第70話『目に見えない真実』
「……風見さん、すぐに体調良くなるといいよね」
結局、巡の熱は保健室で寝た程度では治らず、先生の車で家まで送ってもらうことになった。
ずっと教室で待っていた俺たちだったが、そうなってしまっては何も言うことができず、暗い雰囲気のまま解散という形になっていた。
「巡の心配も分かるが、俺たちもさっさとシャワーを浴びないと風邪引いちまうぞ」
帰る頃になっても雨が止むことはなく、傘を持ってきていなかったこともあり、各自全力で走って帰った始末。家に着く頃には当たり前のように全身がびしょ濡れになっていた。
体の熱は雨の冷たさに奪われており、小中学校の頃のプールの授業の後を思い出す。今が春で良かった。これが真冬だったら、確実に次の日は寝込んでいた。
「お兄ちゃんが先にお風呂入っていいよ」
「バカ言うな。小夏が先に入ってくれ。妹とはいえ、びしょ濡れの女の子を放置して自分が先に温まるなんて男してのプライドが傷つくっての」
「なら一緒に入ろうよ。私だってびしょ濡れのお兄ちゃんを放置して風邪引かれたら後味悪いもん」
「一緒に入るってお前……年齢考えようぜ? 小さい頃ならともかく、もう俺たち成長してるんだからさ」
「成長してもしなくても、私たちは兄妹なんだから気にすることないよ。ほら、もうお風呂沸いてるんだから早く入っちゃお?」
学校を出る前にスマホで操作してお風呂を沸かしておいたおかげでいつでも入れる状態になっている。
今のご時世、スマホ一つあれば家電製品を操作できるのだから便利なものだ。
「分かった分かった。今回だけだからな」
「やったね! お兄ちゃんとお風呂! お風呂っ!」
このまま言い争いを続けても小夏が折れることはないだろう。くだらない言い争いをしてて二人とも風邪を引きましたなんてなったらシャレにならないし、ここは俺が折れておくべきだ。
頭の上に音符を浮かべながら脱衣所に入っていく小夏を見ていると何となく昔のことを思い出す。
小さい頃から仲の良かった俺と小夏はよく一緒にお風呂に入っていた。あの頃はお互いに性知識が無かったから無邪気なもので、思い返すとかなり恥ずかしいことをたくさんしていた。
「お兄ちゃーん? 来ないのー?」
「流石に一緒に脱ぐのは勘弁してくれ……。てかお前仮にも女の子なんだから、兄に対しても少しくらいは恥じらいを持て」
「お兄ちゃんの体なんて見飽きてるから大丈夫!」
「昔はな!? 他人が聞いたら確定で誤解されるようなことを言うのはやめろ!!」
「えへへ、はーい」
反省の色が全く見えない返事を貰うと同時に、脱衣所から微かに布が擦れるような音が聞こえてくる。
このドアの向こうで小夏が脱いでいる。思わずその姿を想像しそうになって俺は慌てて首を振って頭に浮かんできた小夏の姿を霧散させる。
危ない危ない。俺には葵雪という彼女がいるんだ。想像するならせめて葵雪の方に……って、そういう問題でもないか。しかしまぁ……あれだ。普段は全く気にしない音なのに、こうして一度意識してしまうと無性に気になってしまう。
「お兄ちゃーん! もういいよー!」
元気になりかけている下半身を落ち着かせる為に素数を数えていると、先に浴室に入った小夏が俺のことを呼んだ。
というか、今思うと入る順番が逆だったのではないだろうか……? 普通、男が先に入って、女の子は後から入ってくるものではないだろうか。
「じゃあお言葉に甘えさせてもらうわー」
雨は下着にまで染み込んでいた。
走っている時は気にすることもなかったが、こうして何もしないでいるとびちゃびちゃとした感触が気持ち悪くなってくる。
雨と土の臭いがついたワイシャツと下着を早々に洗濯機に放り込んで下半身にタオルを巻いた。ブレザーも相当濡れてしまっているが、今は自分の体を温めることが最優先だろう。
「入るぞー?」
「はーい」
浴室に反響して響く小夏の返事を聞き、ガラッとドアを開ける。
「妹風呂へようこそ! お兄ちゃん!」
「それだけ聞くとめちゃくちゃ危険な香りがする風呂だな?」
「今なら私にどんなことだってしてもいいんだよ? あんなことやこんなことも。さぁ、どう――」
「脳内下半身かよ」
