第64話『廻り始めた歯車』
「――お兄ちゃん、夜中何処かに出掛けた?」
朝の挨拶をすっ飛ばした妹の開口一番はそれだった。
見事なまでに跳ねている寝癖を横目で眺めつつ、俺は朝食のおかずである目玉焼きに塩コショウを振る。
熱されたフライパンにぶつかった塩がパチっと跳ねた。
「なかなか寝付けなかったから気晴らしにな……」
込み上げてくる欠伸を噛み殺しながら俺は気だるげに口を開いた。
「ああそうだったんだ。いやね、夜中に喉が渇いて目が覚めたんだけど、お兄ちゃんの姿が無かったからどうしたのかなって思って」
「あー、悪い。心配かけたか?」
「そりゃそうだよ。新しい家に独り。結構心細かった。まぁ眠かったからすぐ寝たけど」
「……お前そういう所ほんとブレないよな」
とは言え、大切な妹に心配をかけさせてしまったのは事実。特別に朝ごはんのおかずを一品多めに作ってあげることにしよう。
目玉焼きと同時進行で焼いていたハムを皿に乗せ、その上に目玉焼きを飾る。彩りを良くするためにちぎったレタスとプチトマトを並べた。そして小夏の皿にだけチーズかまぼこを添える。
本当にささやかなものだが、小夏は大輪の花のようにパッと笑顔を咲かせた。
そしてタイミング良く焼きあがったトーストをトースターから取り出し、バターをたっぷり塗り付ける。黄金色に溶けたバターは食欲をそそるいい香りがした。
「あ、それお兄ちゃんが作ったバターだよね? 持ってきていたんだ」
「小夏これ好きだろ? 喜ぶと思って荷物の片隅に詰めておいたんだよ」
「さすがお兄ちゃん。妹のことなら何でも分かってる」
「当たり前だろ」
少し得意げに胸を反らす。
小夏が生まれた時からずっと一緒なのだ。大抵のことは分かる自信がある。
そんな俺を見て小夏はおおー! と、手を叩きながらにっこり笑う。
「じゃあ次の私の生理はいつ?」
「んなの知るかぁぁぁぁぁあああああ!!」
全力で叫んでいた。
「ええっ!? 妹の生理周期は兄が管理するものじゃないの!?」
「それはゲームの中の話だ!! リアルでそんなことしている兄がいたらドン引きどころの騒ぎじゃないだろぉぉぉぉぉおおおおお!!」
「ゲームの中だとしても、その兄ってかなり気持ち悪い部類にはいるよね」
「お前は俺をその気持ち悪い部類に入れようとしたんだぞ!? 分かっているのか!?」
「正直、次はいついつだよ。って言われていたら流石の私も一日くらい口を聞かなかったかもしれない」
「一日で済むのか」
「受け入れる努力をしようかと」
「安心しろ。そんな努力をする必要は無い」
出来上がった朝食をテーブルに運び、コーヒーメーカーから豆の芳ばしい香りのするコーヒーをマグカップに注ぎ、頭を活発化させるためにシュガースティックを丸々一本投入する。
朝食で糖分だけを取ると体調が悪くなったりすることもあるらしいが、きちんとしたご飯があればさほど問題では無い。
「それじゃあ、いただきます」
「いただきまーす!」
外から聞こえてくるスズメの鳴き声をBGMに、のんびりとした朝食の時間が進んでいく。
窓から射し込んでくる陽射しはぽかぽかと温かい。春らしさを感じる気候に俺の頬は緩む。昨日の出来事を思い出したからだ。
春は出会いと別れの季節。昨日俺にもついに春がやってきた。
今までに何度か春を迎える機会はあった。でも俺はそれを断り続けていた。別に告白をしてきた子が嫌いだったわけではない。けれど友達よりも上の関係になろうとは思えなかった。
好きは好きでもそれは友達としての好きであって、一人の女の子として見ることは出来なかったのだ。
けれど昨日の出会い――葵雪との出逢いは違った。
正しく一目惚れという表現が正しい。友達を経由することなく、出会った瞬間に恋に落ちた。
まぁ正確には恋に落ちるその前に一悶着あった。その点を忘れてはいけないのは事実。夢とはいえ、俺のことを殺した張本人。しかも何故か葵雪はその事を知っている。
考えれば考えるほど隠された闇が深い葵雪。
普通ならば近づかないという選択肢がベストだろうに、俺は危険を顧みず歩み寄ってしまった。
茨の道を裸で進むようなものだ。俺は……俺はきっと、その危険に惹かれたのかもしれない。
茨の道を抜けた先にあるのは光か、それとも闇か。
彼女が望んでいるのは生なのか、死なのか。
ふと、葵雪が泣いていたことを思い出す。
