第78話『人間らしさ』
「――みんな起きて!! お願い早く!!」
朝の目覚めは決して良いものとは言えなかった。
巡の悲痛な叫びに叩き起された俺たちは、半泣きになっている巡を見て揃って焦りと戸惑いの色を見せていた。
「た、大変なの!! どうすれば……!!」
「お、落ち着け巡。とりあえず事情を説明してくれないとこっちには何も伝わらないぞ」
「ひよりちゃんがいないの!!」
「は? ひよりが……いない?」
言われて気づく。テントの中にひよりの姿は無く、本来そこにいるべきひよりの場所には、綺麗に折り畳まれた寝袋があり、それは俺が昨日寝る前の状態と同じだった。
ドクン――。心臓が激しく脈打った。
氷を背中に入れられたようなゾワッとした悪寒が全身を駆け巡り、じわじわと体を蝕んでくる。
何かとてつもなく悪いことが起きている。言葉にせずとも明らかなことだった。
「夜から戻ってきてない……ってことだよな。遭難……はないか。俺や小夏ならともかく、地元民であるはずのひよりが一晩迷うことなんてありえるか……?」
「……川に落ちたとか」
小夏がぽつりと呟く。
一瞬想像してしまった光景を慌てて振り払うが、可能性として捨てきれない以上、簡単に消し去ることなんて出来やしない。
「……縁起でもないこと言うな」
「そ、そうなんだよ……まだそうとは決まってわけじゃない……。き、きっと家に戻ってるんじゃないかな! 忘れ物に気づいて戻ったはいいけど、そのまま疲れて寝ちゃったとか、きっとそんな感じだと思うんだよ」
捲し立てるように言葉を並べる椛。
比較的冷静でいるように見えるが、いつもほんわかとした雰囲気は完全に消え去っていた。
「もし仮に椛の言う通りだとしても、あたし達の誰にも連絡を入れずにそんなことするかしら。それにほら、これを見てみなさい」
ひよりの寝袋の傍から葵雪が何かを拾い上げ、俺たちの前に掲げる。
葵雪が持っていたのは鍵だった。形的にも家の鍵であることは間違いない。となると必然的に家に戻ったという可能性は消える。
無言の空間は重たい雰囲気に満たされていた。
葵雪は鍵をひよりの寝袋の上に放り投げると、無感情に腕を組む。
何を考えているのかはその表情から読み取ることはできない。ただ、どうするの? と、訊ねるように俺たちの顔をぐるっと見渡し、最後に俺の元でその動きを止めた。
アメジスト色の瞳が俺を覗き込む。昨夜は綺麗に見えたその瞳が、今は何故か怖かった。
けれど、見えない糸で縛られているかのように、俺は葵雪から視線を逸らすことができない。
「……みんなで、探しに行こう」
絞り出すようにそう答えると、ふっと体が軽くなる。
葵雪の視線は俺から外れていた。解放されたことを知り、俺は一度深呼吸をして気持ちを落ち着ける。
冷静さを失ってはいけない。こういう時こそ落ち着いて行動する必要がある。
「――見つけたらすぐにメッセージ送るから、私は先にひよりちゃんを探しに行くね!!」
「あ、おい!! 巡!?」
走り去っていく背中に慌てて声を掛けるが、聞こえているのか、聞こえていないのか、巡は一度も振り返ることなく森の中へ姿を消した。
焦る気持ちは分かる。けどそれ以上に、巡の態度に焦りを感じていた。巡は冷静に物事を進めていくタイプだと俺は思い込んでいた。実際、俺たちの周りで起きている不可解な現象については、自分なりに分析して解明しようという、冷静さがあってこその意欲を見せている。
「……わ、わたしも探しに行くんだよ!」
「待て、椛」
俺はテントから出ていこうとする椛の肩を掴む。
今は一人でも多く冷静でいてくれる人が欲しかった。
「お前は一人で行動するな。今すぐ巡を追いかけろ。椛の足ならまだ追いつける」
