空の宇珠 海の渦 第五話 その五十四
田村麻呂の頭上で生まれた闇は、倭の兵に向かっていく。
このままだと川を渡れなかった兵が危ない。
まだ、一万ほどの兵が残されている。
「真魚!」
嵐が叫ぶ。
「静かすぎる…と思っていたが…」
「これが狙いだったのか!」
そう言いながらも真魚は笑っている。
「全て闇に引き込もうとする気か!」
嵐もすぐその事に気づいていた。
倭の兵も迫り来る異変に気づいていた。
「ん、なんだあれは!」
「黒い竜だ!」
「に、逃げろ!」
倭の兵は逃げ出した。
各が生きる方法を模索する。
迫り来る恐怖に絶望する者もいる。
足が止まる。
闇にとっては好都合だ。
闇の龍は、逃げ遅れた倭の兵を飲み込んでいく。
闇に触れた者は絶望の淵を覗くことになる。
自らが作り出した恐怖と絶望。
それ以上のものはない。
蝦夷の連合軍も、山賊たちも、異変に気がついた。
「なんだ!」
阿弖流為は頭痛がしていた。
ただの竜巻ではない。
覚えがある。
この感じ…
山賊の村に行く途中…
「皆、逃げろ!直ぐにここから離れろ!」
蝦夷の連合軍と戦っていた倭の兵も逃げた。
蝦夷も倭もない。
そこには、逃げ惑うただの人間たちがいた。
人智を超えたものの前で、人は本来の姿に還る。
「阿弖流為、逃げるぞ!」
黒い龍を見つめる阿弖流為に、母礼が声をかける。
「見たことがある…」
阿弖流為が言った。
「何だと?」
母礼は、阿弖流為の言葉の意味がわからない。
「ただの竜巻ではないのか?」
「違う…」
母礼の言葉を、阿弖流為は否定した。
「ただの竜巻などではない…」
「これは命そのものを食らう…」
阿弖流為は震えていた。
「お主、震えておるのか…」
母礼はその姿を見て、これが何であるのかを理解した。
「お主が、震える姿など見たことがない」
どんな敵でも勇敢に立ち向かう。
逃げることなどしない。
歴戦の勇士である阿弖流為が、震えているのである。
阿弖流為は動くことが出来なかった。
震えているのは、自分でもわかっている。
だが、恐怖で動けないのではない。
身体の中からわき上がる、何かに支配されていた。
死そのものと向き合っている。
逃げることよりも、触れてみたいという、欲望と戦っていたのだ。
「阿弖流為ここは危険だ!」
母礼が阿弖流為に触れた瞬間、その呪縛が解けた。
母礼の腹の辺りが光っている。
阿弖流為も同じ所が光っていた。
「もしや…」
母礼は懐に手を入れた。
それは紫音がくれたお守りであった。
「紫音…」
― これがあなたたちを守る ―
「また、お主に救われたな…」
母礼は、紫音の笑顔を思い浮かべていた。
続く…