第83話『壊れゆく世界』
「――いやー、それにしても今日は楽しかったな」
動物園を出た時にはもう日が沈みかけていた。山の向こうへと姿を隠していく夕陽を眺めながら、俺と葵雪は紅黒い空の下を歩いていく。
園を回っている間――正確には昼ごはんを食べた後から、ほとんどずっと繋ぎっぱなしの手は、すっかりお互いの体温で溶け合っていた。
「うさぎとの触れ合い広場が個人的に高評価よ。あのもふもふ感は小動物ならではのものね」
「すっかり和みきっていたもんな。ちなみに俺は、うさぎと触れ合う葵雪を見て和んでいた」
たくさんのうさぎに囲まれている葵雪はなかなかメルヘンチックだった。多分気づかれていないと思うが、うさぎと戯れ、だらけきった表情をしている葵雪を俺はきちんと写真に収めている。
「物好きね。あたしなんかを見てないで、うさぎを見てあげなさいよ。こんな機会滅多にないんだから」
「次の機会があれば、その時はきちんとうさぎを堪能させてもらう。今日は葵雪を堪能したから満足だ」
「今も堪能させてあげましょうか?」
言いながら葵雪は手を解くと、俺の腕に抱きついて、してやったりと微笑を浮かべた。
豊満な葵雪の胸が腕にぴったりと押し当てられ、服越しからでもはっきりと分かる重量感と柔らかさが脳に電撃を走らせる。歩く度に微かに揺れるせいで、ふにふにと腕が沈むのは最高にテンションが上がるのだが、下半身のテンションも最高潮を迎えそうになってしまう。
「ふふっ、可愛い反応ね。そこに丁度路地裏へ続く脇道があるけどどうする?」
「……そのシチュエーションが許されるのはエロゲの中だけだ」
嬉しい誘いを断りつつ、俺は葵雪の横顔を見る。抱きついてきているとはいえ、身長はさほど変わらないからほんの少し視線を落とすだけで様子を伺うことができる。
ほんといつ見ても綺麗な顔付きだと思う。形の整った小顔。二つの窪みに嵌められたアメジスト色の瞳は宝石のように美しく、白が強い肌はもう時期沈みきってしまう夕陽の残光を吸収したかのように、ほんのりと赤みを帯びていた。
もしかしたら、自分から腕に抱きついてきたくせして恥ずかしがっているのかもしれない。口に出したところで否定されるのは目に見えている。だから俺は、しばらくの間葵雪を見つめた後に視線を前に戻す。
「――あたしの顔を見ているのは楽しかった?」
「……なんで気づけるんだよ」
こいつ頭に目が付いてるんじゃねーだろうな……。
葵雪みたいな力があるのはともかくとして、頭に目があるとかいう奇っ怪な世界は勘弁して欲しい。
「何年、何十年……ううん、下手したら何百年を超えているかもしれない。あたし達の付き合いはそれほどまでに長いのよ? 修平の考えていることなんて手に取るように分かるわ」
「……」
「何度も言ってると思うけど、記憶があるってのは、そういうことなのよ」
この壊れた世界は、俺の想像を遥かに上回っていた。
果てしなく長い年月、葵雪は俺を想い続け、そして死を経験し、今を生きている。それがどれほどまでに辛いことなのか、記憶の無い俺にはやはり理解することはできない。
「……夕飯奢ってやるよ」
「ふふっ。あたしの記憶も安いものね。でも、修平のそういうところ嫌いじゃないわ」
そう言って葵雪は俺の腕から離れると、微かな花の香りを残して駆け出す。
そして、数メートル離れた位置でカツンと一際大きな音を立てて立ち止まると、雪のように白い髪を舞わせてこちらに振り返った。
「――好きよ、修平」
柔らかな笑顔と共に告げられた言葉。葵雪らしからぬその表情に、嬉しさよりも不安の方が大きく募り、そこで俺は果てしなくどうでもいいことに気づく。
葵雪の手にはスマホが握られていた。画面に何が映っているのかはっきりと確認はできない。でも、誰かとのメッセージ画面を開いているということだけは分かった。
「……葵雪?」
思わず手を伸ばす。
手が届く距離じゃないのは分かりきっていたけど、伸ばさずにはいられなかった。
「あたし達が迎える結末は決まっている。だから、伝えられるうちに伝えたいの。あなたに贈る『好き』を何度でも。この世界が終わるまでの間、何度も、何度だって、あたしは修平に『好き』を贈るわ」
そこで言葉を区切り、葵雪も俺に向かって手を伸ばした。けれど、当然のように手が触れ合うことは無い。
ついさっきまであんなにも近くにいたのに、今はこの距離が酷く遠く感じる。
