空の宇珠 海の渦 外伝 -風の音色- その一
春の風が吹いていた。
木々が鮮やかな黄緑色の葉を広げようとしている。
季節の中で一番生命を感じる時だ。
その風の音に混じって、笛の音が聞こえてきた。
「ほう…」
その男はその音色に、興味を抱いた。
直垂、その時代にそう呼ばれた着物を、その男は来ていた。
他に目立った特徴が二つあった。
その男は黒い棒を肩に担いでいた。
漆黒、見ているだけで魂までも吸い込まれる。
そんな妖しい色をしていた。
他に、もう一つ特徴があった。
腰に瓢箪をぶら下げていた。
朱色の瓢箪であった。
その男の名は佐伯真魚。
後に空海と呼ばれる男である。
「美しい…」
その音色に、その男は心を寄せた。
「こんな山奥に誰かおるのか?」
その男の足下で、子犬が喋っている。
銀色の子犬だ。
その音色は風に運ばれてくる。
木の葉まで、それを聞いている。
そして揺れている。
それにしても美しい音色であった。
古代の音楽は、神に捧げるものであった。
その形は今も残っている。
だが、それではない。
「このような美しい旋律は、聞いた事がない…」
真魚は感心していた。
「どこに行くのじゃ?」
真魚が歩き始めた。
その行動に子犬が釘を刺す。
「そっちは逆方向だろ!」
だが真魚は音のする方へと歩いて行く。
「見てみたくはないのか、音色の主を…」
真魚は子犬にそう言った。
「見てみたくは…」
そこまで言いかけて、子犬は後を追いかけ始めた。
隠岐国。
隠岐の島と呼ばれている。
古事記では、伊邪那岐・伊邪那美の二柱によって
生み出された島になっている。
「真魚よ…」
子犬が後ろから問いかける。
「なんだ…」
真魚の答えは素っ気ない。
「お主は何か目的があって、この島に来たのか?」
「これと言ってない…」
真魚はさらりと答えた。
「目的もなしに来たのか?」
「目的はない、だが見つかった…」
真魚は子犬の答えにそう返した。
「見つかっただと!」
子犬は納得出来ていない。
突然笛の音色が消えた。
「ほう…」
真魚はその意味を理解した。
真魚の口元に笑みを浮かべている。
しばらく行くと海が見えた。
広々とした高台に出た。
草原が広がっている。
そこに一人の人がいた。
だが、何処か違う。
その人が、真魚たちに気づき振り返った。
まだ子供と言える年格好だ。
「白髪か…」
真魚が思わずそう言った。
歳は十二、三歳頃だろう。
髪の毛が白く短い。
そして、瞳が赤かった。
その子は、こちらをにらみつけている。
敵意が感じ取れる。
「誰だ!」
その声は女だった。
真魚はその場に座った。
そして、五鈷鈴を出した。
「何をする?」
子犬が真魚の行動を理解出来ない。
「まあ、見ておけ…」
真魚はそう言うと五鈷鈴を鳴らした。
ちりぃ~~~~ん
その波動が広がっていく。
それと同時に、周りの草花から一斉に光の粒が舞い上がった。
少女が目を閉じた。
何かを感じ取っている。
そして手を組んだ。
いのりを捧げるように、それを口元に持って行った。
次の瞬間。
その組んだ手から、美しい音色が生まれた。
音色の正体は口笛であった。
ちりぃ~~~~ん
真魚が時折、五鈷鈴を鳴らす。
真魚が敷き詰めた音の上を。
少女の笛の音が踊る。
その旋律は自然と同調するかの様に、草原を駆け抜けていく。
「なんと…」
子犬は口を開けたまま聞き入っている。
その音は少女の生きる証であった。
少女が生み出した生命の輝きであった。
その旋律は大切な人への想いであった。
そして、その波動は宇宙に響いていく。
宇宙が振動するとき、神が喜んでいる。
しばらく三人は別の宇宙にいた。
少女は組んだ手で、音色を生み出してく。
祈りを捧げている。
目を閉じている。
真魚の波動と少女の波動が触れ合う。
真魚の鳴らす五鈷鈴と共鳴している。
二人は音という言葉を交わしていた。。
星の海の中で、その音色が聞こえている。
宇宙がものすごい速さで動いている。
全てが幻想であったとしても、
それが起こった事に違いはない。
しばらくそれは続いた。
そして…
音が終わった。
真魚は目を開けた。
続く…