第76話『始まりの夜』
逢魔時という時間を知っているだろうか?
夜に近い夕方。空はオレンジよりも黒の方が濃く、昼と夜が移り変わる時間帯。黄昏時と言った方がもしかしたら伝わりやすいかもしれない。
さて、この逢魔時だが、大禍時と書く場合もある。
怪しいモノに会いそうな時間やら、著しく不吉の時間と言われており、実際、四方が森に囲まれていると本当に何かが出そうな雰囲気が漂っている。
昼間見ていたのと同じ景色とは思えないほど暗い。
逢魔時でこれなら、本当の夜が訪れた時、この無限に続きそうな闇はその濃さを更に増して、俺の心に不安の種を植え付けるのだろう。
「――修平? どうしたの?」
突然後ろから声を掛けられ、思わずビクッとする。
冷静を装って振り返ると、苦笑する葵雪がそこに立っていた。
夕飯の支度の途中なのだろう。エプロン姿の彼女の姿を見て俺はホッと一息つく。ただ、胸の奥に感じている妙な胸騒ぎだけは消えることがなく、ホッと一安心して吐いたはずの息は、ため息のようになっていた。
「どうしたのよ、ため息なんて吐いちゃって。あ、もしかして夜の森が怖いとか?」
「いや、そういう訳じゃないんだがな……」
別段、怖いのが苦手という訳では無い。
ただどうしてか分からないが、この暗さに妙な胸騒ぎを感じているだけだ。
何気なく空を見上げると、見える範囲のほとんどが黒で埋め尽くされていた。あと数分もしないうちに夜が訪れる。
町の明かりが少ない分、多少空に明るさが残っていても星の輝きがよく見える。田舎町の夜空は都会とは大違いで、引っ越してきた当初は夜空を眺めるのが日課になっていた。
「なぁ、葵雪。今夜少し散歩しないか?」
「散歩? 別にいいけど、見ての通り森は真っ暗だから危ないわよ?」
「川辺を歩く感じ。月明かりを遮るものはないし、危険は少ないだろ?」
「それなら安全ね。それで? どうして突然散歩しようなんて思ったのよ?」
ちらりと葵雪は後ろを見る。
そこには、はしゃぎながら夕飯のカレーを作っている巡たちの姿があり、葵雪はそれを気にしているようだった。
「椛が気を遣って俺と葵雪の時間を作ってくれるらしいから、その好意に甘えさせてもらおうと思ってな」
「なるほどね。なら、巡たちを気にすることなく、修平との時間を楽しめるわ」
葵雪は嬉しそうに微笑むと踵を返す。
一瞬だけ見せてくれた笑顔だけを見れば葵雪は普通の女の子だ。でも、実際は違う。人は見かけによらぬもの。葵雪の本性はこの森よりも遥かに黒く、底知れぬ闇が潜んでいる。
散歩の目的は葵雪と二人きりになりたいという如何にも恋人同士らしい理由だ。
しかし、一番の目的は俺が今日の昼間に気づいてしまったこと――この世界が繰り返していることを、ほぼ確実に何かを知っている葵雪に聞きたかったからだ。
「ほら、修平。あんたもそろそろ手伝いなさい。タダ飯は許されないわよ?」
「悪い悪い。とは言っても何を手伝えばいいんだ? ぶっちゃけやることなんてほとんど無いだろ」
「焚き火が消えないように見ていて。ご飯の方はあたし達に任せてくれていいから」
了解。と、返事をして焚き火の元へ向かう。
焚き火を囲むように置かれた大きめの石の一つに腰を下ろし、薪を一つ火の中に投げ入れると、すぐに火が移ってメラメラと燃え始めた。
ゆらゆらと揺らめく火を見つめるだけの作業。他に特にやることがないというのと、昼間に動き回っていた疲れからか、不意に睡魔が襲ってくる。
後から聞こえてくるみんなの楽しそうな声と、焚き火の燃える音がいいBGMになり、俺の意識は眠りの世界に落ちていく。
暗転していく世界――徐々に瞼が落ちているのだから当然だ。
「……?」
暗くなった視界に蒼白い光がぼんやりと浮かんだ。
目を瞑っているはずなのにどうして? そんな些細な疑問は、少しずつ鮮明になっていく光に紛れて、薄れて……消えていく。
やがては光は一つの風景を描き出す。
緑に埋め尽くされていた丘。けどよく見てみると、白い無数の何かがところどころにあった。
――風車だ。風に吹かれても回らない特別な風車。となると、この場所は風巡丘ということになる。
丘の頂上の方には大きな広葉樹が植えられており、その木の根元に誰かが立って――泣いていた。
『――こんな壊れた世界、もう嫌よ……!!』
「……っ!!?」
頭に流れ込んできた声と映像に跳ね起きる。
つい一瞬前まであんなにゆったりとしていた脈拍が、全力で走った後のような激しく脈打っていた。
半ば混乱しているらしく、慌てて後ろに振り返るが、そこにいる葵雪は楽しそうに笑っている。俺が今見た光景のように、辛そうな表情で泣いてなんかいなかった。
「……なんだ、今のは……?」
頭を抱えて地面に視線を落とす。
頬を伝って垂れた汗が零れ落ち、小石の地面に小さなシミを作る。
冷や汗が止まらなかった。
葵雪に殺される夢と比べればこんな光景は可愛いくらいなのに、どうしてか焦る気持ちを押さえられない。
これも現実で実際に起きたことなのだろうか?
