1 西暦2369年の目覚め
ファルコンZ
1《西暦2369年の目覚め》
古めかしい音声メールで目が覚めた。
――西暦2369年3月15日 午前8時23分 音声メールを受信したよ コンタクトしていいかい――
好みの小早川ユウキの設定にしてあるが、やっぱムカつく。
このまま30秒反応しなければ、もう一度受信のアラームがして、さらに一分たてば先方にお詫びと共にリダイヤルの案内がされる。
今朝は出ないわけにはいかない、きっと大事な電話。
ノロノロと右手の肘から上だけを出してオイデオイデをする。コンタクトのサインだ。
――お早うミナコ、あなたのバイトが決まりました。最終確認です。引き受けますか?――
「も、もちろん、とっくに起きて準備してました!」
――それでは、58分後に迎えにいきます。経費は直ぐに振り込まれます。身軽な服装で待っていて――
58分だと……朝寝坊を見抜かれている、しっかりしなきゃ!
ミナコは、パジャマのまま浴室に向かった。
「お早う、お母さん」
「お早う、今朝は早いのね」
「うん、バイトの音声メールで目が覚めた。いや、目が覚めたらかな……」
「バイト、どのくらい?」
「一晩、明日の昼には帰ってくる」
「怪しげなバイトじゃないでしょうね?」
「ぜんぜん、ギャラ安いし……」
あとの言葉は浴室の中で、母親には聞こえなかった。
「有馬温泉、銀泉」
そう呟くと、瞬間で浴槽は有馬温泉の銀泉で満たされた。
「この春休みは、本物の温泉に入りたいなあ……」
浴槽に入ると、本物の温泉の感触はした。でも、これはバーチャルで、本物の湯ではない。今世紀の初めに開発されたバーチャルウォーターで、五感に働きお湯と感じさせる。指定をすればレーザー滅菌もやってくれ、昔のように、髪や体を洗う必要がない。
「シャンプー、リンス、オート」
『朝寝坊ですか?』
バスが余計な事を言う。ミナコはバスを寡黙に設定しているのだが、その寡黙なバスが声を出すのだから、ミナコには、かなり珍しい。いつもはバーチャルで時間を掛けてシャンプーをする。
「バイトが決まったの、あと42分で迎えが来るの」
『なるほど』
寡黙設定のバスは、それ以上余計なことは言わなかった。
地球の水の使用は300年前の1/5ほどに減っている。火星の地球化が大幅に遅れている。特に、大気の完成が遅れ、いまだに満足に雨も降らない。だから人間の飲料水、作物や家畜に必要な本物の水は地球から輸出している。
もう火星の人口は30億になろうとしている。反重力エンジンのタンカーが毎日莫大な量の水を送っている。だから地球は生活用水の大半をバーチャルウォーターに頼らざるをえない。本当は水の感触なんかなくとも、体も食器も洗えるし、学校のプ-ルだって、重力コントロールで、水無しで泳ぐこともできるが、人間は感覚の動物なので、あえてバーチャルウォーターにしている。
オートにしたので、髪を乾かすという女性ならではの楽しみもないが、まあ、バイトのためだ、仕方がない。
創業400年を超える永谷園のお茶漬けに野沢菜を載っけて流し込み、レーザー歯磨きに2秒、トイレに5分、スエットジーンズに、ブラ付きのキャミ、その上にルーズブラウスを着て出来上がり。メイクは迎えの車……と、思ったら、きっちり迎えの車が来た。
「お早う、乗って」
犬が喋った。
「わりと可愛いじゃん。オレ膝に乗っかってもいい?」
「だめ、ポチは助手席。どうぞ、後ろに乗って。あたしコスモス。ボスのアシスタント、よろしくね」
あの音声メールの声だ。350年以上前のアイドルの声に似ている。
「ドッグロイドですか?」
「ええ、ボスが好みで。ちょっとニクソイ設定になってるけど、意識的じゃなくて育て方の問題なんで、ごめんなさい。あ、あたしはガイノイド(女性型アンドロイド)いずれ分かることだから」
「そうなんですか。わたし林ミナコです。ミナコはカタカナ。この4月から大学なんで、それまで小遣い稼ぎしようと思って。あ、メイクしていいですか?」
「ええ、どうぞ……いい人ねミナコちゃん。履歴データでわかってることなのに」
「喋ることで、差別意識をごまかしてんだ」
「これ、ポチ。彼女の優しさよ。ポチもあたしも言わなきゃ本物と区別がつかない。びっくりして当たり前。あたしたちの方が違法なんだから」
「いえ、そんな……」
コスモスとポチの頭にロイドリングが回り始めた。
自分のせいかと思ったら、交差点を曲がったところにお巡りさんが立っていた。ロイドがロイドリング無しで戸外に出るのは違法である。
――でも、どうして、お巡りさんが居るって分かったんだろう――
かすかな疑問を持ったが、直ぐにメイクに集中した。反重力車とはいえ揺れる車の中でメイクするのは集中力がいる。
気が付いたらポチがルーズブラウスの下から潜り込み、大きく開いた襟元から顔を出していた。