「セリフ遮られた上に、パワーワードだね……脳内下半身。少なくとも心清らかな女の子に言い放つ言葉じゃないのは確かだよね」
「言わせたのは小夏だ」
適当に返事をし、体にお湯をかけて慣らしてから湯船に浸かる。じわじわとした熱が体全体に伝わってくる。いつもと同じ温度のはずなのにやたら熱く感じるのは、それだけ自分が思った以上に体が冷えきっていたという証拠だ。
この分だと、変なプライドを貫いていたら本当に風邪を引いていたかもしれない。
なるべく小夏の体を見ないように背中を向けて座ると、何を考えているのか小夏はぴとっと自分の背中を合わせてきた。
ダイレクトに伝わってくる小夏の肌の感触。背中越しでもその肌の柔らかさを感じることが出来る。きっと手で撫で回したらすべすべと心地が良いのは安易に想像出来た。
「こうして一緒にお風呂入るの何年ぶりかな?」
昔を懐かしむような柔らかい声色。
お風呂にこうして背中合わせで浸かるなんて本当に何年ぶりのことだろうか。
「最後に入ったのは小学生ってのしか覚えてないな」
「そうだねー。流石に中学生の頃は親に止められたもんね」
「あ、それで思い出した。中一の頃にお前、お兄ちゃんと一緒に入るのーって泣いてたよな」
「うわ、なんてこと覚えてるかな……」
あの時は結局一緒に入ることはなかった。
俺としては別に構わなかった。兄妹なのだから気にする必要は無いと思っていたからだ。
けれど、子どもの思考と大人の思考とでは話が違う。同じものを見ていても、同じように感じることは少ない。子どもが浅く狭いところを見ているのであれば、大人は深く広いところを見ている。
一点の物事だけを考えてはいけない。
無邪気に一つの物事だけに集中していいのは子どもに許される特権。その特権の中で子どもは少しずつ成長していく。
知識を得て、知恵を絞り、階段を上るように一歩ずつ確実に進んでいく。そしていつの日か、心も体も立派になっていく。それが大人になるということだ。
「ずっと子どものままでいられたらいいのにな」
「突然どうしたの。その意見には同意するけどね」
ちゃぽんと湯船が揺れる。
ゆらゆらと揺れる水面に小夏との思い出が映っているような気がした。一緒に遊んだ思い出、一緒にお菓子をつまみ食いしたこと。イタズラをして盛り上がったこと――子どもだからこそ、許されること。
指先で水面に触れると、波紋を広げてシャボン玉が割れるように消えていく。
人はいつまでも子どもではいられない。いずれ必ず大人になる。時間が有限であるように、子どもでいられる時間もまた有限なのだ。
「時が流れれば人は嫌でも大人になる。それは人として生まれた以上仕方のないことだとは思う。でも、それでも、私は――子どものままでいたい」
湯気で少しずつ温かくなっているはずの浴室。
けれど俺たちの纏う空気は重く、そして冷たいものだった。
「義務とか、責任とか、そういう面倒事を押し付けられるのはごめん。社会不適合者でも構わない。私は今この時間を永遠に続けたい。叶わない夢だとは分かっているし、絶対に願ってはいけない夢だというのも分かっている」
「……どうして、願ってはいけないんだ? 子どものままでいたい。叶わない夢だというのは分かる。けど、願う願わないは個人の自由だろ? 言い方は悪いが、こればっかりは願ってもどうしようもないことなんだからな」
「……そうだね。どうしようもない。でも、今の現状でそれを願うのは間違っている」
「今の現状? どういうことだ?」
小夏の言葉の真意が掴めない。
それは森の中からたった一枚の葉を見つけるように果てしないもの。こういう時の小夏は本当に何を考えているのか分からないから正直困る。
「ねぇ、お兄ちゃん。背中流してあげようか?」
「は?」
何の前触れもなく、唐突に話題を切り替えられたせいで素でそんな声が出てしまう。
「ほらほら出て、座って。早く早く」
「あ、ああ……。分かった」
小夏に言われるがままに俺は動く。
まだ冷たい椅子に座って背を向ける。俺に続いて浴槽から出た小夏はタオルを濡らしてボディーソープを付けると俺の背中に当てて擦り始めた。
「気持ちいい?」
「もう少し強くしてくれても構わないぞ」
「はーい」
