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放心



 学校が終わって一人で家に戻った。

 家の中はもぬけの殻で誰もいなかった。男はどうやら適当に部屋の中を散らかして帰ったらしい。汚れた食器が置いてある。

 それらを見ると無性に腹が立って、持っていたカバンを床に叩きつけた。


「くそっ」


 苛々した。


 蒼くんは僕に打ち明けた事で、すっきりした顔をしていた。その一方で僕はうろたえた格好を見られたくなくて始終ニコニコ笑っていた。馬鹿みたいに笑いすぎて頬が痛い。

 こんな時にセフレの連中が押しかけてきたら、誰でも構わず抱いてやるのに。都合の悪い時ばかり邪魔をして使えない奴らだ。

 僕は携帯電話を取ると、片っ端から電話をかけた。まだ夕方近くなのでほとんどが留守電に繋がる。むしゃくしゃしながら、暇なら連絡してくれと伝言だけ入れた。

 自分でもバカな事をしていると分かっている。一年の時は遊びまくって、不安になって病院まで行った自分が、また同じ事を繰り返そうとしている。

 蒼くんのどこがいいんだ。たかが顔が可愛いだけじゃないか。性格はまじめだし一途でどこの誰か知らないが、僕みたいな下半身にだらしない男の事をずっと好きで、あんなに泣くなんて。

 僕はうな垂れて彼の顔を思い出した。

 名前を呼ばれるのがうれしい。

 穢れのない彼の友達になれて、それだけで幸せだったのに。

 肝心な時になると、意地悪な事ばかり言ってしまう。

 壁にもたれてぼうっとしていると、ドアを叩く音がした。勝手だけれど、今は誰にも会いたくなかった。無視をすると、もう一度ドアを叩く音と共に外から声が聞こえた。


「康平? 俺だけど……」

「蒼くんっ」


 僕は四つん這いになり大慌てで玄関に向かった。ドアを開けると、少し元気のない蒼くんが立っていた。


「ど、どうしたの?」

「入っていい?」

「いいよ」


 蒼くんは一瞬ためらって、部屋の中をキョロキョロと眺めた。


「どうしたの?」

「ゴキブリは?」

「え?」

「前に来た時、いるって言ったじゃないか」

「ああ、もういない。大丈夫だよ」

「そっか」


 蒼くんはほっとして中に入った。僕はドアを閉めながら、目の前を歩く蒼くんに欲情した。


「康平?」


 我慢の限界だった。彼が欲しい。自分の事を好きじゃないなら、腕づくで彼を抱いてもいいじゃないか。

 そんな恐ろしい事を考えていると、蒼くんが不思議そうに首を傾げた。


「康平、気分悪い? 変な顔してる」


 僕がずっと黙り込んでいたので、蒼くんは首を傾げて僕の顔を覗き込んだ。

 その時、僕の口からとんでもない言葉が吐き出た。


「僕と付き合う?」

「え?」


 蒼くんがぽかんと口を開けた。


「最低男なんかやめて、僕にしない?」

「な……何言ってんだよ」

「冗談だよ」


 僕はわざと冷たく言った。


 蒼くんの顔がすっと青ざめる。唇が震えて出て行こうとドアの方へ向いた。僕は思わず彼を抱き寄せた。


「何するんだっ」


 蒼くんが焦って腕の中でもがいた。でも、その体を離す事ができなかった。


「……好きだ」

「え?」

「可愛くて、誰かの事をずっと大好きな蒼くんが、好きだ」

「何だよ……それ……」


 蒼くんの泣きそうな声がした。そして、思い切り僕の胸を叩いた。


「離せっ」

「嫌だ」


 僕は急に腹が立って、蒼くんの両腕をつかんだ。


「やめろよっ」


 蒼くんが必死で逃げようとしている。でも、僕は逃がしたくなくて片手で両手首をつかんだ。キスしようと顔を寄せる。


「やめろよっ。康平……っ」


 顔を背けて抵抗をする。その声には緊張が含まれていた。


「お前、これ以上何かすると許さないからなっ」

「いいよ」


 平然と言ってから、彼を床に寝かせて上にまたがった。蒼くんは唇を震わせて僕を睨んでいた。僕は彼が愛しくてたまらなかった。彼が欲しかった。

 そっと覆い被さるとびくっとその体が震えた。


「蒼くん……」


 僕はなるべく優しく彼を抱きしめながら囁いた。


「好きだよ。本当に、君が好きなんだよ」


 そう言うと、蒼くんの目から涙が溢れてきて僕は戸惑った。


「嫌? 僕に触られると嫌?」


 すると蒼くんは首を振って、僕の首にしがみついた。何も言わずに目を閉じる。僕は吸い込まれるように彼にキスをした。柔らかい唇だった。

 温かくていい匂いがした。

 蒼くんにキスをしているなんて信じられない。その時、蒼くんの体が急に硬くなった。低い声が耳元で響いた。


「…やめろ」

「ごめん、無理」


 僕に理性が残っていたらやめてあげただろう。でも、理性は吹っ飛んでいるから、こんなひどい事ができた。


「蒼くん……」


 彼の名前を呼んだその時、携帯電話が鳴った。僕のだった。

 僕は一瞬で我に返り、鳴り響いている間、身動きひとつ取れなかった。

 留守電に切り替わり、男の舌打ちする声がかすかに聞こえた。

 それ以上、何も言うな。僕はぞっとしながら電話が切れるのを待った。音がしなくなり、ほっとしたのも束の間、次にまた違う音楽が鳴りだした。僕はむくりと起き上がって電源を切ってしまおうと思った。


「待てよ……」

「え?」


 振り向くと、蒼くんが起き上がって額を押さえていた。

 それから、何か考えるように大きく息を吐いてから、携帯の電源を切っていた僕のそばに寄って僕を見下ろした。その瞳は凛としていて挑戦的で綺麗だった。

 僕は彼を初めて綺麗だと思った。

 蒼くんはいきなりしゃがみ込むと、僕の頬を両手で押さえて、顔をじっと見つめた。

 長いこと見つめあっている間、僕は冷静になっていった。そして、体が冷たくなった。

 蒼くんに対して、取り返しのつかない事をしたんだ、と悟った。

 僕の顔色が変わったのを見て、蒼くんは、くしゃりと顔を歪めた。


「バイバイ」


 冷たいひとことに僕は全身に水をぶっかけられた気がした。

 蒼くんは僕を虫けらみたいに見てから、背中を向けた。

 ドアが閉まるまで僕は身動きが取れなかった。






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