あんな風に涙を流す葵雪の姿がどうしても受け入れることが出来なかった。でも、だからこそ、今の光景が現実であることを証明していた。
葵雪が泣いているところを、俺は一度現実で見たことがある。その時の葵雪はなんと表現すればいいのだろうか……そう、静かだった。あれは何もかもを受け入れているからこその涙で、今の光景の葵雪は目の前の現実を拒絶して流す……悲観の涙だった。
「あれは……いつの葵雪なんだ?」
自分の言葉に、俺はこのツクリモノの現実を受け入れているんだなと改めて実感する。
普通じゃありえない感覚だ。こういう現実を知った時、もっと取り乱したりするのが一般的というものだろう。なのに、俺はありのままを受け入れている。
もしかしたら俺は……壊れているのかもしれない。
この世界がツクリモノならば、必然的に俺は何度も何度も時間を繰り返していることになる。
記憶には無いけれど、本能的にそこであった何かを覚えているのかもしれない。その何かを繰り返すことによって、俺の心は少しずつ磨り減っている。だからこそ不安定になり、心のどこかで何かを受け入れてしまっているのが、今の俺だと思っても間違いではないだろう。
だからきっと――葵雪も俺と同じなんだ。
けど、葵雪はきっとこれまでのことを何もかも覚えている。今の俺が知らないことを知っている。そこだけは俺と違う。思い出し、気づいただけの俺とは抱えるモノの大きさが比べ物にならない。
これまでに経験してきたことの全てを覚えているのであれば、精神的にも、肉体的にも、耐えられる限界なんて遠の昔に超えてしまっている。
あの光景はきっと、葵雪が壊れてしまった瞬間。
何もかもを受け入れて――諦めてしまった瞬間。
優しさを氷のような冷たさに。悲しみを深淵のように深い憎悪に変えて、今の葵雪がこの世界に在る。
「……修平さん?」
振り返ると、そこには心配そうにこちらを覗き込んでくるひよりの姿があった。
俺は即座に今まで考えていたことを捨て去り、ひよりに笑顔を向けた。
「どうした? 夕飯の用意ができたか?」
「あ、いえ。そういう訳では無いです。火を強くする為に薪を貰いに来たんですよ。それで何となく修平さんを見たら、すごい形相で何か考えているようだったのでどうしたのかなと思いまして……」
ひよりの表情には戸惑いの色が見えていた。
自分がどんな表情をしていたのかこれっぽっちも分からないが、少なくとも、目を合わせようとしたした瞬間に逸らされるくらいには危ない顔をしていたのだろう。
「……怖がらせたか? だったらごめんな。込み上げてくる眠気と必死に戦っていたんだよ」
「え? あ、そうだったんですか! なんだひよりの勘違い……」
言いながらひよりはようやく俺の方へ顔を向ける。
自分の勘違いを悔いるようにゆっくりと、満面の笑みを浮かべてながら。
「………………え?」
でも、目が合った瞬間、花のように咲いていた笑顔が萎んでいく。暗がりでも分かるほど、ひよりの顔がみるみるうちに青ざめていった。
そして、何か恐ろしいものを見たかのように一歩後ずさると、今度は何を思ったのか慌てて俺の側に寄ってきて手を握ってくる。
「お、おい……? どうしたひより……?」
ひよりの異常な変化に俺はただただ戸惑う。
握られた手から伝わってくる冷たさと震えが、今のひよりの心情を表しているようだった。
今のこの一瞬で何が起きた……?
