第50話『変えるべき時 前編』
「――ええっ!? お兄ちゃんと小此木さん付き合うことになったの!?」
それまで静かだったリビングに、小夏の驚きの声が響き渡った。
デートが終わり、家に帰って真っ先にしたことは、手を洗うわけでもなく、着替えるわけでもなく、俺と椛の交際報告を小夏にするということ。
早くこの喜びを誰かと共有したかった俺はハイテンションでリビングのドアを開け放ち、風呂上がりだったのかバスタオル一枚でソファーに転がっていた小夏に嬉しさをぶちまけたのだった。
「おめでとぉぉぉ!! どこまで進んだの!? A!? B!? はっ!! まさかもうCまで!? きゃーーー!!」
「ただのエロ親父に成り果ててるぞ小夏。まぁとりあえずAまでだな」
無駄にテンションが跳ね上がっている小夏。俺も俺で椛と付き合えたことの嬉しさから、何でも答えてあげたいと思ってしまっている。
「初めてのキスは〜? ライトキス? プレッシャーキス? それともディープキス?」
「プレッシャーキスだよ。初っ端からがっつかねぇわ」
「いやー、最近の若い子は進んでるからね。付き合った初日に行くところまで行っちゃうのが普通でしょ」
「お前もその若い子の一人だろうが」
ビシッと小夏の頭にチョップを叩き込む。
当たる寸前に白刃取りで俺の手を受け止めた小夏は穏やかな表情で俺に笑いかけた。
そういえばと思い返してみれば、小夏は俺と椛の恋を応援しているようなことを言っていた気がする。
確かあれは……そうだ。この町に引っ越してきた日のことだったはず。椛が俺の家に片付けの手伝いに来てくれて、休憩がてらお茶と和菓子を食べている時だ。
『なら、うちのお兄ちゃんとかどうですか?』
今思えば……あの頃から小夏は察していたのかもしれないな。こうなることを最初っから予想していたのならそれはすごい事だわ。
それに……そうか。あの時に一度、椛は例の力を使っているのか。小夏が言った言葉の真偽を見抜いていた。幽霊のことを信じてくれたのも、力を使って真実だと見抜いていたから。
「何やともあれ、本当におめでとう、お兄ちゃん」
考えに耽っていた俺の瞳に小夏の優しい顔が映る。
愛する妹から祝いの言葉をかけてもらえたことが嬉しい。きっと小夏も本心からそう言ってくれている。それくらい椛の力が無い俺でも分かる。
「ちゃんと小此木さんのことを……幸せにしてあげてね」
胸の奥に雫となって落ちた違和感が波紋のように広がっていく。しかしその違和感の正体が分からず、気味の悪い不快感が全身を覆い尽くした。
「……お前、何を知っている?」
気づけば俺はそう呟いていた。
小夏は無言だった。しかし、その表情からは先ほどまでの優しさは消えていて、深い悲しみに包まれたような悲劇を彩っていた。
「――私は何も知らないよ」
小さな唇が言葉を紡ぐ。
感情が失われた氷のような声。こんな気持ちの篭っていない小夏の声を聞いたのは初めてかもしれない。
「――嘘だな」
静寂を割くように俺の声がリビングに響く。
小夏は眉一つ動かすことなく俺を見据え続けた。何も悟らせないように感情を消している。
何もかも知っていると思っていた妹のこと。しかしそれは間違いだったらしい。まだまだ知らないことがたくさんある。
「どうして嘘だと思うの?」
だがまぁ……それならそれでいい。思えばずっと仲良し兄妹を貫いてきた俺たちだ。たまには本気でぶつかってみるのも悪くないかもしれない。
「なぁ、小夏。気づいていたか?」
「何に?」
「お前、何か誤魔化したいことがある時、右手を握る癖があるんだよ」
ハッとなって小夏は右手に視線を落とす。
しかし、その手は開いたままで握られてなどいない。