「……っ。了解したんだよ!!」
俺の意を汲み取ってくれたのか、椛は表情を引き締めてテントを後にした。
多少差は開いてしまっているが、元陸上部の椛なら簡単に追いつくことができるはずだ。巡のことは椛に任せて、俺たちも行動を始めよう。
「俺たちは先に行った二人とは反対方向を探しに行く」
「分かった」
「了解よ」
テントから出た瞬間、朝の日差しを反射して光る川が眩しくて目を細める。いつもと何一つ変わりない朝を迎えることが出来ていたのなら、この眩しさを不快に感じることは無かった。
体力を温存するために決して走ることはしない。
それに、森の中に入るということは地面が不安定になるということ。無闇に走って怪我でもしたら、それこそひよりの発見が遅れてしまう。
森に入ると、風に吹かれた木々がざわざわと揺れる。そのざわめきが心の不安を表しているようだった。
時折、ひよりの名前を叫びながら森の中を進んでいく俺たち。奥へ奥へ進んでいくと、まだ朝だというのに辺りが段々と暗くなってくる。頭上を濃い緑が覆っているからだ。
果たして、この森はこんなにも深いものだっただろうか? 日差しを遮られているせいで光が届かず、冷蔵庫を開けた時のような冷気が常に肌を撫で続けていた。
「……花澤さん、何処に行っちゃったんでしょうね。水ノ瀬さん、何か知りませんか?」
葵雪の方は一切見ず、言葉だけを投げかける小夏。
前方を見るその瞳は鋭く、黒い感情を宿していた。俺はどうして小夏がそんな目をするのか分からず、黙っていることしかできない。
「知らないわよ。そのあたしなら知ってるみたいな言い方やめてくれない? 癪に障るわ」
葵雪は歩みを止め、吐き捨てるように答える。
小夏も合わせて立ち止まるが、言葉による攻撃は止まることがなかった。
「昨日、水ノ瀬さんトイレに行くって行って出ていってからしばらく戻ってきませんでしたよね。しばらくと言っても、10分程度で私は寝てしまったのでそれ以上のことは分かりません。けど、戻ってくるのが遅かったのは事実ですよね?」
ああ……この流れは良くない。
今すぐにでも止めるべきなのに、俺の口は接着剤でくっつけられてしまったように固く閉ざされたままだった。そうしている間にも会話はどんどんと良くない方へ進んでいく。
「……何が言いたいのかしら?」
「分かりませんか? 花澤さんと会っていたんじゃないかって聞いているんですよ」
「……」
葵雪は見たこともない恐ろしい形相で小夏のことを睨みつけていた。けれど、俺が本当に恐ろしかったのはそこじゃない。
「……何を笑っているんですか」
そう。葵雪は口元を吊り上げて笑っていた。
流石の小夏も葵雪の変化に戸惑いの色を見せる。無意識のうちに一歩後ずさり、俺の服の袖を掴んだ。
微かな震えが服越しに伝わってくる。こんな風に人を恐れる小夏を見たのは初めてのことだった。
「もし仮に、あたしがひよりと会っていたって言ったらどうするのかしら?」
浮かべた不気味な笑みを崩さずに問い掛ける。
アメジスト色の瞳が向くその先にいるのは俺ではなく小夏。直接目の合っていない俺ですら、全身が震え上がるような恐怖を感じているのだ。真っ向から見つめられている小夏の恐怖は俺なんかの比にならないだろう。
「……知ってることを教えてください。今は少しでも情報が必要なんです」
「何も知らないわ」
即答だった。
けど、その回答が真実だとは思えない。葵雪はこの状況を楽しんでいるように見える。まだ恐怖あったけれど、葵雪の態度が頭に来て、俺はここでようやく話に口を挟む。
「葵雪、そろそろやめろ。今はふざけている場合じゃないってことくらいお前だって分かっているだろ。何か知っているなら今すぐ言え」
