第26話『ひよりのお母さん』
「――ここがひよりの家です。まさか修平さんの家に行く前にうちに来るとは思いもしませんでしたよ」
そう言ってひよりは笑うが、すぐに沈んだ表情に戻って胸の中の子犬に視線を落とす。
子犬の体は長時間に渡って雨に打たれていたせいでかなり冷えきっていたが、ひよりの抱かれたおかげで体温を取り戻したらしく今は安心しきった様子で眠っていた。
「修平さん、カバンの小さい方のポケットに鍵が入ってるので開けてもらってもいいですか?」
子犬を抱くひよりに代わって俺が荷物持ちをしていたのだ。俺は言われるままに鍵を取り出して解錠するとそのままドアを開ける。玄関は薄暗く、手探りで照明のスイッチを探していると後ろからひよりが手を重ねてきた。
「そっちじゃなくてこっちですよ」
「ん、ああここか」
誘導されたところの凹凸を切り替えるとパッと明かりが灯る。きちんと整頓された玄関には誰の靴も無く、家には誰もいないようだった。
「上がっちゃってください」
一足先に靴を脱いだひよりは廊下を真っ直ぐ進んでいって階段横のドアを開けて入っていった。俺もいつまでもぼーっとしている訳にもいかず、靴を脱いでひよりの後を追う。
「……」
廊下を歩きながら少し家の中を見渡す。掃除はきちんと行き届いているようで何処も彼処も埃一つ落ちていない。途中、ドアが開きっぱなしの部屋があったから失礼だと思いながらも覗いて見たところ俺はちょっとした違和感を覚えた。
なんというか、あまりにも綺麗すぎるのだ。生活感が無いと言うのがこの場合正しいかもしれない。ベッドやタンスなどの生活道具は揃っているし、誰か使っているのは間違いないはずなのにこの綺麗さはあまりにも不自然だった。
「……ああそうか」
そういえばと、俺は思い出す。
ひよりの両親は共働きで滅多に家に帰ってこないと言っていた。もしこの部屋が両親のものだとするならば三、四日は帰ってきていないのではないだろうか。
「苦労しているんだろうな……」
共働きでしかもあまり帰ってこないとなると家事をするのはひより一人だけという事になる。俺の家は小夏もいるから二人で協力して掃除など出来るがひよりの場合そうもいかない。
家事、洗濯、食事――その全てを一人でやっていくのは相当な苦労がある。何か力になってあげることが出来ればと思いながら俺は部屋を後にしてひより元へと向かう。
ドアを抜けるとリビングに繋がっていた。家族三人で暮らすにはちょうどいい3LDK。しかし実質一人で暮らしているのと変わらないひよりにはあまりにも広すぎる空間だった。
広い空間に独り。孤独を嫌うひよりにとってこれ程までに苦痛なことは無いはずだ。前にひよりが夜に突然俺に会いたがったのも頷ける。
「子犬の様子はどうだ?」
ひよりはバスタオルで子犬を包んであげているところだった。起こさないようにそーっとソファーに寝かせると俺の方へ向き直る。
「今はぐっすりです。本当はドライヤーを使って毛を乾かしてあげたいんですけどこんなに気持ち良さそうに眠っていると起こしづらくて……」
「雨でびしょびしょだったもんな……。起きたらシャワーしてあげようぜ」
「賛成です。とりあえず今は体がなるべく冷えないようにバスタオルで応急処置しました。それにしても――」
ゾワッと、背筋に悪寒のような感覚が走った。まるで人が変わってしまったかのように、ひよりの表情から感情が消え失せる。
「――どうしてこんな酷いことが出来るんですかね」
普段のひよりからは考えられない冷たい声色。表情はまるで作られた仮面のような薄気味悪さが張り付いていた。
ああ……これは怒りだ。
怒り方というのは人それぞれ違うもの。怒り狂って自分自身を失ってしまう者もいれば、ひよりのように冷静さを残し、感情的にもならず、穏やかな水面を映すように静かに怒る者がいる。
感情的になって怒る人間も何をしでかすか分からないから怖い。だが、俺はどちらかというひよりのようなタイプの方が恐ろしい。考えていることが分からないからだ。水面下に隠された本性は上から覗くだけでは理解することができない。水の中に潜り込んで直接覗き込まないと知りたいことを知ることはできない。
ひよりはバスタオルの上から子犬にそっと手を置く。呼吸に合わせて上下にゆったりと動く手は子犬がちゃんと生きていることを教えてくれた。もし俺たちの発見が遅れていたらこの命は無くなっていたかもしれないのだから。
「この子を……命を何だと思ってるんですか。命は一つしかない……。命には換えが無いんです。そんなのは誰だって知っていることなのに。ひより、こういうの本当に許せません」
きつく握られた拳が震えていた。反対の手はあんなにも優しく子犬に触れているというのに、その差があまりにも悲しかった。
「その子犬どうするんだ?」
いつまでも怒ってはいられず、俺は先の話を切り出す。この子犬を今後どうするのかはきちんと決めてなければならない。
「ひよりが飼います」
即答だった。純粋で真っ直ぐな気持ちの込められた瞳で見つめられた俺は流れのまま頷きそうになってしまったが、すんでのところで自分を押し込める。