結局、涙の理由を聞くことは出来なかった。いや、しなかったというのが言葉的には正しい。その時にはもう俺は葵雪に惹かれていた。
あの時泣いていた理由なんてそのうち聞けばいい。時間はたっぷりあるのだから、そう焦る必要は無いだろう。
それよりも今は学校に行けば葵雪に会えるという嬉しさの方が大きかった。
葵雪の話だと虹ヶ丘高等学校は全学年一クラスずつしかないから、学年の同じ俺たちは必然的に同じクラスになれる。自分の友達を紹介してくれるらしいからわくわくが止まらない。
「……? なんかお兄ちゃんご機嫌だね?」
「そう見えるか? まぁ確かに機嫌は良い。すこぶる良い」
「そんなに新しい学校生活が楽しみなんだ」
小夏はチーかまをもきゅもきゅと食べながらスマホに視線を落とす。
メッセージの返信をしているようだった。おそらく前の学校の友達からだろう。
「小夏は楽しみじゃないのか? まぁ確かに仲の良かった友達がいないのは寂しいけどな。前の学校とは勝手も違うだろうし慣れるのに時間は掛かりそう」
「……私は前の生活の方が思い出せないけどね」
「え?」
「何でもない。それより早く食べないとだよお兄ちゃん。転校初日だし手続きとかがあるとか言ってたじゃん」
「あ、ああ……そうだったな。それよりも今のはどういう意味――」
「ごちそうさま。先に洗面所借りるね。洗い物は私がやるから食器は流しに突っ込んでおいて」
コーヒーを飲み干すと小夏はそう告げて席を立った。
ゴールデンイエローの髪が陽光に反射してキラリと光る。思わず目を瞑ってしまい、次に開けた時には小夏の姿は無かった。
一人残された俺は少しぬるくなったコーヒーを啜る。
砂糖が入っているはずなのに、何故か少しだけ苦く感じた。
※
「ここが今日から通う学校かぁ……。なんつーか、普通だな」
「普通だよね。田舎の学校って木造建築のイメージが強かったからコンクリで安心したよ私」
虹ヶ丘高等学校の前に着いた俺たちは四階建ての校舎を見上げてそれぞれ感想を口にする。
前の学校ほどではないが、それなりに綺麗なところだった。少なくとも外見は。中がどうなっているかは知らん。
「職員室探さないとな」
「――案内してあげようか?」
何気なく呟いた声に後ろから反応が返ってきて、俺と小夏は驚いて振り返る。
そこにはこの学校の制服で身を包んだ葵雪が笑顔を浮かべて立っていた。
「おはよ、修平。気持ちのいい朝ね」
「なんだ葵雪か。知らない人にいきなり声を掛けられたのかと思って焦った」
俺は頭を掻きながら葵雪の方へ体を向ける。
小夏は俺と葵雪を交互に見て何やら驚いている様子だった。ただその驚き方があまりにも迫真的で俺は首を傾げてしまう。
「お兄ちゃん……この人と知り合いなの?」
「知り合いというか……彼女だな」
「…………は?」
照れ隠しの頬を掻きながらそう告げると、小夏はこれまでに見たことがないくらいの驚愕の表情を浮かべた。
まぁそりゃ昨日までそういった黄色い話のなかった俺がいきなり彼女を作っているんだから驚くのも無理はないだろう。
葵雪は小夏の前に歩み寄ると、手を差し出した。
きちんと手入れをされた指先はすらりと長くて綺麗で思わず目を奪われてしまう。
「水ノ瀬 葵雪よ。よろしくね、修平の妹さん」
満面の笑みを浮かべている葵雪とは違って、小夏は先程から表情を動かさない。驚いているというよりも、ひどく戸惑っているという表現の方が合っている。
「小夏? どうした?」
「あ、いや……ごめん。ちょっと驚きすぎただけだよ」
小夏は慌てて表情を取り繕うと、葵雪の手を握った。
手を握るまでのその間、小夏の手が震えているように見えたのは気の所為だろうか。
「えと、初めまして。お兄ちゃんの妹の小夏です。取り乱してしまってごめんなさい」
「いいのよ。大好きなお兄ちゃんにいきなり彼女が出来たって聞いたら驚くのは当然よ」
「あはは……そう、ですね」
「……?」
どうも小夏の様子がおかしかった。
何かを恐れている――淀んだ沼に足を突っ込むような不安がこちらにも伝わってくる。
握手を終えた小夏は無意識なのだろう。俺の後ろに回ると服の袖をぎゅっと掴んできた。
人見知りはしない性格なのにどうしたのだろうか? 今の小夏は飼い始めたばかりの子犬のようだった。
「……怖がらせちゃったのかしら?」
