第77話『忘れ去られた記憶』
夕飯のカレーを食べ終わる頃には、ひよりは元の調子を取り戻しているように見えた。内心何を考えているかは分からないが、少なくとも表面上だけは普段通りのひよりを演じている。
それは割れた花瓶をただのテープで修繕するのと同じで、中に水を入れ続ければ修繕した箇所から水が少しずつ滲み始め、やがては耐えきれず決壊する。
今のひよりの心はそんな花瓶のように不安定。それだけは絶対に忘れてはならない。異変に気づくのが少しでも遅れてしまえば、取り返しのつかないことになってしまうことだって充分考えられる。
「――いい夜ね、修平」
「だな。自然の中を散歩するなんて初めてだが、こういうのも悪くはない」
だから少しでもひよりのことを考えていたいという気持ちもあった。しかし、恋人をおざなりにする気もなく、ひよりのことは信頼できる小夏に任せて俺は今こうして葵雪と夜の散歩を楽しんでいる。
夜空から降り注ぐ月明かりがゆったりとした小川を照らしてキラキラと光っていた。無数の宝石が流れているような幻想的な光景を見て葵雪は微笑を浮かべて、長い白髪をサッと掻き上げる。
宝石よりも美しい葵雪の横顔に胸が高鳴る。今だけはひよりのことを忘れて、葵雪との時間を大事にしようと心に決める。
「思えば、こうして完全に二人きりの時間って久しぶりかもしれないわね」
「隣町にデート行った時も二人きりと言えば二人きりだったけど、静かではなかったよな。騒がしいのは好きだけど、葵雪と二人きりの時は今みたいに落ち着いている方がいい」
「言ってくれるじゃない」
葵雪は苦笑すると、足を止めて目を瞑った。
何を求めているのかあまりにも分かりやすい。俺も苦笑しながら葵雪の元へ寄ると、潤んだ唇にそのままキスをした。
「……ンっ」
触れ合った瞬間の甘い快楽。マシュマロのように柔らかい葵雪の唇を啄むように何度もキスを交わす。
唇を重ねる度に気持ちが昂っていく。けど、理性だけは保たなければならない。だから、今はこれが最後だと言うように優しいキスをして唇を離す。
「――ふふっ。修平、顔真っ赤よ?」
「……まぁ、そりゃ多少は恥ずかしいし。てか、葵雪だって赤くなってるぞ。……俺よりは余裕ありそうだが」
「そうね。キスくらいなら何の問題もないわ」
一遍の曇りもない表情で答えられ、俺は腕を組んで唸り声を上げる。
「なんだろ……。負けた気分だ」
「勝負事じゃないんだから。修平だってそのうち慣れるわよ」
「ははっ。じゃあ俺が慣れるまでたくさんしないとな」
ふざけ半分でそう言うと、葵雪は俺に向かってゆっくりと手を伸ばして頬に触れてきた。
ひんやりと冷たい手は火照った頬に心地良い。じんわりと染み込んでくる葵雪の熱が、辛うじて保っている理性を崩しに掛かってくる。
「……ふふっ」
俺の押し殺している感情に気づいたのか、葵雪は不敵に笑うと、小さな舌で自分の唇をなぞる。そしてそのまま顔を近づけてきて、今度は自分からキスを贈ってくれた。
「……ンンっ、ふっ、じゅる……ちゅ」
けど、さっきまでしていた重ねるだけの優しいキスではなく、葵雪の舌が俺の唇の間から口内に入り込んで中を掻き回してきた。体験したことのない快感が全身を駆け抜け、早くも理性が崩壊しそうになる。
「あむ、んっ……じゅる。ちゅぱ、んっ……じゅる」
舌同士を絡め合い、互いの唾液を交換する。
卑猥な音が静寂に包まれている川原に響いていたが、俺たちは全く気にすることなく、ディープキスに没頭していた。
葵雪に負けじと、俺も口内に侵入を試みるが、隙間を少し割って入ったところで葵雪の舌がそれを阻止する。そしてそこで再び絡め合い、唇を離す頃にはお互いの口元は唾液でべったりだった。