「心配する必要は無いわ。あたしは最期まで修平のそばにいるから」
「……信じてもいいんだろうな?」
「あたしのことが信じられない?」
その返し方は卑怯だと、心の中で舌打ちをする。
不安は募る一方だったが、同時に心の奥底で小さな感情が芽生える。それを例えるならばそう、真っ白なキャンバスを黒い絵の具で塗り潰していくようなもの。心が穢れていくのを確かに感じた。
「――信じてる。だから、ちゃんと帰ってこい葵雪」
闇が内から溢れ出さないように、笑顔で蓋をして俺は葵雪を見送る。
「ええ。ご飯は次の機会に。またね、修平」
「ああ」
葵雪は俺に背を向けると、一度たりとも振り返ることなく群衆の中に姿を消した。
それと同時に、ポケットの中に入れていたスマホが震動してメッセージの受信を知らせる。通行の邪魔にならない位置に移動して確認してみると、差出人は何となく予想していた通り、小夏からだった。
「……すぐに帰るっと」
お腹が空いた。そう書かれただけのメールに返信をして、俺も群衆の中に紛れる。
葵雪とデートしていることを知っている。なのにこうしてメッセージを送ってくるあたり、何か大事な用事でもあると判断していい。
駅に着き、辺りを見渡してみても葵雪の姿は無かった。
虹ヶ丘町より賑わっているこの町でも、電車の本数は変わらない。時刻表を見る限り、前の電車は20分前に来ているから、先に帰っているわけではなさそうだ。
それから五分ほどして電車が駅のホームに到着する。
その間も葵雪は現れず、この町に残って何をしているのかという疑問が浮かんだが、今はまだ深入りするタイミングでは無い。
俺が行動を起こすとしたら、葵雪が行動を起こしたあと。その結果が俺の望まないものであれば、どんなことでもする。この世界はもう壊れているんだ。どうせリセットされるのなら何をしたって構わないだろう。
「くっ、くくっ……くははははははっ!!」
ああ……狂っている。何もかも狂っている。
この世界も、葵雪も、そして何より俺自身も、何もかも全て残らず平等に狂っている。何が正しくて、何がおかしいのか、もう判断がつかない。
俺以外誰も乗っていない車両に、狂った笑い声が反響していた。普段の自分からは想像もつかない壊れた笑い方に、俺は本格的に自分が壊れてしまっていることを自覚した。
※
「――帰ったぞー」
虹ヶ丘町に戻ってきた俺は、遠回りしてコンビニに寄り、夕飯を買ってから家に帰った。
リビングに入ると、ほろ苦い香りが漂ってくる。どうやら小夏が俺の帰るタイミングに合わせて、コーヒーを入れておいてくれたらしい。
「おかえり、お兄ちゃん」
「おう、ただいま」
買ってきた菓子パンをテーブルに並べていく。その中から小夏はメロンパンを選ぶと、いただきますも言わずに、もふもふと食べ始める。
俺は少し悩んだ末、焼きそばパンを食べることに決めた。封を切ると、香ばしいソースの香りが漂ってくる。一口齧り付き、数回咀嚼してから飲み込んだところで、俺は小夏を見据えた。
「それで? 葵雪とのデートを遮ってまで、俺に何の用があるんだ?」
「……」
小夏はメロンパンを食べる手を止める。そして、俺と視線を合わせてから口を開いた。
「決着を付けに行こうと思っているんだ」
「……決着?」
何のことかさっぱり分からず、思わずオウム返しをしてしまったが、一つだけ分かることがある。それは小夏の本気だということ。
虹ヶ丘町に転校してくる前、小夏はバスケ部に所属していた。全国クラスの実力を持っている小夏の強みは、小柄な身体を活かした超高速のスティールと、ほぼノーモーションから放たれる正確なシュート。そして――相手を射竦めるほどの威圧感。
その圧倒的な威圧感を、俺は今、全身で感じ取っていた。チームメイトですら恐れていたこの威圧感を前に、俺は小夏の本気の覚悟を知る。
「……もしかして、葵雪のところに行くのか?」
「質問返しで悪いけど、水ノ瀬さんから聞いたの?」
「いや、あいつは何も言ってくれなかったよ」
「そっか。まぁ、その通りだよ。水ノ瀬さんと決着を付けてくる」
「なんの? って、聞いてもいいか?」
そう訊ねると、小夏は顔を伏せて考え始める。そして、数十秒ほど経ってから顔を上げ、しっかりと俺の瞳を見据えてから口を開いた。
「お兄ちゃんの記憶に残っていない人についての決着だよ」
……ひよりのことを言っているのか?