ほんの少しだけ込められた力が強くなる。
自分で洗うよりも何倍も心地の良い感覚。恥ずかしい気持ちが消えたわけではないし、話をぶった切ってまでこうしてくれる事が分からないが、それはこれで悪いものではなかった。
「――はい。背中はおしまい。あ、前もやってあげようか?」
「そっちは自分でやる。そのタオル貸してくれ」
顔は向けずに手だけ差し出すと、小夏はそこに泡立ったままのタオルを乗せた。
受け取ったタオルで前の方を洗っていると、背中があたたかくて柔らかい感触に包まれた。
「……小夏?」
「ごめん、お兄ちゃん。ほんの少しの間だけでいいからこうしててもいいかな」
「……ああ」
今度は背中合わせではない。
小夏は俺の背中に抱きついていた。
そのせいで小夏の控えめな双丘の感触が体に巻いたタオル越しに伝わってくる。男にとって女の子の胸の感触を感じられる最高のシチュエーション。でも、俺のテンションが上がることはなかった。
「……っ」
小夏は震えていた。何かに耐えるように震えながら俺のことを抱きしめていた。
何か声をかけてあげるべきなのだろうか。それとも小夏が満足するまでこうしていてあげるべきなのだろうかと、様々な葛藤が頭の中で起こるが、俺がとった行動は至って単純なものだった。
「……」
「お兄ちゃん……」
前の方に回された手を無言で握りしめる。
小さな手だった。俺の手と比べるとその大きさも、柔らかさも、あたたかさも――何もかもが違っていた。
俺はアニメやゲームの主人公ではない。
手を握れば感情が伝わってくるとか、考えてることが分かるとか、そんなオカルトチックなことはできないけれど、人はこうして触れ合うことが心を穏やかにすることができる。今の俺に出来るのはそれくらいのことしかない。
「お兄ちゃんは優しい。その優しさはお兄ちゃん良いところで、私はその優しさが大好き。けど、その優しさは時に残酷なんだよね」
「……」
俺はあえて何も返さない。きっと小夏は言いたいことをまだ言い終えていない。
だから俺は言葉の続きを待つ。何分経っても、何十分経っても待つ覚悟でいたけど、俺が思っている以上に小夏は早く口を開く。
「私は――私たちは覚悟を決めなければならない。お兄ちゃんの優しさから……この世界から……決別するための覚悟をね」
「……この世界は嘘で満たされている」
いつしか小夏が言った言葉だ。
なぜ今それを思い出したのかは分からない。でも、この話とこの言葉は繋がっているような気がした。
「覚えていたんだ。まぁそうだよね、頭の片隅にでも入れておいてって言ったのは私だったもんね」
そう言って小夏は笑うけれど、その笑い声はこの浴室に漂う湯気のようにすぐ消えていく。
「目に見えているものだけが真実だとは限らない。まさしくその通りなんだよ。放課後のこと――風見さんが倒れたあとのことをお兄ちゃんは覚えている?」
「覚えてるもの何も……みんなで教室で心配しながら待っていただけだろ?会話も全然なくてお通夜みたいな雰囲気だった」
俺を含めた全員、何か言える雰囲気ではなく、先生が来るまで終始無言の状態が続いていた。
何か特別なことが起きたとか、そんなことは一切無いはずだ。
「そう。私たちは風見さんを心配して待っていた。それがお兄ちゃんの認識している目に見えている真実」
「……本当は違うって言いたいのか?」
「……」
それは無言の肯定だった。
つまり、俺の認識していない何かがあったと小夏は言っているのだ。
「私はお兄ちゃんに水ノ瀬さんのことを大切にして欲しいと言った。それは紛れもない事実だし、撤回するつもりなんてない。だけど、一つだけお願いを追加しようと思うんだ」
「……なんだ?」
訊ねると、小夏は背中から離れて俺の顔を掴み、そして鏡の方へ向けさせる。
「一応念の為もう一度言っておくけど、私はお兄ちゃんに水ノ瀬さんのことを大切にしてあげて欲しいと思っている。その気持ちに嘘偽りはない。だけど――」
鏡に映る自分の顔。そのすぐ横に真剣な目で俺を見つめる小夏がいた。
「――水ノ瀬さんのことを――信じないで」
to be continued
心音です、こんばんは。
段々と暗くなっていくお話。次回の話はどうなるのでしょうか?