「飼うって……そんな簡単に決めていいのかよ。親の許可だって必要だろ?」
「きっとお母さんとお父さんは良いって言ってくれるはずです。ひより、信用されてますから」
「信用問題とかじゃなくてだな……。というか誤解しないように先に言っておくが、ひよりがこの子犬を飼うこと自体は俺だって反対じゃない」
「なら別にひよりが飼うことに問題なんてないはずです」
きっとこの子犬だってひよりのような心優しい人間に飼われた方が幸せに決まっている。でも飼うということは同時に責任という重石がのしかかってくる。言い方は酷だが、この家には色々と問題があり過ぎるのだ。その事はきちんとひよりに伝える必要がある。
「もし仮に飼ったとして子犬の世話は誰がやるんだ? ひよりは学校があるんだぞ。親がいつも家にいるのなら世話を任せることはできる。でもひよりの家はそうじゃないだろ? 両親共働きで基本的に家を空けている。ひよりが学校に行っている間、この子は家に独りぼっちなんだぞ? 独りでいる事の辛さはお前が人一倍分かってるはずじゃないか」
「それは……」
図星を突かれたひよりは苦虫を噛み潰したように表情を歪める。
ひより自身、その事は痛いほど分かっていたはずだ。けど目の前のことに集中し過ぎて先のことが全く見えていない。まるで目の前に人参をぶら下げられた馬のように真っ直ぐ突っ走ってしまっている。
「……ごめんなさい。ひよりもちゃんと考えます。なので修平さんも力を貸してくれませんか?」
「ああ、もちろんだ。その為に俺は今ここにいるんだからな」
けどひよりは馬ではなく人間だ。すぐに頭を切り替えて考え始める。人として産まれてしまった以上、どんな些細な壁であろうとぶち当たることになる。その度に悩み、考えなければならない。人とはめんどくさい生き物なのだ。
誰かがこんなことを言った。
人は一人では生きていくことが出来ない――と。いつから人は誰かを頼らなければ生きていけなくなってしまったのだろうか。
「飼うならそうだな……。ひよりが学校に行っている間はご近所さんに頼んで面倒を見てもらうとかしたほうがいい」
「なるほど。もし協力してくれる人がいたらこの子が寂しい思いをする必要はありませんしね!」
「問題は引き受けてくれる人がいるかというところだが……とりあえず親に連絡を取ってみないと。許可無しで飼って後から揉め事が起こるのもごめんだからな」
「ですです。なので今電話をしてみようと思います」
スクバの中からスマホを取り出し、親の番号を選択して耳に当てたその時だった。
玄関の方からドアが開くような音と愉快なメロディーが聴こえてきた。俺とひよりの視線はドタドタとこちらに近づいてくる足音の方へ必然的に向けられた。
「おいひより。まさかとは思うが……」
「……ええ、修平さん。そのまさかみたいです」
ひよりがスマホを耳から離すと同時にばぁんとリビングのドアが開け放たれ、ひよりそっくりな女性が部屋に乱入してきた。
空気をビリビリと震わせる騒音に子犬も流石に目が覚めてしまったらしく、不安げにキョロキョロと部屋の中を見渡している。
「お母さん、おか――」
「ひよりちゃーーーーーんっ!!」
「ぐふっ」
ひよりからくぐもった声が漏れる。
謎の女性――おそらくひよりのお母さんがボディーブローの如くひよりに抱きついたからだ。
「きゃー! ひよりちゃん元気にしてた!? 全然帰って来れなくてごめんね!? また忙しくなるけど今日はお母さんが一緒にいるからね!!」
「……」
ず、随分とテンションの高いお母さんだな……。
小動物を愛でるようにひよりの頬に自分の頬を擦り付けるお母さん。片手でひよりを抱きしめ、空いた手は頭を撫でまくっている。
俺はとりあえずソファに腰掛け、戸惑っている子犬を抱き上げて膝に乗せる。まだ若干濡れているが、ひよりがバスタオルを被せてあげていたおかげで体温は少しずつ戻ってきているようだった。
「それで――こちらは?」
ひよりのお母さんがくるりとこちらを向く。改めて見るとかなり美人だ。ひよりも大人になればお母さんのような美人さんになるんだろうなと思いながら俺は立ち上がる。
初対面の人には第一印象が大切になる。俺は少し気を引き締めて挨拶する事にした。
転校初日やった失敗を繰り返さない為にも……。
「初めまして。俺は深凪修平って言います。ひより……さんの先輩やらせて貰ってます」
「先輩? 彼氏じゃなくて?」
真顔で訊ねてくるお母さん。
「はい。先輩ですね」
「……」
それを真顔で返す俺。お母さんは俺を見つめたまま暫し考え込むような素振りを見せた後、再度ひよりの方へ振り向く。
「ちょっと!! ひより!!」
「ふえ?」
突然矛先を向けられたひよりは素っ頓狂な声をあげて首を傾げる。
「こんなイケメンで礼儀正しい人をどうして彼氏にしてないの!? 馬鹿なの!? しっかりしなさい!!」
理不尽なキレ方だーっ!? とはいえ、ここで余計な事を言ったら自分のことを肯定しているようで何も言えねぇ!?
