第二十六話
3月4日 VS128位、敗け。
3月15日 VS135位、敗け。
3月28日 VS131位、敗け。
これが3月の轟の戦績であった。
勿論厳八が用意した高級トレーニング器具も利用したし、一戦一戦細かいミスが無いようにも努めた。正直、これまでのように相手の策略に一方的に嵌められたのでは無く、全力を出し切れた試合もあっただろう。
それでも彼は、勝つ事はできなかった。
ゴホッ、ゴホゴホ!
とある日の朝早く、咳の音に轟は目を覚ました。
「・・・っ。」
「・・・っと、すまねえな轟。起こしちまったか。」
ぬっ、とその小汚い面が寝そべる轟をのぞき込んでくる。・・・厳八だ。彼は詫びながら再び咳をした。
ゴホッ、ゴホゴホ!顔面に嫌な水滴が飛ぶ。
「目覚めにオッサンのむさい顔面、おまけに唾を吐きかけられたと来りゃ・・・へっ、なかなか爽やかな起床じゃねえか。」
辛辣な皮肉だが厳八の返事は無い。いつもの調子で倍になって怒号が飛んできても良さそうだが・・・。轟は気にせず身を起こした。
「冗談はさておき・・・なんでえ、風邪でも引いたのかよ?たまには日雇い休んだ方が良いんじゃねえか?さしもの鉄人蛮田厳八様ももう良い歳なんだからさ。」
「・・・。」
しかし厳八は黙ったままだ。一瞬妙な沈黙が場に漂う。轟は寝間着を替え始めた。
「金の方ならオッサンが心配しなくてももうじき俺が稼いできてやっからよ、あんまり無理は・・・」
「・・・その事なんだが・・・」
突然厳八が話を遮った。いつに無く神妙なトーンで・・・。
「いい機会だ、どのみち帰ったら話そうと思っていたんだが・・・轟よ、もう辞めにしねえか?」
「・・・はあ?何だって?」
聞こえたのか聞こえていないのか・・・話半分に轟は余所見をしながら練習着の上を着た。
「・・・真面目な話をしとるんだ。わしはな、もう辞めにしないかと聞いたんじゃよ。」
ぴたり。今度は轟も手を止めじっと厳八の方を見た。
「なんだと?いや、今度は確かに聞こえたぜ・・・はっきりとな。・・・辞める?何言ってやがんだ。」
「わしもな、最初はお前が勝てないのはたまたま、相性が悪かっただけだと思ってた。だが、違った。相手を変え様々な敵と戦っても思うように勝つ事はできなかった。・・・次にわしは道具が悪いんじゃないかと思った。そりゃそうじゃ、お手製と拾い物で賄われたオンボロ野外ジムでのトレーニング、成果を出す方が難しいわい。」
そう言うと厳八は近くにあったバネの緩んだ中古のトレーニング器具を呆れたように弄んだ。
「だが、それも違った。最高とまでもいかずとも、一流のトレーニング器具を用意したが・・・結局勝つ事はできなかった。・・・終いだよ、もう打つ手無しさ。お前はわしの手には負えまいよ。」
次の瞬間、轟はいきなり厳八の胸ぐらを掴みあげた。
「ふざけんな!!俺はてめえがチャンピオンになれるって言ったから・・・!元はと言えばてめえが俺に声を掛けたんだろうが!!それを辞めるだと・・・?ファイト狂のてめえからそれを取ったら・・・何が残るってんだよ・・・!」
声を荒らげる轟。だが、厳八も負けずと唸った。
「そうさ!そのとおりじゃ!わしだって本当は・・・できる事ならお前さんとずっと共に戦っていきたい・・・!これほどの現実を叩き付けられてもなお、わしは未だにお前さんにはチャンピオン級の才能があると思っておるしな・・・。だがな、轟。わしはな、それと同じくらい・・・お前に幸せになってもらいたいと思っておる・・・。」
ぽろり。厳八の頬を一筋の雫が伝った。
「・・・確かにこのまま泣かず飛ばずでズルズルと・・・年老いて引退を余儀なくされるまでリングに立ち続ける道もある。だがな轟、お前確かこの間21歳になったんだよな?恐らく今が瀬戸際なんじゃ。普通に会社に入って、普通に家族を持って・・・普通に暮らして行く・・・。そんな普通の幸せを得るには最後のチャンスなんじゃ・・・。わしは・・・わしにはお前の未来を奪う権利は無い。」
ぼろぼろと涙をこぼす厳八に・・・轟はその手を離し俯いた。そのままくたりと、厳八は四つん這いになった。
・・・しばらくの間、じっと轟は厳八の姿を見ていた。嗚咽の音と、時折出る咳の音だけが静かに響く。元々涙脆い所はあったが、これほど彼の姿が小さく見えたのは初めてだった。
「・・・オッサン、すまなかったな。だけどよ、俺は普通の幸せなんていらねえぜ。それにこうしてボロボロのサンドバッグを叩いて、オッサンと一緒にてっぺんを目指すのは・・・例え試合に負けたとしても、それなりに幸せなんだよ。本当さ。・・・だから、だから辞めるなんて言わないでくれよ。泣かず飛ばずになんてしないさ、今にもチャンピオンベルトの一つや二つかっさらってきてやるからよ・・・。」
ポンと、轟はその肩を叩いた。厳八は顔をくしゃくしゃにしながら頭を上げる。
「・・・轟。・・・いや、悪かった。わしゃ少し不安になってたんだ・・・。このまま勝てなかったらどうしようってな・・・!・・・だけどな、そういう道がある事も心のどっかに入れといて欲しいんだ。」
「・・・ああ、わかった。わかったからもう泣かねえでくれよ・・・。」
肩を震わす厳八の肩を、轟はただ強く握るだけだった。




