第55話『小夏の願い』
さて、今なら言うことに命の危機感を持てというツッコミだけは控えて頂きたい。
その日は朝からぽかぽかとした陽気で心地良く、朝食を食べ終えコーヒータイムをかましながら俺はスマホゲームのスタミナを消費していた。日曜日にわざわざ早起きをしてこんなことをしている暇があるのならば少しでも情報を集めた方が身のためだと言うことは百も承知。しかし張り詰めてばかりいたら身を壊してしまうと話し合ったばかりと言うこともあり、今日一日は気楽に過ごそうということになっている。
「とは言え、明日が来ればこんな呑気にしている時間は無いんだがな」
巡とのアポは既に取っており、明日の放課後に話をすることになっている。無論、具体的な内容は隠しており、巡はおそらくこの世界について聞かれるとは思ってもいないはずだ。
季節はどんな事があろうと巡り続ける。
俺と椛の未来も何の困難もなく巡らせることが出来ればそれにこしたことはなかった。
いずれ来たる運命の日――それがいつだか具体的なことは分からない。けどそれさえ乗り切れば当たり前の幸せを手にすることができる。
「……?」
ほろ苦いコーヒーの香りを楽しみながらスマホを操作していると、ふと背後に人の気配を感じて俺は振り返った。
「おはようなんだよ〜、修平くん」
「椛か。おはよう。ぐっすり眠っていたから当分起きないと思ってた」
椛と俺の家で生活を始めて早一週間。
今のところはこれといった出来事は起きていない。願わくばこのまま何も起こらないのが一番なのだが、淡い期待は油断を生むきっかけになりかねないから注意を怠ることはできない。
「なんか不意に目が覚めちゃったんだよ〜。それで起きてみたら修平くんが隣にいなかったから、きっとそれが理由で目が覚めたんだね〜」
「どんな理由だよ」
「ようするに〜、修平くんの温もりが恋しくなったんだよ〜!」
「うおっ!?」
ガバッと背中に抱きついてくる椛。
危うく衝撃でコーヒーをカーペットにぶちまけかけて小夏に雷を落とされるところだったが、ギリギリのところで堪えて安堵するのも束の間、背中に押し付けられる椛の柔らかな感触に気づいてしまい俺はその事を顔に出さないように耐える。
「ん〜、修平くんあったかいし、いい香りがするんだよ〜」
「……俺ってどんな香りがするんだ?」
「フローラル?」
「何故自分で言っておきながら疑問形なんだ……? てかフローラル? フローラルってあれか? つまり俺から花の香りがするってことか?」
着ている服の匂いを嗅いでみるも自分はやはり良く分からない。そもそも自分の香りというのは自分じゃ分からないものだから仕方ないのかもしれないが。
「あくまでも例えなんだよ〜。ようするに、わたしの大好きな香りってこと〜。近くでこうしていると落ち着くんだ〜」
「落ち着くって気持ちは分からんでもないな。俺も椛の側にいると落ち着くよ。こうして触れ合っている時なら尚更な」
手を伸ばして椛の頬に触れる。
赤ちゃんのようにスベスベで柔らかくて弾力のある頬。指先でふにふにと遊んでいると、椛はおもむろに俺の指をぱくっと口の中に含んだ。
「ひたずらっふぉには〜、おひおき、しちゃうんだお〜」
俺の指を咥えながら話しているせいで、何を言ってるか分からない上に、椛の舌が指先を擽るせいで、指だけじゃなくて全体的にこそばゆい気持ちになる。
「随分と可愛らしいお仕置きなんだな」
高ぶってくる気持ちを声に乗せないように注意しつつ俺は椛に笑いかける。
「ふへへ〜、どうだ〜、はじゅかしいでひょ〜」
「ぶっちゃけめっちゃくちゃ恥ずかしいが、椛よ。お前自分もかなり来てるだろ? 顔がすっげぇ紅くなってる」
体勢的に椛の顔全体が見えているわけではないが、見える範囲の頬は朱色に染まっており、ほぼ密着している肌から熱が伝わって来る。
「バレちゃったらしょうがないんだよ〜」
ちゅぱっとわざとらしく音を立てて指を解放してくれた椛は頬を掻きながら照れ臭そうに笑う。
照れ臭そうにというか、もう既にお互い恥ずかしさは最高潮まで上がりきっていて、それでも止まることを知らない俺たちはそうするのが当然のように顔を近づけてキスを交わす。
「えへへ……ちょっとだけ遅い、おはようのキスだね〜」
そう言ってはにかむ椛を見て悶えそうになる。
ああもう、俺の彼女はどうしてこうもいちいち可愛いんだろうなぁと思っていると、もろに表情に出ていたらしく椛は一瞬で今日最大の顔の紅さを発揮し、慌てて両手で顔を隠した。
「こらこら。俺も恥ずかしいんだから顔隠すなって」
「む、無理なんだよ〜! わたし今すっごいだらしない顔してる気がすると思うから、修平くんに見せるなんて出来ないんだよ〜!!」