俺と目が合った瞬間からひよりはおかしくなった。ならば原因は俺にあるはずだ。
ひよりは俺の何を見た? そんなにも危ない顔をしていたのか? けどそれが理由なら慌てた様子で俺の手を握ってきた意味が理解できない。
「おーい、ひよりちゃーん? 薪持ってきてー?」
「……」
巡がひよりのことを呼ぶが全く耳に入っていないようだった。青ざめた顔で地面に視線を落としたままひよりは動かない。
「……花澤さん?」
ひよりの様子がおかしいことに気づいた小夏が小走りになってやって来る。
話しかけても無駄だと判断したのか、小夏はひよりの肩を強めに叩く。すると、ひよりは怯えた様子で全身をビクッと震わせて俺と小夏を交互に見た。
「……ご、ごめんなさい。唐突に怖い話を思い出しちゃって気が動転してしまいました!」
「……」
あからさまに作り笑いだと分かる笑みを浮かべてひよりは弁解するが、当然のように俺も小夏もその言葉を信じることはできなかった。
ひより自身、苦しい言い訳だというのは理解しているらしく、焚き火の横に置いてある薪を何本か抱き抱えるように持つと一瞬だけ何かを凝視した。
「……?」
その視線の先を辿ろうとしたが、ひよりの方が行動が早く、無言で元いた場所に戻っていってしまった。
「……一応念の為聞いておくけど、花澤さんに何かしたの?」
ひよりが薪を投げ込む姿を見ながら小夏が話しかけてくる。
「俺の表情を見てその言葉をもう一度言えるか……?」
「……言えない。じゃあ何があったの?」
首を傾げる小夏に返したため息は闇夜に紛れて消えていく。
見上げた夜空には無数の星が煌めいていた。俺の心情とは正反対の綺麗な夜空。けれど、この夜空もツクリモノならば、見れば見るほど悲しくなってきて、俺はもう一度ため息を吐いた。
「……分からない。本当に突然ああなったんだよ。俺と目を合わせた瞬間に青ざめて、びっくりするくらい手を震わせて……何がなんだか分からねぇよ……」
俺の手にはひよりの手の冷たさがまだ残っていた。目を瞑れば恐怖に歪んだ表情を鮮明に思い出すことができる。
いつも笑顔を絶やさないひよりがあんな顔をする何かがあった。俺が気づかなかったほんの一瞬の出来事。
「……何かに怯えてるよね、花澤さん」
「火を見るより明らかだな」
表面上は取り繕っているが、しきりに何かを気にして視線をさ迷わせていた。
その明らかにおかしな行動には巡たち三人も気づいているように見える。しかし、あえて訊ねないようにしているのか、当たり障りない話をひよりに振っていた。
「……ひよりから話してくれるのを気長に待つしかなさそうだな」
「そうなりそうだね。とりあえず私は戻るよ。多分そろそろカレー出来ると思うから」
「なら俺は食べる場所を作っておくか」
焚き火に薪を数本投げ込んでから俺はその場を離れて折りたたみ式のテーブルと椅子の用意を始めた。
用意とは言っても、昼間にも使ってるから並べるだけで済んでしまう。
コンビニで買ってきたスプーンを人数分テーブルに置き、やることを終えた俺はカレーのスパイシーな香りがする方へ振り返った。
「……」
ひよりは変わらず作り笑顔を浮かべていた。本当に何がどうしたというのだろう。
葵雪とする予定の散歩のことよりも、今はひよりのことが心配で頭がいっぱいだった。
――だからこそ、気づかなかった。
「……」
俺とは正反対の表情を浮かべ、睨みつけるようにひよりを見ている人物が居たということに――。
to be continued
心音ですこんばんは!
さて、不穏な空気で終わった今回の話ですが、次の話は更に落とします。今後は落として落として落としまくります。