すぐにその結論に至ったが、俺は知らない振りをすることに決める。
「ま、言ったところで分からないと思うけどね」
小夏は苦笑いを浮かべて、コーヒーを一口飲んだ。
それにしても。と、俺は小夏に悟られないように考える。単純な話、葵雪が消したはずのひよりの記憶が何故、小夏に残っているのか。そして、ひよりの記憶が残っているのならばどうして、今の今までそのことを黙っていたのか。
「兎にも角にも、私はその子について水ノ瀬さんと話し合う。どうしてあんなことをする必要があったのか、知る必要がある」
あんなこと――葵雪がひよりを殺したことを小夏は覚えている。思えば、小夏はあの日、葵雪がひよりに何かしたと察していた。
消したはずの記憶が残っている。葵雪の力がきちんと働いていなかったのだろうか。だが、仮にそうだとしても、黙っていた理由にはならない。
「お兄ちゃん。この世界は嘘で満たされているんだよ」
「どういうことだ?」
俺は知らない振りを装って訊ねる。
しかし、小夏は無言を貫いたまま答えてはくれなかった。このまま黙ったままだと、会話は平行線のまま終わりを迎えることはない。だから俺は一番気になっていることを聞くことにした。
「まぁ、それはもういい。だったら、どうしてそれを俺に話したんだ。わざわざ言う必要はないだろ。俺に何も告げずに、葵雪との決着を付けに行けばよかったはずだ」
「そうしても良かったんだけどね、やっぱりお兄ちゃんの記憶から私が消えちゃうのは嫌だから、保険をかけようかと思って」
その言葉を聞いて確信した。小夏は葵雪の記憶を操作する力のことを知っている。ああ……だからあの日、あんなことを言ったのか。
『――そう。何もかも無かったことになる。ううん、無かったことにされて、嘘に書き換えられるんだよ。そうしてお兄ちゃん達は、目の前の現実だけが真実だと認識することになると思うよ』
小夏はこの世界で起きていることを理解している側の人間であることは間違いない。ならば、残る問題はどうやって葵雪の干渉を逃れたのかということ。
「……?」
ふと、先程までの真面目な視線とは違う、熱っぽい視線を感じて顔を上げる。すると、いつの間にか俺の横に移動していた小夏が、視線の高さを合わせて俺のことをジッと見つめていた。
けど、向けられる視線とは反対に、小夏の表情は悲しげで、触れたら簡単に壊れてしまうガラス細工のような脆さを感じた。
「……本当はこんなことしたくないけど……ごめんね、お兄ちゃん」
「小夏? なに――っ!?」
それは一瞬の出来事だった。
甘く、そして切ない柑橘系の香りに包まれながら抱擁される。目と鼻の先に小夏の顔があり、俺の唇は小夏の柔らかい唇で塞がれていた。あまりにも突然のことに、流石の俺でも思考がフリーズしてしまい、咄嗟に対処することができない。
「……ねぇ、お兄ちゃん」
でも、俺が何かするまでもなく、小夏はゆっくりと俺から離れた。そして、胸が締め付けられるほど、泣きそうな笑顔を俺に向ける。
「私は……お兄ちゃんのこと、信じているからね」
そんな言葉を残して、小夏は予め用意しておいたショルダーバッグを掴むと家から飛び出していった。
俺は開かれたドアの先に広がる闇を見つめたまま、その場から動けないでいた。
信じているからね――その言葉が胸を締め付ける。
俺は……お前にそんな風に思ってもらえるような、真っ当な人間じゃない。ひよりの死をどうでもいいと一蹴し、この世界を楽しんでしまっている。
「……でも――」
これからどんな物語が紡がれるのか分からない。けど、お前が最期まで俺を兄として慕ってくれるのであれば、信じてるって言葉に込められたお前の思いに答えよう。
「そして――この世界を終わらせよう」
to be continued
心音です、こんばんは。
予定より少し長くなりましたが、『Episode of Ayuki』は残り二話+エピローグで完結します。
この世界を、終わらせましょう。