「だが断る」
ソファーから立ち上がって椛の手を掴むと、ていっと掛け声を一つ、一気に顔を隠す手を引き剥がした。
両手を掴まれたままの椛は何も抵抗することが出来ず、潤んだ瞳で俺を見上げた。
「……っ」
上目遣い。しかも泣きそうなくらい恥ずかしがっているせいで、何かもう……恥ずかしいやら、めちゃくちゃにしてやりたいやら、椛を傷つけるかもしれないやら、とにかく色んな感情がごっちゃになってそのまま動けなくなってしまう。
「……んっ」
「!!?」
何を思ったのか椛は唐突に背伸びをしてそのまま俺の唇を奪った。
さっきのキスよりも長く、啄むように何度も何度も椛は唇を重ねてきた。柔らかくて甘い、大好きな人からのキス。あっという間にごちゃごちゃになっていた感情は好きというたった一つの想いに変わっていた。
「……可愛いなぁ修平くん。自分から仕掛けておいてそうやって思い止まっちゃうところ。わたしは修平くんのそういう優しいところ好きなんだよ」
陽だまりのようにあたたかく、そして優しい笑顔を浮かべて椛はもう一度俺にキスをした。
「押し倒してくれても良かったんだよ。わたしは修平くんになら何されても構わない。というより、今ちょっと期待していたんだけどね〜」
「はい?」
聞き間違いだろうか? 今椛が何かとんでもないことを言ったように聞こえたのだが。
「だ、だからちょっと期待していたんだよ〜。こう……なんて言うのかな? 無理矢理されるのもわたし的にはおっけーだと言うかなんと言うか……と、とにかく!! そういうことなんだよ!!」
「どういうことなんだよ!?」
「押し倒して欲しかったんだよ!!」
「直球!! ちょっと直球過ぎじゃないか!?」
「女の子だって好きな男の子にめちゃくちゃにされたいって願望はあるんだよ!!」
「――朝から盛ってるね、お兄ちゃん、小此木さん」
状況を物凄く楽しんでいる声がリビングに響いた。
しかしその声が聞こえてきた瞬間、声の主とは正反対に俺たちは凍りついた。
それは長年に渡って錆び付いたロボットのようにぎこちなく、俺と椛は表情を無にして振り返った。
「いやまぁ? 健全な付き合いが何なのかと聞かれると、世間一般では付き合っている段階では手を繋いだりキスで終わり。結婚してからそういうことをすればいいとか言うけど、私的には若いうちに色々なことを経験しておくことが二人の未来をより輝かせると思うんだよね。というより、愛があればいつセックスしたっていいと思うんだよ。だって好きなんでしょ? 求めたくなるなるのは自然の摂理ってやつだよ。それを無理矢理我慢するよりはやることやっちゃって二人の愛を深め合うってのが私の意見かな?」
俺たちを肴にコーヒーを優雅に啜っている小夏は物凄い長文で自分の意見をさらけ出してくれた。
実の妹が本音をさらけ出してくれるのは一向に構わないし、言ってることも納得できるから素直に頷ける。しかし問題点がたった一つだけあった。
「……おい? お前いつからそこにいた?」
「小此木さんがお兄ちゃんの背中に抱きついたあたりからいたよ。まぁそのせいで朝食を食べていないはずなのにお腹いっぱいになっちゃってどうしようかと」
……ほぼ最初っからじゃねーか?
てことはなんだ? 俺と椛は小夏が見ているってことを知らずにイチャついていたというわけだ。頬をふにふにして遊んでるところや、椛が俺の指を咥えているところや、キスしてるところも何かも見られたってわけだ。
「小夏ちゃん。話があるんだよ。大切な話だよ」
「大切な話ですか。聞きましょう」
椛は小夏にゆっくりと歩み寄る。
その表情は至って真面目で、いつもの余裕が完全に消え失せていた。
ゴクリと生唾を飲み込んで椛を見守る。何をするのか分からないが全ては椛に掛かっていると言っても過言ではないだろう。
「……小夏ちゃん」
その刹那、俺の視界から椛の姿が消えた。
「お願いなんだよ!! 今見たことは全部忘れて欲しいんだよ!! 自業自得とはいえ恥ずかしくて死んじゃいそうなんだよ〜〜〜!!」
否、消えたわけではない。目にも止まらぬ速さで土下座をしたのだ。そこに土下座に対する恥じらいは何一つ無い。あるのは俺とのイチャイチャを彼氏の妹にガン見されていたという恥ずかしさを無かったことにしたいというだけの切実な思いだけ。
「えー、嫌ですよー。こんな美味しいネタを忘れるなんて恋愛の神様に失礼です。あとこれをネタに弄る気満々ですから」
だが諦めろ椛……。小夏はこういう系の話は常に記憶に残し続け、こっちが忘れた頃に蒸し返してくる最低な妹なんだ……!!
