第60話『涙の記憶』
それは何の前触れもなく訪れた。
「――愛してるわ、修平」
果物を切るような音が自分の中から聞こえた。
冷たくて、硬い何かが体の中に入り込んでくる不快な感覚。初めは自分が何をされたのか分からなかった。
「……なん、で……?」
体がぐらつき、地面に倒れ込んでようやく、葵雪に刺されたということに気がついた。
気づいてしまったらもう気のせいでは誤魔化すことが出来ない。焼けるような痛みと、呼吸がまともにできない苦しみが俺を襲う。
「なんで……こんな、ことを……葵雪?」
葵雪に問いかける。
「俺は……何を、間違えたんだ……?」
そして自分に問い掛ける。
「――それは違うわ、修平」
悲しげな葵雪の声が落ちる。
俺は少しずつ重く、冷たくなっていく身体を必死に動かして目の前に立つ葵雪を見上げた。
「……」
その途端、妙に生暖かい水滴が俺の顔に落ちた。それが涙だと気づいた時、俺はようやく葵雪が泣いていると知った。
なんで……葵雪が泣くんだよ。
泣きたいのは俺の方だよ。痛くて、苦しくて、でもそれ以上に悲しくて。ああ……視界もだんだんと霞んできた。
「……そう。修平は泣いてくれるのね」
言われて気づく。
俺は泣いていた。視界が霞んでいたのは涙のせいだった。
「愛してる――その気持ちだけは確かなもの。だから涙が止まらない。あたしが泣くのは悲しいから。修平を失いたくなんてないから」
「なら……どうして、こんなこと……するん、だよ……葵雪……っ」
発言と行動が一致しない。
もう訳が分からなかった。葵雪が何を考えているのか全く分からない。
俺の知っている葵雪は何処に行ってしまった? それともこれが本当の葵雪、俺が今まで見てきたのは幻想だったのか?
見上げている葵雪の顔が段々とぶれてくる。
これはもう涙のせいなんかではない。本当に死が近づいてきている証拠だった。
刺された箇所はついさっきまで耐え難い激痛が走っていたのに今はもう何も感じない。痛みも、熱も、何もかもが消えていく。
でも、こんな状況なのに葵雪のことが好きだという気持ちだけはまだ残っていた。あまりにも滑稽過ぎて明を通り越して笑えてくる。
でも、だからこそ、好きだからこそ――葵雪がこんなことをした理由が知りたかった。いや違う。知る必要があった。
俺は葵雪の事なら何でも知っているし、理解出来ているとも思っていた。でも現実は違った。俺は葵雪のことを何一つ分かっていなかった。でなければこんな状況になっている筈がないのだから。
どんな事を言われたっていい。心を抉る言葉でも何でも良いから俺の過ちを教えて欲しい。
「どうして……ね。ほんと、どうしてかしらね……」
でも、葵雪の口から出た言葉は俺の望みに反して切実なものだった。
「あたしはね、修平のことが好きよ。大好き。愛してる。だからこそ、あたしは今こうして修平のことを刺したのかもしれない。きっと、この愛を永遠にしたかったのよ」
「なん……だよ、それ……」
意味が分からなかった。
永遠にしたい? なら、こんなことをする必要無いだろ……? 俺だって葵雪、お前のことを愛しているんだから……。
ぽたん――と、また雫が落ちた。
無数の雫が地面で跳ねて濡らしていく。
涙ではない。雨が降ってきていた。
「まるであたし達の心の中を映しているみたいね」
雨脚は徐々に強まっていく。
空が煌めいたと思うと、次の瞬間轟音が辺りに響き渡った。かなり近くで雷が落ちたらしい。
こんな状況なのに俺は小夏の心配をしていた。
あいつは雷が嫌いだからな。俺が近くにいてあげないといけない。そんなことを考えているあたり、まだ命に余裕があるのかもしれない。
本当に死ぬ直前ってのは走馬灯のようなものが見えるって聞いたことがある。それが事実かどうかはさておくことになるわけだが。
「悪いのは修平でも、あたしでもない。全部この世界が悪いのよ。この世界があたし達を引き裂こうとしている。世界に殺されるくらいなら、あたしが修平を殺してこの愛を永遠にしたいのよ」
世界が……悪い?
そんな冗談みたいなことを言われても、今の俺ではまともなツッコミを返す余裕なんて無い。
「こんな世界じゃなきゃ……俺たちは普通だったのか? 普通に笑って、普通に、愛を育んで、普通に……幸せに、なることが……できたのか?」
「こんな世界、ね。修平はこの世界の何を知っているの?」
悲しげに葵雪は問う。
その質問に答えようにも、頭がもうほとんど回らなくなってきていた。
全身が氷のように冷たい。指の一本ですらもう動かすことが出来なかった。ぶれていく視界はもう涙のせいなんて言葉では片付けられない。確実に死が目の前まで近づいてきている。
「ねぇ、修平。修平が見てきた世界はあまりにも小さいのよ。この世界の半分にも満たない小さすぎる範囲の話しか修平は知らない」
「ははっ……まるで、自分は……色んな世界を、見てきたみたいな……言い方だな?」
「そうね。でも、事実よ。あたしはこれまで様々な可能性の世界を見てきたの。にわかには信じられる話じゃない。だから信じるも信じないも修平の勝手よ」
「……信じるさ」
自分を殺そうとしている人を信じるだなんて馬鹿げた話、聞いたことが無い。
「俺は、お前の……彼氏なんだぞ……?」
「……修平のそういうとこ、あたしは好きよ」
「なぁ……葵雪。最期のお願いを、聞いてくれないか」
「ええ、聞くわ。何でも言って」
「そう、か。なら、遠慮なく……言わせて、もらう」
最期のお願い――。
最後じゃなくて、最期――。
同じ言葉なのに、その重さは全然違う。
「キスを……して、くれないか? 俺のこの、命が消える……最期の瞬間まで」
「分かった」
葵雪は地面に膝をつくと、垂れ落ちる髪を手で押さえながら唇を重ねてきた。
もうほとんど何も感じなくなっている俺の体。だけど、葵雪の唇の感触、そしてそのあたたかさだけはしっかりと感じることができた。
そして葵雪は俺の望み通り――最期の瞬間まで唇を重ねていてくれた。
to be continued
心音です、こんばんは。
衝撃的な展開から始まった『Episode of Ayuki』。
今後の展開がどうなるのか、あなたには予想がつきますか?




