第22話『ありふれた日常』
「――重役出勤お疲れ様、修平くん」
「その言い方だと今登校してきたみたいなんだが……」
放課後――になる五分前。授業は終わりホームルームが始まる時間帯。欠伸を堪えながら教室に舞い戻ってきた俺に、巡は長方形の物体を二つ立て続けに俺に向かって投げつけてきた。
縦回転の掛かったそれを一つは白刃取りの要領でパシッと掴み取り、もう一つを肘で挟んで受け取る。長方形の正体は午後の授業のノート一式だった。
「空白のところは分からない問題だから代わりに解いてくれると嬉しいな」
俺の記憶が正しければ午後の授業は数学と化学。どちらも俺の得意分野だ。ノートをぱらぱらと捲り、文字の書いてある最後のページに辿り着く。
「……おい」
俺は低い声で唸った。ノートを握る手がぷるぷると震える。込み上げてくる怒りが指先からノートに伝達して幾つかのシワを作っていた。
「どうしたの?」
何食わぬ顔で首を傾げる巡。プツンと、俺の中で何かが切れたような音が聞こえた気がした。
「全部空白じゃねーか!? 最初っから俺頼みだろ絶対!!」
巡にノートを突きつけて俺は叫んでいた。すると巡は、涼しい顔で長い黒髪をサッとかき上げる。
「人間誰しも得意不得意、そして相性ってものが存在するんだよ。私と理数系は相性最悪なんだよね。磁石みたいに反発し合うの」
「……じゃあ逆に相性ぴったしで相思相愛の科目は何なんだよ」
どうせまともな回答を得ることは出来ないと思いつつも聞かずにはいられなかった。
「相思相愛……憧れるね。みんな私から振っちゃった」
「おい勉強しろよ」
「強いて言うなら……生活、かな?」
「小学生かよ」
生活とか何やっていたか全く覚えてねーよ。
とりあえず一つ分かった。巡は勉強という概念が大嫌いなのだと。中間テストの時に小夏諸共泣きついてくる未来が簡単に予想出来た。
「まぁノートの礼だけは言っとく。サンキュー」
「友達として当然のことだよ。見返りは要求するけどね」
「はいはい。ちゃんと解いておきますよ」
ノートに写された問題を頭の中で解きながら自分の席に着く。陽光に照らされていた椅子は誰かが座っていた後のように温かくなっていた。
「放課後ちゃんと空けておいてくれた?」
机に肘を突き、手のひらに顔を乗っけて巡が訊ねてくる。
「もちろん。そうだ。こっちも紹介したい奴がいるから一緒してもいいよな?」
「ふふっ。大歓迎だよ。修平くんの友達なら尚更、ね?」
何やら意味ありげに笑う巡。まるで初めからこうなる事を予想していたような、そんな答え方だった。
俺はノートに視線を落としてシャーペンを走らせる。教室内の喧騒と俺が問題を解いていく音が混じりあって独特なハーモニーを奏でていた。
そのハーモニーに終止符を打つかのようにガラッと音を立ててドアが開く。四角く切り取られた空間から姿を現した担任は俺のことを一瞥した後、何食わぬ顔で教壇に立って帰りのホームルームを始める。
当たり前の光景。
当たり前の日常。
これが俺の生きる現実だ。何も疑問に思うことは無いはずなのだ。
なのにどうして……どうして、こんなにも胸が締め付けられるような気持ちになるのだろうか。
「……っ」
頭を振って気持ちを切り替える。どうもこの町に来てから頭がおかしくなってしまったのかもしれない。とにかくだ。今は目の前の問題に集中することにしよう。どうせ俺のくだらない妄想に過ぎないのだから。
数学の方は楽だ。計算式なんて頭の中に書いていけばいい。正しい公式と多少の暗算能力があれば答えだけを導くことは容易。これが出来ると問題を解くスピードが一段と向上するから身につけておいて損のない能力だ。
「――修平くん、修平くん」
「待て。あと少しで終わ……」
前から聞こえてきた声に俺は反射的に答えたが最後まで言い切る事は無かった。
あれ? これ巡の声じゃない気がするぞ? そもそも巡は今俺の隣にいるし? え? じゃあ誰だよと思い俺は顔を上げて声の主を確認する。
「こんにちはだよ〜」
「……こんにちは」
挨拶されたからとりあえず返しておいた。
ふわふわとウェーブのかかった淡い紅の髪の毛。くりんとした黒い瞳。少女を形成する顔は控えめに言っても可愛かった。ひよりを元気な天使と例えるなら、この少女は大人しい天使と言ったところだろうか。我ながら比喩表現がヘタクソで困る。一通り分析した後、俺はとりあえず助けを求める為に巡の方へ顔を移した。
「どなた?」
「私の友達。放課後に紹介する約束だったでしょ?」
「ん? あれ? いつの間にかホームルーム終わっていたのか」