「大人のキス、すごいでしょ?」
「ああ……。脳が蕩けそうになった。それに、葵雪をたくさん感じられるから、心も体も満たされる」
「喜んでもらえて何よりよ。けど……残念。目標は達成出来なかったみたい」
「……?」
首を傾げると、葵雪は俺の瞳をジッと見つめて口元を吊り上げる。
葵雪のアメジスト色の瞳が月明かりに反射して妖しく光った。これは何かとてつもなく意地悪なことを考えている人の瞳だ。
「理性、壊してあげようと思ったのに。そう簡単には落ちないみたいね」
「……必死に押さえ込んでいるからな」
頭の中で天使と悪魔が喧嘩を始めていた。
正直、今すぐにでも押し倒したい。しかし、感情に流されてこんなところで葵雪に襲い掛かるようなことをするのは嫌だという気持ちもある。
「――ねぇ、修平? 我慢する必要ある?」
甘い毒が耳から脳へと伝わって、理性の鎖を断ち切るように俺を誘惑する。
「こっちから誘ってるのよ? なら……迷う必要は無いと思うのだけど?」
「……お前は初めてが外でいいのかよ」
辛うじて残っている理性で、精一杯の言葉をぶつけるが、葵雪はこれっぽっちも動じている様子を見せることは無かった。
答えの代わりに、葵雪は俺から視線を逸らして夜空を見上げる。月明かりが照らす葵雪の表情は儚げで、俺はすぐさま自分の発言が失言だったと気づく。
「……そう。あたしはこれまで何度も修平に抱かれたことがあるわ」
この世界は繰り返している。ならば、俺と葵雪の間でそういうことがあってもおかしくない。
「修平にとっては初めてでも、あたしにとっては違う。あたしには修平に抱かれた記憶が残っている。無論、あたしが修平を殺した記憶だってね」
「……それ、今言うか?」
あまりにも不適切なタイミングだと思った。
いや、ある意味ではベストタイミングなのかもしれない。おかげでだいぶ冷静さを取り戻すことはできた。
夜の静けさに似合う冷たい風が俺たちの間を吹き抜けた。葵雪はなびく髪を手で押さえながらゆっくりと顔を下ろす。
風に揺れていた草花は時間を止められたようにピタリとその動きを止め、本当の静寂が俺と葵雪を包み込んだ。
「――物語はいつもハッピーエンドとは限らない」
静寂を裂いたのは葵雪の方だった。
何を伝えようとしているのか、その真意を見抜くために俺は、口を挟むことなく葵雪の次の言葉を待つ。
「それはこの世界の真理とも言えるわ。何もかも幸せな結末で終わるのであれば、あたし達はこうも苦労して生きてなんかいない。大空を飛ぶ鳥たちのように、もっと自由に生きている」
不自由に縛られた世界。
本当の自由を持っている人間なんて、数える程しかいないのだろう。
「けど、この現実にはそんな自由は無い。あたし達は常に不自由の中で生きているのよ。学生は学校という監獄に押し詰められ、社会に出ればこの世の中がどれだけ理不尽なのかを思い知ることになるわ。上下関係だってそう。可能性を縛る鎖のようなものよ。下の人間は上の人間の言うことを聞かないといけないなんて馬鹿馬鹿しい」
葵雪は吐き捨てるように言葉を並べるが、それでも浮かべている表情にだけは変化は無かった。
それはこの現実を受け入れているという何よりの証拠のように俺には思えた。
「あたしだって最初のうちは頑張ったわ。けど、何度やっても同じ結末の繰り返し。だから、繰り返すたびに少しずつ、頑張ろうという気持ちは消えていったわ。そしていつしか今のあたしが出来上がっていた」
自虐的な笑みを浮かべ、乾いた笑い声が降り始めたばかりの雨のようにポツリ、ポツリと落ちる。