葵雪が心配そうに覗き込むも、小夏は視線を地面に落としたまま無言で服の袖を握り続けていた。
このままではいけないと思いつつも、どう声を掛けてあげればいいのかが分からない。俺と葵雪はどうすることもできず、小夏が元の調子に戻ってくれるのを待つことにした。
幸い、家を早く出たということもあって時間に余裕はある。この時間に登校してくる人も少ないらしく、校門の前に立っていても邪魔にはならない。
「――ごめんね、もう大丈夫だよ」
青く澄み渡る空を見上げて数分。
背中にぴったりとくっ付いていた小夏の温もりが消える。振り返るといつもと変わらない笑顔を浮かべた小夏がそこに居た。
ツクリモノではない笑顔に俺は安堵の息を吐く。全てを消化しきれたわけではないだろうが、とにかく今はもう大丈夫と見て間違いない。
「良かったわ。それじゃあ職員室に案内するから付いてきてくれる?」
「おうよ」
先行する葵雪の後ろに俺たちは付いて行く。
グラウンドを抜け、下駄箱で上履きに履き替えると、小綺麗な廊下を通って職員室の前に着く。
「じゃああたしは先に教室に行ってるから。また後で会いましょう、修平。小夏もまたね」
葵雪は軽く手を振って一番近くの階段を上がっていった。
俺たちはそれからすぐに職員室で簡単な手続きを済ませると、ホームルームの時間になるまで待機することになり、時間潰しに先程の話題に触れてみることにした。
「なぁ、小夏。本当にさっきはどうしたんだ? お前らしくなかったぞ」
「驚いただけだよ。だってお兄ちゃん、教えてくれなかったじゃん? 朝ごはんの時にでも聞かせてくれれば良かったのに」
「あー……それは悪かった。直接紹介しようと思っていたから話さなかったんだよ」
「いつから……って聞くまでもないか。昨日の夜、だよね。水ノ瀬さんと出会ったのは。一体どんな流れで付き合うことになったの?」
俺は昨日の出来事を簡単に説明する。
眠れなくて風巡丘まで出掛けたこと。そこで葵雪と出逢い一目惚れしたこと。何もかも包み隠さずに話した。ただ一つ、夢のことだけを除いて。
にわかには信じられる話ではないが、その内容を話すのはどうも気が引けた。
「運命的な出会いってやつだね。ロマンチックだと思うよ。とりあえず、おめでとうお兄ちゃん」
「ありがとう」
隠し事をしているということも知らず、小夏は祝福の言葉を贈ってくれる。それに俺はほんの少しだけ罪悪感を抱きながらもきちんとお礼の言葉を返した。
「水ノ瀬さんのことちゃんと大切にしてあげてね。これから先、何が起こるか分からないんだから」
どこか含みのある言い方だった。
確かに恋愛にそういう壁はつきものだ。しかし何だろうか……小夏はもっと別のところ……俺の視点とは別のどこかへ意識を向けているような気がした。
「――覚えおいて、お兄ちゃん」
そう前置きして小夏が口にした言葉は――
「目に見えているものだけが真実だとは思わないで。この世界は――嘘で満たされているんだよ」
――以前どこかで聞いたことのあるものだった。
「……嘘で、満たされている」
いつどこで聞いたのかは思い出すことができない。
だけど、その言葉が小夏のものであるということだけは分かった。
「深刻に考える必要は無いよ。頭の片隅にでも入れておいてほしいだけだから」
「……分かった」
俺が頷くと、小夏はにっこりと笑った。
「こんなことを言っておいてあれだけど、お兄ちゃんと水ノ瀬さんの交際は妹として全力で応援するよ? そして……」
そこで言葉を区切った。
小夏の笑顔の仮面が剥がれていく。鉄錆のようにボロボロ、ボロボロと。
最後に残ったのは本当の笑顔だけ。悲しげに、儚げに笑い、今にも泣き出しそうな小夏はゆっくりと言葉の続きを口にする。
「幸せな結末に辿り着けるように、私たちがやれる限りの努力をするからね」
「……私たち?」
私たちとは一体誰のことを指しているのだろう。
分からない。だけど、ただ一つ言えることがあるとすれば、小夏は何があっても俺の味方でいてくれるということだった。
「……絶対に、守るからね」
廻り始めた運命の歯車は止まらない。
終わりが来るその瞬間まで、永遠に回り続けるのだろう。
to be continued
心音です、こんばんは。
葵雪ルートはどのような結末になるのか。幸せは掴めるのか。それともまた繰り返してしまうのか。