問題を解くのに集中し過ぎていたらしい。とりあえず残り一問だった問題をササッと解いてシャーペンを置く。化学の方は家でやればいいだろう。
「わたしは小此木椛だよ〜。よろしくね〜」
「なぁ、椛」
「お〜。いきなりファーストネーム。修平くんは隅に置けないな〜」
「……お前よく気が抜けているとか言われないか……?」
「お察しの通り! そんなの日常茶飯事だよ〜」
ふんわりとした笑顔で答える椛。しっかりと掴んでいないと、シャボン玉のようにふわふわと何処か遠くまで飛んでいってしまいそうな女の子だ。
「何やともあれこれからよろしくな」
手を差し出すと、椛は変わらない笑顔のまま俺の手を握った。女の子特有の柔らかさが手を包み込む。同じ人間なのにどうしてここまでの差が出るのだろうか。
「――楽しそうね。あたしも混ぜてよ」
「お?」
椛と俺の手にもう一つ手のひらが重なる。見上げると初雪のように真っ白な髪の少女が微笑んでいた。
「葵雪ちゃんやほ〜」
相手を使ってひらひらと手を振る椛。どうやらこの少女の名前は葵雪と言うらしい。
「水ノ瀬葵雪よ。よろしく、ブイブイ言わせていた転校生」
「煽られている。俺今絶対に煽られているよ。これは今後もこのネタで煽られ続ける運命か。なら今この場を借りて訂正しよう! あれは嘘だ!」
「知ってるわよ」
「知ってるよ〜」
「修平くん。流石に嘘って事くらいみんな分かってると思うよ?」
「……」
心を冷凍庫に放り込まれたような気分になった。いっその事、このまま氷漬けになれば楽になれるのかもしれない。
「あれ、じゃあ俺なんでクラスメイトに避けられている感じだったわけ」
「どう接すればいいか分からなかったからに決まってるじゃん?」
なるほど。正論だ。俺はそういう奴ほど面白いということで進んで絡みに行くが、普通の人からすれば接し方が分からないのは当然と言えば当然のことかもしれない。
「それはそうと修平くん」
机に頬杖を付く巡の髪が重力に逆らいきれず前の方へ垂れる。
さらさらとした漆黒の髪は窓から射し込んでくる陽光に照らされ、ブラックオパールのような妖美な輝きを返していた。
「あれ、ほっといてもいいのかな?」
ささくれ一つない綺麗な指先が教室の外の方へ向けられる。ニコニコと笑う巡から指先の方へ視線を移すと、そこには小夏とひよりの姿があった。
「修平の友達?」
「妹と後輩。おーい。二人共、普通に入ってきていいぞー?」
声を掛けると二人の表情に花が咲く。同時にクラスメイト達がひそひそと話を始める。こればっかりは時間の解決を待つしかないだろう。
「お兄ちゃん、クラスにちゃんと話せる人いたんだね。私安心したよ」
ホッと胸を撫で下ろす小夏。無性に殴りたくなったがここは寛大な心で許してあげることにしよう。
「こんにちは〜。私は椛。小此木椛だよ〜」
「初めまして。あたしは水ノ瀬葵雪よ」
「紹介する。こっちの生意気な方が妹の小夏」
どもです! と言うように小夏はビシッと敬礼をする。
「むす〜」
「んで、こっちの普段は元気100倍だが今は何故かふてくされているのが後輩の花澤ひより」
簡単な紹介を終えると、ひよりは何故かジト目で俺のことを睨んできた。
「修平さんは女の子のお友達が多いんですねー。ふーん。はーん」
それだけ言うとひよりはぷいっと顔を背けていじけた子どものように頬を膨らませる。
非常に申し訳ないのだが、拗ねているその姿がとても可愛らしく、自然と頬が緩んでしまう。
「おやおやこれはこれは。なるほどなるほど」
そんな中、巡は何かに気づいたのか一人納得したように何度も首を振っていた。俺もひよりの言葉の意味が分からないほど鈍感ではないし、俺自身に芽生えつつある感情の正体も分かっているつもりだ。
胸に手を当ててゆっくりと目を閉じる。
自分の中に意識を集中させれば聴こえてくる心音。生きているという証。とくん、とくんと心臓が動く度に血液だけじゃない。たくさんの気持ちや感情も一緒に身体の中を駆け巡る。
人間は心があるからこそ生きていける。人が生きる上で酸素が絶対に必要なのと同じくらい、心というのは生きていく上で大切なものなのだ。
ちょっとしたことで嬉しいと思える気持ちや無性に怒りたくなる気持ちだってそう。誰かを大切に思う気持ち。そして……人を好きになるという気持ち――。俺たちはきっと心によって生かされているのだろう。心が無ければ感情だって無い。肉体的には生きているのだろうが、果たしてそれは人として生きていると言えるのだろうか?
