空の宇珠 海の渦 外伝 - 黒い波 - その一
潮の香りがしている。
波の音が懐かしく感じる。
遠い記憶。
その記憶は人の中に眠っている。
出雲国。
遙か昔、そう呼ばれていた。
だが、その名は今も生きている。
それは、この地から日本の歴史が始まったからだ。
縄文時代から弥生時代にかけて、その出来事は起こっている。
何万年も続いた縄文文化が、わずかな間に弥生文化へと移行したのは何故か。
そこに日本の始まりの謎が隠されている。
神話という暗幕に隠された事実を、今は想像するしかない。
だが、何かが起こったことは事実である。
縄文文化はそこで途絶えたのだ。
何者かによって消されたのだ。
弥生以降の文化は現在の日本とさほど変わらない。
民衆に税をかけ、かすめ取る。
国という権力を振りかざし、かすめ取った ものを自分の物のように貪る。
だが、この仕組みは本来、日本のものではない。
この仕組みを持ち込んだものがいる。
この仕組みで支配を始めたものがいる。
それが日本という国の始まりなのだ。
波打ち際で一人の老婆が泣いていた。
座り込んでいる。
波が膝を濡らしている。
心の中で、悲しみの感情が波動に変わる。
その後ろを一人の男と一匹の子犬が通り過ぎていく。
直垂。
その時代にそう呼ばれた着物を、その男は着ていた。
他に目立った特徴が二つあった。
その男は黒い棒を肩に担いでいた。
漆黒。
見ているだけで魂までも吸い込まれる。
そんな妖しい色をしていた。
他に、もう一つ特徴があった。
腰に瓢箪をぶら下げていた。
朱色の瓢箪であった。
その男の名は佐伯真魚。
後に空海と呼ばれる男である。
波打ち際に座り込む老婆から、
悲しみの波動が伝わってくる。
足下を歩いている子犬の嵐が喋った。
「なぁ、真魚よ、どうして人は悲しむのだ…」
嵐は真魚に聞いた。
「大切なものが失われたからだ…」
真魚がそう言った。
「神であるお主には違う見え方であろう…」
「だが、人の目にはそう見えるのだ」
「神が創りしからくりだ…」
真魚は海の彼方を見ている。
雲が動いている。
もうすぐ風が吹き始める。
「この美しい世界を見る目が、全てを狂わすのだ」
真魚がそう言った。
「それは哀しいことだ…だが、悪いことではない」
嵐がそう言う言い方をした。
「この世は儚く美しい…」
真魚は気づいている。
「虫の目で見た世は、これほど美しくない…」
「虫は悲しまない、その術をしらない…」
「人は悲しむために生まれてきたというのか?」
嵐は真魚の答えが腑に落ちない。
「そうではない」
「感情は二極だ」
「悲しみがわからなければ、喜びは存在しない」
「片方だけで存在する事はない」
真魚は嵐に言った。
「では、人はその感情を全て体験するのか」
「全てを知るためには、そういうことになる…」
嵐には全てがあるがままに映る。
人の本質を見ることが出来る。
人が見ている世界を、理解することは難しい。
青嵐と同化するまでの嵐であれば、そんなことは気にしない。
だが今の嵐はそうではなかった。
壱与に特別な感情をもらった。
紫音の愛しさの波動をまだ覚えている。
人が放つ特別な波動が、神である嵐を変えようとしていた。
「無駄ではないのだな…全て…」
嵐がそう理解した。
「無駄ではない、無駄なことなど一つも無い」
真魚がそう言った。
そのまま浜をしばらく歩いた。
「何が起こったのだ…」
その先に奇妙な光景があった。
漁師の村が見えていた。
その村の様子がおかしい。
人が波打ち際に座り込んでいる
先ほどの老婆と同じように…。
その数が一人や二人ではない。
何十人という人が波打ち際にいるのである。
「真魚、これはもしかすると、厄介なことになるかも知れんぞ…」
嵐の考えは間違っていない。
この村に何かが起こった…。
多くの悲しみの波動。
それが全てを伝えている。
「失われたものが、餌か…」
真魚がつぶやいた。
「どうする気だ…」
嵐が真魚に一応聞いた
「決まっている…」
真魚が答えた。
嵐は呆れた。
「物好きな奴だ…」
嵐はそう言いながらも興奮していた。
真魚はその口元に笑みを浮かべていた。
続く…