「そもそもよ。世界が繰り返すなんて非現実的なことが起きている時点で、あたし達が今いるここは現実じゃない。これは夢なのよ。繰り返しているのは現実じゃなくて、現実に酷似した永遠の夢。ここは夢の世界よ」
「……なら、この世界はいつから繰り返しているんだ? ……いや、それよりもだ。何のために繰り返しているんだ?」
「……さぁ、知らないわ」
妙な間を開けて葵雪は答える。
直感的に何かを知っているのだと察したが、深入りすることはやめておくことにした。
「これまでにどんな世界があったんだ? そこで俺と葵雪はどう過ごしていたんだ?」
「どうしてそんなことが知りたいのかしら?」
「葵雪には記憶があって、俺にはお前に殺されたっていう幸せだとは決して言えない記憶しかない。どうせなら楽しかった思い出を共有したいんだよ。それは話に聞いただけの偽りの記憶として俺の中に残る。だけど、葵雪がいいと言うなら、お前との記憶を――思い出を、少しでも共有していたい」
俺の言葉に驚いたのか、それとも嬉しかったのか、葵雪はここで久しぶりに表情を崩し、口元に手を当ててクスリと笑う。
そして、背後に浮かぶ月をバックに両手を大きく広げた。俺はその幻想的な光景に目を奪われる。
「――なら、少し前の世界の話を教えてあげるわ。これは修平が誰とも結ばれなかった、ある意味では一番平和的な世界。けど、ある意味では一番残酷な結末を迎えた世界の話」
そして舞台の幕が開く。
葵雪は昔を懐かしむように目を細め、その場に座って緩やかに流れる川を見る。俺は葵雪の隣に腰を下ろし、ゆく宛もなく置かれているだけの手に自分の手を重ねた。
「なんであたしの世界の話をしないのかって思っているでしょ?」
「多少。でも、その世界にも葵雪との思い出があるのであれば聞きたい」
「あたしとの思い出というよりは、みんなとの思い出になるわね。最初に言った通り、この世界は修平が誰とも結ばれなかった――恋人同士になることがなかった世界の話だから」
そうして葵雪は語り出す。葵雪の言う、ある意味では一番平和的で、一番残酷な世界の話を。
語りは俺との出会いから始まり、みんなと仲良くなるまでの日常の話。バカ騒ぎをして、共に笑って、俺たちは親睦を深めていた。
その世界のことを語る葵雪の口調は弾んでいて、ついさっきまで暗い話をしていたのを忘れそうになってしまう。
「昼間にやったゲームあるじゃない? この世界では全く同じことをしたのよ。その時は修平と同じチームでね、何が酷いって修平はあたしのこと約立たず認定して囮に使ったのよ?」
「我ながら酷いことしてるな。いやでも、その世界の俺の気持ちは分かる。だって葵雪、体力もそうだが、運動神経もいい方じゃないだろ」
「壊滅的よ。でも……楽しかった。嫌なことを忘れて、久しぶりに楽しいと思える時間だったわ」
そこで言葉を区切ると、葵雪は手のひらを返して俺の手を強く握りしめる。
唇を噛んでいるらしく、じんわりと血が滲んでいるのが見えた。悲しみや後悔。そういった負の感情が葵雪を傷つけている。
「けどね、そんな幸せな時間が永遠に続くことはなかったわ……。さっき言ったわよね? これは夢だって。夢はいつしか醒めてしまう。それがどんなに楽しい夢だとしても、永遠に続けることは叶わない」
「……何があったんだ?」
「何があったのか答える前に、修平には一つだけこの世界――いえ、この夢が繰り返す条件を教えてあげる。この夢はね、あたし達の中の誰かが死ぬと繰り返す仕組みになっているのよ」
「……」
驚きのあまり声が出なかった。
誰が、何のためにそんなことをしている?