「やっぱり嘘だったんだな」
図られたことに気づいた小夏は下唇を噛む。
あくまでも口を割るつもりは無いようだが、あからさまに表情から余裕が消えていた。
小夏にこれといった癖は無い。強いて言うなら感情が表情に出やすいということだ。だから親しい間柄の人のほとんどは、小夏の顔を見れば大体のことを察せてしまう。
「頼む。教えてくれ小夏。お前は何か知っているんだろ。俺たちの知らない大切な何かを」
「……教えたところで、お兄ちゃんにも、小此木さんにも、どうすることも出来ないよ。だってこれはそういう世界だから」
「それはどういう意味――」
問いかけようとしたその瞬間、ポケットに入れたままだったスマホから着信音が鳴り響く。
普通ならばすぐに出るところだが、今は小夏と大事な話をしている真っ最中。ここで話を切ってしまうと今後誤魔化されてしまうことだって有り得る。
「出なくていいの? 小此木さんからかもしれないよ」
「……小夏、後で詳しく話を聞かせてもらうかな」
念を押して俺はスマホを取り出す。画面には椛の名前が表示されていた。
「もしもし?」
通話ボタンをタップして耳に当てる。
「……?」
ざーっというノイズ音がするだけで何も聞こえない。
テレビの砂嵐? だが時間はまだ早い。こんな時間に終わる放送局なんて存在しないはずだ。
「……お兄ちゃん?」
「ちょっと静かにしてくれ小夏。様子がおかしい」
一旦スマホを耳から離して小夏にも聞こえるように通話をスピーカーに切り替えた途端、砂嵐の音が大音量で響き渡り、小夏はビクッと身を縮こまらせる。
唐突にぐいっと引っ張られた。
手元のスマホを凝視したままの小夏が震える手で俺の服の袖を掴んでいた。つい今さっきまで険悪な雰囲気になっていた俺たちだったが、それくらいのことで何年もの間積み重ねてきた兄妹の絆が消えるわけではない。
小夏が少しでも安心してくれるようにと、俺は恐怖で震える手に自分の手を重ねた。
そこでようやく小夏は、自分が俺の袖を掴んでいたことに気づいたらしく、申し訳なさそうにしながらも手のひらを返して俺の手を握った。
「な、なに……? 何が起きてるの……? 小此木さん? 何か喋ってくださいよ……!!」
悲痛な声で小夏は叫ぶ。
砂嵐の音に混じって微かだが吐息のような音も聞こえる。電話口の側に椛がいるのは確かなようだが、それ以上のことは何も分からない。
「おい椛? どうした? 何があった?」
小夏よりは取り乱していない自信はあるが、それでも放つ言葉に焦りが生じていた。
それを自覚してしまったからか、途端に心拍数が上がり、背筋を伝う冷や汗に不快感を覚える。
スピーカー越しに聞こえてくる雑音。微かに聞こえる吐息のような音はもはや、椛のものとは思えなくなっていた。
『――、――っ』
周波数を合わせるラジオのように徐々に音がはっきりとしてくる。とはいえ、砂嵐の音が大きすぎて何を言っているのか聞き取れない。
それでも、ほんの少しの情報でも手に入れたかった俺はたまらずスマホの音量を上げていく。
「……っ」
小夏はあからさまに顔を顰める。
耳を塞ぎたくなるような不快な音。脳裏をぐちゃぐちゃに掻き混ぜるような感覚は、冷静さすらも削り取っていく。
『――平、――! ――っ』
「…………え?」
まだ何を言っているのかまでは分からない。
ただ一つ、分かったことがあった。この声は聞き慣れた椛の声ではない。おそらくこの声は――
「お前――紅葉か!?」
叫ぶように訊ねるも返ってくるのは砂嵐の音だけ。
どういう状況なのか全く把握することが出来ないのがもどかしい。
「お、お兄ちゃん……? 紅葉って誰のこと……?」