キツめの口調で言うと、葵雪はそれ以上こちらの気に障ることを言うことはなく、大きなため息を吐いた。
「……風巡丘よ」
「えっ?」
「風巡丘に行くとひよりは言っていたわ」
やっぱり知っていたのかとか、どうして黙っていたんだとか、言いたいことは山ほどあったが、口論は移動しながらでもできる。
椛にメッセージを送りながら俺と小夏は風巡丘の方向へ駆け出した。
「……どうしてすぐに教えてくれなかったんだよ葵雪。お前が初めから教えてくれていたらこんな苦労をすることはなかったんだぞ」
「どうせもう間に合わないからよ」
「……は?」
聞捨てられない言葉だった。
間に合わない……? 葵雪は一体何を言っているんだ? その言い方じゃまるで――
「くっ……」
自然と走る速度が上がる。ただならぬ不安に押し潰されてしまいそうだった。それでも僅かに残っている希望を信じて俺は走り続けた。
森を抜ける頃には葵雪の姿が見えなくなっていた。
後ろから微かに足音が聞こえるから一応追ってきてはいるのだろうが、葵雪の体力では俺と小夏のペースで走り続けるのは不可能だと判断した俺は、一瞬だけ振り返って叫ぶ。
「葵雪ー!! 俺たちは先に行く!! 何かあったらメッセージでも電話でもいいから送ってくれ!!」
返事は当然のように聞こえなかったが、これでいいだろう。
「……ねぇ、お兄ちゃん」
再び走り始めたところで小夏が話しかけてくる。
その口調は妙に落ち着いていた。走りながら小夏の横顔を覗き込むと、何か覚悟を決めたような表情で前だけを見つめていた。
「多分私は今からすごく変なことを言うと思う。だけど、最後まで聞いて欲しい」
「な、なんだよ。こんな時に」
声が上擦ってしまう。小夏は苦笑すると、小さく息を吐いてゆっくりと言葉を紡ぎ始める。
「これから私たちはきっと……見たくもないものを見つけてしまう。小此木さんは取り乱して、泣き喚くかもしれない。風見さんは……どうだろ。慣れているからきっと悔しがるんだと思う。そして、私はもう水ノ瀬さんの態度を見て諦めている。だから何も思わない。ありのままの現実を受け入れることに決めた」
諦めている――その言葉が俺の胸に突き刺さる。
そんなことを言われてしまったら、もうどうしようもないじゃないか。葵雪の言葉を聞いていなければ、まだ希望が持てた。でも、聞いてしまったのであればもう、それを無かったことにすることはできない。
耐えていたモノが瓦解していく。目眩のような感覚に襲われ、足取りが不安定になる。
「でもきっと――みんなは大丈夫」
今にも倒れそうだった俺を何とか立て直してくれたのは、そんな確証も何も無い一言だった。けど、次の一言が俺の不安を加速させる。
「――何もかも忘れてしまう」
「忘れて……しまう?」
「そう。何もかも無かったことになる。ううん、無かったことにされて、嘘に書き換えられるんだよ。そうしてお兄ちゃん達は、目の前の現実だけが真実だと認識することになると思うよ」
小夏はそこで口を閉ざし、走る速度を上げた。話はここで終わりということなのだろう。
黙ったまま走り続けていると、前方に巡と椛が走っているのが見えた。そこはもう風巡丘の入口で、こちらに気づくことなく登っていった。
すぐに俺たち二人も風巡丘の前に着き、あまり舗装されていない道を突き進んでいく。
『――い、いやぁぁぁぁぁあああああ!!』
「椛!?」
その悲鳴が聞こえてきたのはそれからすぐのことだった。
「……やっぱりダメだった」
そんな呟きと共に、横並びで走っていた小夏の姿が視界から消える。
振り返ると小夏は足を止めて俯いていた。何か声を掛けようとしたが、地面に零れていく雫を見て俺は口を閉ざした。
