空の宇珠 海の渦 外伝 祈りの傷痕 その一
風が花の香りを運んでくる。
春の光が全てを包み、育んでいる。
大地には生命が溢れ、輝いている。
だが、この輝きを感じている者が、この国にはどれだけいるだろう。
真魚は考えていた。
「いい香りだな、真魚!」
「春は生命の季節だな!」
子犬が足下を歩いている。
銀色の子犬だ。
その言葉は、その子犬が喋っていた。
子犬が話しかけた真魚というこの男…
肩には漆黒の棒を担いでいる。
そして、腰には朱い瓢箪。
薄汚れた直垂が、旅の途中であることを示している。
旅にしては軽装であるが、そんなことは気にしていない。
その男の名は佐伯真魚。
後に弘法大師、空海と呼ばれる男だ。
「嵐、変わったな…」
真魚はその子犬を嵐と呼んだ。
「俺は神だ!変わる訳がなかろう!」
神だというその子犬の言葉を、真魚は聞き流した。
「ほう…」
それは故意にではない。
ある波動を感じ取ったからだ。
そこは、ある村の外れであった。
直ぐそこに、その村が見えていた。
山の斜面に田畑が広がっている。
その村の外れに、大きな楠が立っていた。
樹齢数百年。
その楠の前に、小さな祠があった。
この地の神を祀っているらしい。
その祠の前に人がいる。
その波動は、その者の祈りであった。
「真魚…」
嵐が感じ取っている。
「…」
真魚は黙っている。
祠に近づくと、真魚達に気づいた。
その者が、びっくりした様子で立ち上がった。
娘であった。
齢十五、六。
真魚はそう感じた。
長い黒髪を後ろで束ねている。
その娘は真魚を見ておびえていた。
娘の左の頬には、大きな傷があった。
おびえの意味が、その傷であることは直ぐにわかった。
だが、真魚にはもっと気になることがあった。
「ああ…」
娘が何かを話そうとしている。
だが、言葉が出てこない。
「哀しい祈りだ…」
真魚が話しかけた。
一瞬、娘の目が見開いた。
「言葉を失ったのか…」
真魚がその娘にそう言った。
頬の傷…
そして、心の傷…
この娘が負った傷は深い。
「旅の者だ、畏れることはない…」
真魚の言葉の波動が、娘を包み込む。
危険な者でないことは感じ取ったようだ。
娘が嵐に気づいた。
膝をついた。
嵐はその娘に黙って頭を撫でさせた。
娘が少し落ち着いて、心を開き始めた。
笑っている。
その波動が伝わってくる。
「何を祈っていたのだ…」
真魚が娘に聞いた。
娘は手を横に振った。
話せないと言っているようだった。
「心で念じて見るがいい…」
真魚がそう言った。
娘は驚いた様子であった。
だが、直ぐにその意味を理解したようだ。
目を閉じ真魚の言うとおりにした。
「その伝えようとする気持ちが大切なのだ…」
娘は驚いて目を開けた。
娘は、人差し指を自分の胸に向けた。
『私の心がわかるの?』
そう言っているのだ。
「今は少しだけだ、慣れればすぐにわかる…」
真魚は娘にそう言った。
娘は微笑んだ。
少しでも、自分の事を理解できる人が現れたのだ。
「俺にはさっぱりわからぬ!」
嵐がつい口を開いてしまった。
その声に娘は目をまん丸と見開いた。
嵐を見つめていた。
「こいつは嵐だ、こう見えても神だ!」
仕方なく真魚が娘に説明した。
娘は何が何だかわからない。
説明されても理解出来ないことが,
この世にはあるのだ。
ぐうううううう~
嵐の腹がなった。
「そういう時間か…」
真魚は呆れている。
嵐の腹時計は限りなく正確だ。
「減るものは減るのだ!」
嵐が開き治ってそう言った。
続く…