空の宇珠 海の渦 外伝 - 魍魎の唄 - その一
心地良い陽差しが、春の訪れを告げていた。
道端の緑が心を和ませる。
生命の息吹を感じる。
全てが季節の始まりを喜んでいた。
「ひと雨来るか…」
男がつぶやいた。
すると風が吹き始めた。
急に辺りが暗くなる。
黒い雲が空を妖しげに漂う。
風が木々を揺すった。
直垂、その時代にそう呼ばれた着物を、その男は着ていた。
長い旅の途中であろうか、薄汚れている。
他に目立った特徴が二つあった。
その男は黒い棒を肩に担いでいた。
漆黒。
見ているだけで魂までも吸い込まれる。
そんな妖しい黒色をしていた。
他に、もう一つ特徴があった。
腰に瓢箪をぶら下げていた。
朱色の瓢箪であった。
紫の紐で縛られていた。
その男の名は佐伯真魚。
後に空海と呼ばれる男である。
雨が降り始めた。
雨粒が大きい。
足下に子犬がいた。
銀色の子犬だ。
その子犬は、妙な形の首輪をしていた。
男の足下を一緒に歩いている。
「真魚よ、これは雨宿りをせねばならぬな」
あろうことか、その言葉はその子犬が喋っていた。
丁度、峠を下りた所であった。
幸い、村らしきものが見えた。
「村が見えるが…」
「なんか妙な感じがせぬか?」
その異変を同時に感じ取っていた。
雨だというのに、人が外に出てきている。
しかも、一人や二人ではない。
村中全ての者が出ているようであった。
雨の中踊っている。
飛び跳ねて喜んでいる。
そんな感じがした。
「今年はそれほど乾いてはおらぬ…」
真魚が言った。
「この波動…」
真魚が感じ取ったものを、子犬も感じ取っていた。
「人ではないな…」
子犬が言った。
「どうもそうらしい…」
真魚という男が、その答えを受け入れた。
笑っている。
かすかに口元に笑みを浮かべている。
人ではない、得体の知れないもの前に、この男は笑みを浮かべるのだ。
「面白い…」
「嵐、行くぞ」
真魚は子犬の名前を呼び、歩き始めた。
『雨じゃ、水じゃ!』
『もっと降れ、もっと降れ!』
そのものたちは、唄を歌っていた。
子供も大人も歌っていた。
飛び跳ねて喜んでいるのに、何処か哀しげであった。
「何だか哀しい唄じゃのう…」
子犬の嵐はそう言って目を閉じた。
『おっとう、雨だよ、水だよ!』
『もっと降れ、もっと降れ!』
一人の女の子が、父親らしき男にそう言った。
「そうだな、千代、良かったな…」
男はそう言いながら、泣いていた。
大粒の涙を流しながら、泣いていた。
雨に打たれながら、泣いていた。
続く…