知らない名前が急に出てきて戸惑う小夏に説明してあげたいのも山々だが、今はそれよりも紅葉と対話することが先決だった。
「紅葉!! 椛はどうした!? 大丈夫なんだろうな!?」
口調が荒々しいものになってしまう。
時間が経てば経つほど焦りと不安が風船のように膨らんでいった。限界を越えて破裂してしまう前に何としてでも情報を手にしなければならない。
『――修平。――を、――――!!』
かろうじて自分の名前だけは聞き取ることができた。
ただ肝心なところが聞き取れないせいで、紅葉が何を伝えようとしているのか分からない。
「あっ……そうか」
幽霊と意思疎通をする為には、落ち着いて話をしようという気持ちが大切だというのを聞いたことがある。
今の俺の精神状態は決して落ち着いていると言えるような状態では無かった。
深呼吸を一つ。焦る気持ちを沈めていく。
無理に聞こうとしたところで、この砂嵐の中じゃまともに聞くことはできない。それに相手は紅葉――幽霊なのだ。ならば聞こうと思うんじゃなくて、感じればいいんだ。
目を閉じて無駄なことを考えるのをやめる。針の穴に糸を通すような繊細なイメージ。
波長を合わせるように少しずつ意識を紅葉と合わせていくと、段々と声がはっきりと聞こえるようになり、ぴったりと重なり合ったその瞬間、頭の中に紅葉の声が響き渡った。
『――修平! 未来を変えなさいッ!!』
どういう意味かさっぱり分からなかった。でも動かなければならない。それだけは確かなことだった。
「小夏!! 葵雪か巡に電話して椛の家の場所を聞いてくれ!!」
「り、了解!!」
慌ててスマホを操作する小夏を横目で見ながら俺は紅葉に話しかける。
「何が起きている? 未来を変えろってどういうことだ」
『――から、その日に――、――てッ』
一度聞いてしまえば波長を合わせるのは簡単かと思ったがそう甘くは無いらしい。
「お兄ちゃん!! 水ノ瀬さんと繋がったよ!!」
即座にスピーカーに切り替えて小夏はスマホを俺に手渡した。
『もしもし? 何が――ってうるさ!? なんなのよこの音!! ちょっと小夏!?』
「悪い。葵雪、説明する時間が惜しい。椛の家がどこにあるのかすぐに教えてくれ!!」
『……ガチでやばそうね。椛の家はあたしの家の近くよ。商店街まで来て。案内するわ』
「助かる」
葵雪との通話が切れるのと同時に、紅葉からの通話も途絶える。こうなったらもう葵雪と早いところ合流して椛の家に訪ねるしかない。
折り返しの電話がいつかかってきてもいいようにスマホを片手に握りしめてリビングを飛び出す。その後ろに小夏も続き、鍵を閉める時間すらも惜しくそのまま暗い夜道を駆け出した。
「――もしもし風見さんですか!? 今すぐ商店街に来てください!! 小此木さんに何かあったかもしれないんです!!」
どうやら巡にも連絡を取ってくれているらしい。
それから二、三言だけ言葉を交わして小夏は走る速度を上げた。
「巡はなんて?」
「今すぐ向かうって。距離的に私たちより早く着けるっぽいよ! 私たちも急ごう!!」
「言われなくても分かってる!!」
人通りの少ない道で良かったと今ほど思ったことはない。こんな時間に全速力で走る俺たちの姿を近所の人に見られでもしたら変な噂が立ってしまうだろう。
けど、今はそんなことどうだっていい。大切な人に何かあったかもしれないのだ。未来のことよりも今が大切なのは明白な事実。
「頼む……椛!! 無事でいてくれよな……!!」
to be continued
心音です、こんばんは!
今回の話で椛ルートの折り返し地点です!ついでに次回の話は、ひよりルートでもあった見せらないシーンがあります←




