した。
「儂は殴られるのを覚悟しておった。以前の彼なら・・・いや、何でもない。さあ、儂らも戻ろう。」
・・・こうして一悶着有りながらも、練習試合は幕を閉じた。




