スキンケア・ミルク
いつも通り目を覚ます。寝起きの身体のダルさにため息が出た。今日も、疲れは取れていない。ボヤっとしたままの脳みそで、私の視力のおおよそを担っている本体を探す。…ああ、見つけた。
開けっ放しのカーテンから入り込む太陽が目の奥を痛くする。夜の存在を消し去ってから3時間。部屋が白く染まっている。これは光だ。
入り込む光を眺めていると突然、視界が闇と化した。一瞬何が起きたのか理解できずにいると、窓という遮りを失ったそこから、天使が舞い降りている。――――
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窓枠に得体のしれない何かがある。いや、これは〈いる〉という表現が正解なのかもしれない。ふわふわした、いかにもな柔らかさを纏っていながら、たくさんの目玉がある。背中(であろう場所)から白と黒の翼がいくつも生えている。誰がどう見ても、ホラー&グロテスクである。
とうとう私は、幻覚が見えるようになったらしい。相当疲れている。もしや、風邪をひいているのだろうか。眩暈がする。
棚の深くにしまわれた風邪薬を取ろうと、踏み台に足をかけた。それと同時に、今までに聞いたことのない、澄んだ低音が聞こえてくる。
「おい、無視なのか。」
ただただ驚いた。幻聴まで聞こえてくるのはおかしい。声がした場所は、たしか私が幻覚を見たあたりだ。そう思うと、なぜか振り返って確認せずにはいられなかった。
「お前の願いを一つ、叶えてやる。」
ゆっくり放たれる。言葉を紡ぐような空洞はどこにも見当たらなかったが、声はこいつから聞こえてくる。
「いやいや・・・先ずは、名乗っていただけないでしょうか?」
気味が悪すぎて軽く挑発してしまった。しかし、当の物体は無数についた目をまばたきさせるだけで、一貫として無表情だ。
「残念ながら、名があればとっくに名乗っている。俺に名は無い。ただの〝天使〟だ。仕えている神から命を受けたため、ここにいる。」
天使、あの天使か?
世間の言う可愛らしい見た目が、視界の先には存在しない。口調も荒っぽく、堕天使だとも思えない。こんなのが悪魔でも嫌なくらいだ。羽も純白とは言えない。漆黒の翼も生えているのだ。いったいどういうことだ。考えすぎて頭が痛くなる。
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「神様からの命令?」
こいつの言う命とは、どうやら私の願いを一つ叶えることにありそうだった。しかし、いきなりすぎる。なぜ、ターゲットが私であるのか。原因やキッカケは何なのか。気味の悪さは治まったが、驚きで手の震えが未だ止まらない。
「伝え忘れていたが、俺自身は人間の心情が読めてしまう。だからこそ、お前にたった一つの願いさえ存在しないことも知っている。また、願いを叶えるにあたって、神に仕えている俺が世界を滅亡させることはできない。天界の原則なのだ。そして、なぜお前が選ばれたかというのは、ただ単純に、神の好みの顔をしていたからだ。」
先程とは違い少し早口で喋る天使が、いろいろと突っかかりを感じる内容を告げる。気が抜けた。何も答えずに、手の中に半ば埋まった携帯電話を見つめる。運良く着信がなるわけはない。
こいつは私に、〝たった一つの願いさえ存在しない〟と言った。長年、胸の内に秘めてあった言葉が、思わずこぼれた。
「・・・死にたい。」
ボソッとそう呟けば、
「そんなことは知っている。ひとまず理由を聞こう。なぜだ?」
と疑問が返ってきた。だからこそ、ここぞと言わんばかりに思いをこぼす。
「私自身が、ワタシを好きになれないからに決まっているじゃないですか。それなら、好きになる努力はしたのかと聞かれると、そうでもありません。きっと嫌いな自分は嫌いなままで、好きになんてならないでしょうから。努力などで人間の根本的な部分は、死ぬまで変わらないと思うのです。私は、輪廻転生を信じていません。過去の記憶が残っていないのでは、それ自身を信じる理由にもならない。今の私には、目の前にある事実だけなのです。」
八つ当たりのようだった。
「それが望みなのか。」
相変わらずな低音で、馬鹿にするようなこともなく天使は答える。
「くだらない。」
胸がちくりと不自然に痛んだ。なんとなく目の前の存在に恐怖すら感じた。胸元に手を添える。これは、夢ではない。
「お前に足りないものは何だと思う。」
これまで落ち着いているように聞こえた声が、どこか怒りを含んでいるようにも思える。潤んだ瞳では、表情さえつかめない。構わず天使は続ける。
「俺は、人間の生死を美化するつもりはない。死にたいと考えている者に、死ぬなとは言わない。浮世の、『死が悪いもの』だという考え方も理解ができない。しかし俺は、お前のような人間が嫌いだ。第一、人間を好きになった覚えもないが。」
「何が言いたいの?」
震える声に、天使の瞳たちが一斉にこちらを見る。見えない圧力で潰されそうだった。
「生があるなら、同じように死がある。生を望むなら、また死を望むものだと思わないか。輪廻転生が存在するのか、説明したところで信じるかどうかはお前次第だ。こうやって会話をしている事実が、俺が消えた途端『無』になるかもしれない。まあ、一番何が言いたいかって、どうしてその思いを周りに隠して生きているんだってことだ。」
「本当は、死ぬことが後ろめたいんだろう?」
ギクリ。核心を突かれた。溜めたままの涙は、当に限界を超えていて、流れた雫で頬が濡れる。
「すまないが、『死』という選択に身をゆだねる者でなければ、心臓を止めることも存在を消し去ることもできない。今のお前に、それが望みであるという確信も持てないし、望んではいないのだろう。さあ、ほら、お前はどうしたいんだ?」
優しく諭すような口調で問いかけてくる。鮮明さを取り戻した視界に、穏やかな目が映る。
「私は、幸せになりたい。」
それ以外の言葉が、なぜか出てこなかった。
「そうか、わかった。」
小さく呟いて、彼は目を瞑った。どうして〝彼〟という認識ができたのか、その理由は定かではない。ふと、自身の身を暖かい何かで包まれるような感覚になった。
「その願い、叶えよう。」
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空気の振動と同時に、あたり一面が白く輝いた。目を開けていられずに、その場でしゃがみこんで顔を伏せる。きっと最後になるのだろうなと思っていたのに、あまりの眩しさのせいで彼の姿は見られない。1分もしない間に輝きは消えて、いつものように、太陽の光がテーブルに射していた。
「あ、」
彼のいた場所に、大理石のような綺麗な石でできた十字架。あまり大きくはないけれど、しっかりとした重みを感じた。天使と会った記念にペンダントにでもしよう。
騒がしい出来事だったな。
一息しようと彼が現れる前に入れた、飲みかけのジャスミンティーを飲み干す。ジャスミンがフワッと香る。どうやら自分で思っている以上に、私の精神面は落ち着いているらしい。
―――ピンポーン
滅多にならない呼び鈴が鳴る。
はーい。
間延びした返事をしながら、玄関に向かう。開けた扉の前に立つ人物の笑顔に驚きと嬉しさを感じつつ、なぜか乾いたはずの涙が溢れそうだった。
「お前の願いを、叶えに来たぞ。」