「……っ」
俺は何も考えずに歩き始める。走る気力はもう残っていなかった。漠然と足だけを動かしていると、途端に視界が晴れ、あまりの眩しさに一瞬目を瞑った。
目を開けると、丘の頂上に立つ広葉樹の根元に巡と椛がいるのが見え、俺は二人の元へ足を動かす。
「……あっ」
頂上に辿り着くと、力なく座り込む巡と、泣き崩れている椛の前にはひよりの姿があった。
「ひより……。こんなところにいたんだな」
「……」
「探したんだよ。朝っぱらから巡がお前がいないって騒いで大変だったんだぞ……?」
「……」
「なぁ……何か言ってくれよ……。頼むからさ、返事をしてくれよ……っ」
「……」
ひよりは胸元に真っ赤な花を咲かせていた。
人の生命の色で染められた白のワンピース。その中心より少し上の位置に生える銀色の刃が、ひよりの大切な命を奪っていた。
「――お前がやったのか、葵雪」
背後に人が立つ気配を感じて、俺は振り返ることなくそう訊ねる。
「ひよりはあたしと修平だけの秘密を知ってしまったのよ。だから――こうするしかなかった」
「……俺たちは人間だ。話せば分かることだってあるだろ……!?」
「話しても分からなかったからこうなっているのよ」
あくまでも冷静に言葉を返す葵雪からは人間らしさというものを感じることができない。
大きなため息を吐いてから葵雪は腕を組む。そして人を殺したと思えないほどまともな目で俺を見据えた。
「話を変えさせてもらうわ。ねぇ、修平。昨日あたしが言ったこと覚えているかしら? 本来なら、ひよりが死んだ時点で世界は繰り返されるはずだった。でも、今に至るまで何の変化もない」
「……そうだな」
「あたしはその理由を知る必要がある。その理由こそ、この世界の本当の秘密だとあたしは思っているから」
だから――と、葵雪は言葉を続けて微笑む。
悪魔のような笑顔なのに、それが愛おしく思えてしまっているあたり、俺の心はやはりと葵雪と同じで壊れてしまっているのだろう。
「修平にも協力してもらうわ。けど、そうするにはきっと、あたしがひよりを殺した記憶は障害になる。申し訳ないけれど、ここにいる全員には――ひよりのことを忘れてもらう」
「忘れてもらう、か。そんな都合のいいことができるのなら今すぐにでも忘れさせてくれ。お前のことが好きだという気持ちと、ひよりを殺したことに対する恨みがごちゃ混ぜになってるんだ」
「……こんなことをしても、修平はあたしのことを好きって言ってくれるのね」
「記憶が無い分葵雪よりはマシだが、俺だってこの世界の繰り返しの中で頭がおかしくなっているみたいでな」
どの世界でも似たようなことが起きているのならば、積み重なっていく現実が既視感となって心を削っていく。自分では気づかないうちに使い古した雑巾のようにボロボロになっているのだ。
「似た者同士は惹かれ合うのかしら? まぁ、そんなことは今はどうでもいいわね」
葵雪はひよりの方へ振り返り、何かを呟く。
その声はあまりにも小さくて聞き取れなかったけれど、風に吹かれて揺れた髪の隙間から見えた横顔を見て俺は驚いていた。
「……なんだよ、俺の勘違いだったのかよ」
悲しげにに笑う葵雪。そこにはまだ人間らしさが残っていた。
「――さぁ……終わりと始まりを迎えましょう」
そう言った直後に、葵雪は言葉を続けた。
その時に口にした『ひより』というのが何なのか、俺にはもう分からなかった。
to be continued
心音です、こんばんは。
今回の話で、この世界でのひよりの役割は終了となり、残り5、6話程度で葵雪ルートは完結します。
それでは次のお話でまたお会いしましょう。