「――生きているとは言えないでしょうね」
考えを遮るように、ひよりの顔がにゅっと目の前に現れる。
そう。ひよりの言う通りだ。そんな状態で人は生きているとは……あれ?
「……俺、声に出してたか?」
「あ……」
そう聞き返すとひよりは、しまったとでも言うようにあからさまに目を逸らす。
「いえいえ! 別にそういう訳じゃないんですけどね。まぁあれです! 何となく分かったんですよっ」
妙に歯切れの悪い返事をするひより。単に勘が鋭いだけ……と思うにはあまりにも回答が的確過ぎる。今のひよりの答え方はまるで、俺が何を考えているのかお見通し――そんな感じがした。
「修平くんが自分の世界から帰ってきたし、みんなで甘味処でも行く?」
ぽんと手を鳴らして巡がそう提案する。傍から見ても考え事をしているのは丸分かりだったらしい。
「……なんか悪いことしたな」
ま、考えても仕方ない事だ。今はこれから起こるだろう楽しい時間に備えてテンションを上げていかないとならない。
「甘味処って確か……和菓子食べられるところでしたっけ? 花澤さんがこの間案内してくれた場所だよね?」
「ですです! あそこは外見は微妙ですし、オシャレの欠片もありませんけど、味だけは確かなんです!」
胸を張って自分のことように自慢するひよりだが、その言葉を店主が聞いたら泣くぞ?
「いいわね、甘味処。ちょうど甘い物が食べたい気分だったのよ」
「わたし、和菓子大好きなんだ〜。三日に一回は食べに行ってるんだよ〜」
葵雪と椛はすっかり和菓子スイッチが入ってしまったらしい。俺たちのことを差し置いて二人楽しく談笑を始める。
「そんなに美味しいのなら是非とも食してみたい。小夏は?」
答えは分かりきっているが一応形だけ訊ねておくことにする。
「私もいいと思うよ。話聞いていたら食べたくなってきたしね」
「満場一致みたいだね。それじゃあ時間が勿体ないしそろそろ移動しよっか?」
巡の提案にみんな揃っておー! と、拳を上げるのだった。
小夏とひより以外はそれぞれ自分の席に戻って帰り支度を整え始める。俺は巡から借りたノートと自分のノートだけスクールバッグに放り込んで早々に準備完了。他のメンツの準備が整うまでの暇つぶしに俺は近くにいたひよりに話を振る事にした。
「なぁ、ひよりのオススメってなんだ?」
「オススメ? ああ! これから行くところのですか?」
「そうそう。やっぱり初めて行くところは誰かのオススメを食べた方が安牌だろ? だからひよりのオススメ教えてくれよ」
「ひよりのオススメでいいんですか? 感じ的に小此木さんの方が常連さんみたいですし、そっちに聞いた方が外れないと思いますよ?」
「だろうな。けど俺はひよりのオススメが食べたいんだよ」
他の誰かじゃなくて、ひよりと同じ物が食べたいと俺は思った。きっとそうすればひよりの花の咲いたような笑顔が見れるような気がしたからだ。
「そ、そこまで言うならひよりがいつも食べてるオススメを修平さんに教えてあげますよ!」
恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに頬を朱色に染めたひよりは待ち望んでいた表情で俺に笑いかけてくる。
何度見ても飽きることないひよりの笑顔。ひよりが笑っているだけで周囲も必然的に笑顔になれる。ひよりの笑顔は人を幸せな気持ちにしてくれるのだ。
「……ど、どうして急に頭を撫でてくるんですか?」
「んー……なんとなくだ。撫でられるのは嫌いか?」
「いえ……むしろ好きみたいです。修平さんの手、気持ちいいです」
オレンジ色のさらさらとした髪を手のひらに乗せると指先の間をするりと抜けていく。きめ細かい髪質にも関わらず、絹糸のような柔らかさのある髪。撫でる度に香ってくるシャンプーの香りが鼻腔を擽っていた。
いつまでもこうしていたい気分だったが、それは帰り支度を整え終わった巡たちの声で中断されてしまう。撫でることと撫でられることに夢中になっていた俺たちはお互いパッと離れ、顔を見合わせてまた笑う。
「さぁ行きましょう! 修平さん! 和菓子がひより達を呼んでいます!」
「ああ、そうだな!」
そうするのが当然のように、俺たちは互いに手を取って机の周りに集まってきたみんなに背を向ける。
「あ! ちょっと待ってよ修平くん!」
「お兄ちゃん待てー!」
同時に走り出した俺とひよりを慌てた様子で巡たちが追ってくる。
「修平さん! 楽しいですねっ!」
「これから楽しい毎日を続けような!」
「はい!」
放課後の廊下を二人駆け抜ける。まだ天高い位置で輝いている太陽が俺たちのことを照らしていた。
to be continued