「ちょ、ちょ、ちょ!? お母さん!? 何言ってるの!? しかも本人が目の前にいるのに!!」
熟れたリンゴのように顔を真っ赤にして叫ぶひより。しかしお母さんは聞く耳持たずのようで次々に言葉を並び立てる。
「目の前にいるからこそ言ってるの!! ひより、あなたが今やることは一つだけ。告白しなさい。そして修平さん? あなたはオッケーして。私、あなたみたいな人ならひよりのこと任せられるわ」
「あはは……」
Vサインをしてくるひよりのお母さんに俺は苦笑いを返すことしか出来なかった。なんか想像していたのと全然違うお母さんで安心したようなそうじゃないような……。
「無茶苦茶だよ!? 確かに修平さんはカッコイイし、優しいし、ひよりのこと甘えさせてくれるけど!! 告白にはまだ早いよ!!」
「……ひより? そしてひよりのお母さんも少し落ち着いてくれ? 後から後悔するような会話は早いうちに切り上げておいた方が心の為だと思うんだが……?」
「ほら! 修平さんもこう言ってることだしひより!! 告白よ!! このチャンスを逃してどうするの!?」
「聞く耳持てや」
「あいたぁ!?」
ひよりのお母さんの頭にチョップを叩き込んで黙らせる。しかし、すぱーんと心地よい音が響いたあとのリビングは耳が痛いほどの静寂に包まれた。
刹那的にやってしまったと頭では理解した。だが、体は恐怖のあまり動くことが出来ず、チョップを叩き込んだ手は未だに頭の上に鎮座していた。
こ れ は ま ず い。
第一印象を良くするどころか最悪の部類ではないだろうか。下手したら転校初日の自己紹介よりもあかんことをしでかしてしまった。
「あなた……」
「ッ!?」
地獄の底――コキュートスから響いてくるような絶対零度の声に俺の身は限界まで縮こまる。
ああ……俺の人生はここまでか。ごめん、小夏。お兄ちゃんは先に逝ってるわ……。
ひよりのお母さんの右手が大きく振り上げられ、死を覚悟した俺は咄嗟に目を瞑る。
思い返してみれば何も無い人生だった。けどその何も無い人生だからこそ楽しい時間を俺は過ごすことができた。放課後は友達と馬鹿みたいに騒いで、夜は小夏とのんびりとゲームしたり話をしたり、彼女こそいなかったが充実した日々人生だったのはまず間違いない。ただ思い残すことがあるとすれば……昨日買ったプリンを食べ損なったことか……。
「…………あれ?」
しかしいつまで経っても痛みがやって来ない。それどころか心地の良い感覚が頭にあった。
恐る恐る目を開くと、ひよりのお母さんは満面の笑みで俺の頭を撫でている。訳が分からず戸惑っていると、見兼ねたお母さんは口を開く。
「修平さん面白い人ね!! 礼儀正しいだけじゃなくてツッコミも冴えているなんて完璧!!」
「…………え?」
な、何なんだこのお母さん……。とりあえず俺は明日の空を迎えることが出来るらしい?
「修平さん、私はね、あなたなら大歓迎よ」
突然、ひよりのお母さんの雰囲気が変わる。ああ、なるほど。これがあなたの本当の姿なのか。
「冗談で言ってるわけでも煽てている訳でもないの。私の女の勘が囁いている。修平さんにならひよりを任せても構わないって。別に無理に恋人になれって言ってるわけじゃない。修平さんが良ければ、一番近くでひよりのことを支えてあげて欲しいの」
なんて形容すればいいのか分からない。ただ一つ言えることがあるとすれば、この人はきちんとお母さんをやっているんだなという事だった。
「わん!」
「あら? 可愛いわんちゃん! この子、修平さんの家族?」
ようやく俺の胸に抱き抱えられていた子犬の存在に気づいたらしく、ひよりのお母さんは子どものように無邪気な瞳で俺に尋ねてくる。
「……」
「……」
俺は一度ひよりと顔を見合わせる。これは俺から言うことではない。ひよりが自分で伝えなければならない。
「あのね、お母さん。この子、うちで飼ってもいいかな?」
そうして小さな家族会議が幕を開けた。
to be continued
心音です。こんばんは!
ひよりのお母さん初登場です!はたしてひよりは子犬を飼うことが出来るのか。次回に続きます!