必死になって考えようにも、受け入れなければならない事実があまりにも大きすぎて頭が混乱する。
「――七夕。その日は七夕で、みんなで星を見ることになっていたわ。でも、それは叶わない夢で終わった」
込み上げてくる何かを吐き出すように、葵雪は大きなため息を吐きながら手元の小石を一つ拾い上げた。
少しの間それを手の上で転がし、やがて決心したのか小石を握りしめ、川に向かって投げ込んだ。
「まず――ひよりが死んだわ」
小石が着水すると同時に広がった波紋は、俺の心の揺らぎを表しているようだった。
「風巡丘を大きく迂回して進んだ先に山があるのだけど、あたし達はそこの頂上で星を見るために暗い山道を登っていた。あたしは知っての通り体力が無いから必死に足を動かしたわ。だから具体的な距離は分からないけれど、多分半分くらい登った辺りだったかしらね? 地震が起きて、割れた地面にひよりが飲み込まれた」
「……それで世界はリセットしたのか?」
「いいえ。『まず』って言ったはずよ」
首を振りながら葵雪は悲しげに微笑む。
悲しみを押し殺し、感情に身を任せる訳でもなく、ただ淡々と事実を語り続ける。
「次に死んだのは他ならぬあたしよ。地滑りに巻き込まれて死んだ。だから、この世界の話はこれでおしまい。あたしが死んだ後に何が起きたのかは分からないわ。そして世界は繰り返し、目が覚めた時には春に戻っていた」
「そうか……」
俺にはそう答えることしかできなかった。
それ以上に、何を言ってあげるのがベストなのか俺には分からなかった。
だから俺は優しく葵雪のことを抱き寄せ、雪のように冷たい頬に口付けをした。
「ふふっ。どうしたの?」
「なんて声を掛けてあげればいいのか分からなかったから行動でどうにかしようかと」
「優しいわね。でもどうせなら――」
おもむろに葵雪は肩を掴んでくる。そしてそのまま俺のことを押し倒してきた。
「――こうしてくれても良かったのよ?」
言いながら俺の上に覆い被さってきた葵雪。
愛しいモノに触れるように優しく、綺麗な指が俺の頬を撫でる。ただ触れられているだけだというのに、鎮まっていた気持ちが昂ってくる。
「――この世界での、あたし達の愛を確かめ合いましょう、修平」
月明かりが映す俺たちの影はぴったりと重なり合っていた。風の音も、草木の音も、俺たちがこれからすることを感じ取って静まった。
※
「――戻ったぞー」
行為の後処理を済ませ、俺と葵雪は揃ってみんなのいるテントに戻ってくる。
「おかえりなんだよ~。二人きりのお散歩は楽しめたかな~?」
「おう。なかなか充実した時間だった」
テントに入ると、入り口の近くでスマホを弄っていた椛がほんわかとした笑顔で出迎えてくれた。
「おかえり、お兄ちゃん」
「おかえり、二人とも」
その少し奥では小夏と巡がトランプでスピードをして遊んでいた。二人ともかなり真剣なようで、そこだけ空気が張り詰めていた。
「……あれ? ひよりはどうした?」
「そういえば姿が見えないわね」
テントの中にはひよりの姿だけがなかった。
ゆったりとした雰囲気がテント内を包んでいるのは、元気いっぱいのひよりがいないからだろう。
「ひよりちゃんならその辺を散歩しているはずなんだよ~。なんか一人になりたいんだってさ~。眠いなら先に寝てて良いって~」
「ふーん? じゃあ俺は寝るか。葵雪はどうする?」
「……そうね。お花を摘んだらあたしも寝ようかしら」
「……? そうか」
一瞬、葵雪の口元が歪んでいたように見えた。
でもそれは本当に一瞬のことで、瞬きした次の瞬間には元の表情に戻っていた。
「わたしも寝ようかな~。お昼にいっぱい遊んだから疲れちゃったよ~」
「……寝袋入るの早いな?」
ちょっと目を離した隙に椛は寝袋に入っていた。
「私も寝る。風見さん、明日も勝負です」
「いいよー。勝ち逃げはさせないからね」
どうやらスピードの勝負は今のところ小夏が勝ち越しているらしい。兄としてはこのまま小夏が勝利を収めてくれることを祈っていよう。
そんなことを考えながら寝袋に入ると、途端に眠気が襲ってくる。昼間の疲れに加えて、先ほどまでの葵雪との行為が、残っていた体力を使い果たしていたようだ。
「――おやすみなさい、修平。いい夢を」
高いところから落ちるように、俺の意識は眠りの世界へと誘われていく。
ぼんやりと薄れていく視界に最後に写ったのは、歪な笑みを浮かべた葵雪の姿だった。
to be continued
心音です。こんばんは。
さぁ――終わりの始まりです。