「修平くんどうしよ〜〜〜!! わたし達のイチャイチャぶりがみんなに知られちゃうんだよ〜〜〜!!」
完全に涙目になって椛は俺に助けを求めてくる。
しかし、この時既に色々と諦めていた俺は椛の前に膝をつき、優しく頭を撫でながら笑顔を見せた。
「諦めろ。明日から俺たちは学校中の晒し者だ」
「恥ずか死んじゃうんだよ!! わたし達の学校は小さいんだから、そんな黄色い話瞬く間に全校に広がっちゃうんだよ!!」
「まぁ落ち着け。捉え方を変えてみよう。確かに俺たちは晒し者になるが、逆に考えれば俺たちが恋人同士だということが全校に知れ渡ることになる。つまりだ。人目を気にせずイチャつくことが出来る。違うか?」
「ああなるほど確かにそう――って!! そんなことしたら余計に恥ずかしいだけなんだよ!?」
納得しかけたところで椛は我に返ったかのように首をブンブンと振って無理無理とアピールしてくる。
「ねぇ、お兄ちゃん。一つだけ聞いてもいいかな?」
そんな慌てふためく可愛い椛を見つめながら小夏はマジな口調で話しかけてくる。
「なんだ?」
「エッチしてる時の小此木さん、絶対に可愛かったでしょ?」
「なんだそんなことか。死ぬほど可愛かった」
「何の話をしているんだよ!!!??」
羞恥で顔を真っ赤にした椛が叫ぶ。
何の話? お前が可愛すぎて辛いって話をしているんだよ。はっはっはっ。
「大好きな人と最高に幸せなエッチ……ん? どこかで聞いたことがあるフレーズだけどまぁいいや。とりあえず小此木さん、私今更になって言ってなかったことがあったのを思い出したんですけど、聞いてもらってもいいですか?」
「?」
椛は首を傾げると、断る理由も無いからこくりと頷いた。
「ふふっ。心配しなくてもおかしなことを言うつもりはありません。私はただお礼を言いたいんですよ」
「……お礼? わたし、小夏ちゃんに何かしたかな〜?」
「お兄ちゃんの事を好きになってくれました」
予想もしていなかった言葉に、椛だけではなく俺自身も驚いてしまう。
小夏はそんな俺たちの驚く顔を見てくすりと笑う。それは決して馬鹿にするような笑みじゃない。遠い空から地上を見下ろす天使のように慈愛に満ちた優しい表情だった。
「お兄ちゃんの幸せは、妹の私にとっての幸せでもあります。だからですね、私も今すごく幸せな気持ちなんです。大好きなお兄ちゃんのことを取られてちょっと悲しくもありますけどね?」
「小夏ちゃん……」
椛には言葉の真偽を知る力がある。
だからこそ小夏の言葉が真実であるのが分かると同時に、嬉しさからなのか椛の目尻に涙が浮かんでいた。
宝石のように綺麗な雫は、やがて頬を伝って床に落ちて弾ける。
「だから一つだけお願い事を聞いてください。あくまでもお願いです。約束ではありません」
妙な言い回しをして小夏は椛と俺の手を取った。
握り慣れた手。けど、その手の温もりはいつもより冷たく感じた。
「私が望むことはただ一つだけ。お兄ちゃん、小此木さん――」
「――生きて」
たった一言、小夏はそう告げた。
その一言に、小夏の全ての想いが込められていた。
「これが私からのお願い。叶えられたら、叶えてほしいな」
そう言って小夏は踵を返した。
「……何処に行くんだ?」
「自分の部屋。もうちょっと二人のイチャイチャを眺めていても良かったんだけど、大切な時間を邪魔するのは野暮ってやつだよ。じゃあお昼くらいに戻るね」
俺たちの返事を待たずに小夏はリビングから出ていった。
「……生きような、椛」
「うん。小夏ちゃんのお願いの為に。そして何より――わたし達の未来の為に」
俺たちは寄り添ってキスを交わした。
そして、この幸せを永遠にすることを誓った。
to be continued
心音ですこんばんは!
いかにもクライマックス間近という感じになっていますね。予定では残り3話で椛ルート完結です。最後までお付き合い頂けるとありがたいです。




