空の宇珠 海の渦 第五話 その四十五
嵐が姿を変えた。
その霊力は周りの大気を舞上げる。
香炉を咥えて風上に回った。
その速さには誰も気づくことがない。
風上の木の上に香炉を置いた。
そして真魚の元に戻った。
「この薬、何で出来ているのだ?」
嵐はその効果を驚いていた。
「知らぬ方が良い」
「し、知らぬ方が良いものを鼻に入れたのか!」
「気にするな、気にしなければどうと言うことはない…」
真魚の言うことは正しかった。
聞けば更に気分が悪くなることは確実だ。
辺りがだんだん静かになっていく。
虫の音が少しずつ消えて行った。
もう立っている見張りもいない。
「そろそろか…」
真魚はそう言うと野営の中に堂々と入っていった。
倭の兵が眠っている。
「寝顔は皆かわいいものだな…」
真魚がつぶやいた。
「明日にも死ぬかも知れないのにか?」
嵐がやりきれない想いを吐いた。
「蝦夷も倭も人は人だ…」
「あの男が言わなければ、こうはなるまい…」
真魚は帝を気に入らない。
人の命など何とも思わない。
そのような男が国を動かしている。
「器のの小さき男だ…」
やりきれないのは、真魚も同じだった。
しばらく進むと、それらしき場所に着いた。
囲いがしてあり警備も厳重だ。
だが、その警備も今は機能していない。
木で組んだものに布がかぶせている。
布で作られた一人用の住居だ。
そう言うものが幾つかある。
身分の高い武官達はここで眠っているのであろう。
普通の兵は地面で寝ている。
「あれか…」
真魚は一つの場所に向かった。
嵐はその場で見張っていた。
布の中を覗いた。
中は真っ暗であったが、真魚は夜目が効く。
田村麻呂が眠っていた。
真魚は例の気付け薬を少しだけ爪でちぎり、田村麻呂の鼻に入れた。
そして、額に人差し指を当てた。
「ううっ…」
「起きろ!」
真魚が手に持った棒で田村麻呂をつついた。
「だ、誰だ!な、何だこの臭いは!」
田村麻呂は、気付け薬の臭いに閉口した。
「気付け薬だ…」
「その声は!」
闇の中で真魚の棒が輝いた。
「面白いものを持っておるな…」
田村麻呂は笑っていた。
「それにしてもひどい臭いだ…」
焼けるような臭いに、鼻を擦った。
「また、うちの兵共をたぶらかしたのか?」
「寝ているだけだ…」
真魚は事実を言った。
「何しに来た」
「念を押しにな…」
「どういうことだ…」
田村麻呂は完全に信用している訳ではない。
諏訪の神に告げられた。
この男が導くと…。
だが、受け入れてはいない。
「阿弖流為と母礼が来たら、奴らの言うとおりにしてやってくれ…」
「俺に頼み事か?」
「そうだ…」
真魚はきっぱりそう言った。
「だが、飲める話とそうでない話がある」
田村麻呂は迷っている。
「飲めない話ではない…」
「なぜそう言い切れる…」
田村麻呂はその答えに不信感を募らせた。
「それが最良の未来だからだ…」
真魚は確信していた。
「蝦夷にとってのか?」
「最良の未来だと…」
田村麻呂は驚いている。
起こってもいない事を、この男は事実のように話す。
それが理解出来ない。
「それはお主にとっても、最良の未来となるはずだ!」
この言葉は鮮烈であった。
「この俺の…」
「最良の未来を…蝦夷の奴らが創ると言うのか…」
その言葉が、田村麻呂の自尊心を揺さぶる。
「なぜわかる!」
「そうなるからだ…」
「そうではない、理由が聞きたいのだ!」
真魚の答えに田村麻呂は混乱していた。
「では、蝦夷が勝ったらお主はどうなる?」
真魚は、田村麻呂に問うた。
「俺の命はないだろうな…」
「では、倭が勝てば蝦夷はどうなる?」
尚も真魚は問いかけた。
「蝦夷は倭に従うしかない…」
「そういうことだ!」
真魚は答えを言った。
それを聞いても、田村麻呂は理解出来なかった。
「どういうことだ…」
「どちらが勝っても、未来はないという事だ!」
「そ、そうか!」
田村麻呂に光が見えた。
心が晴れていくような気がした。
だが、帝のために沢山の命が消えていく。
それは変えられない事実だ。
人それぞれが選んだ未来を、変える事は許されない。
「しかし…」
戦を指揮する田村麻呂が抱えた闇は大きい。
「阿弖流為と母礼を頼む…」
真魚は田村麻呂に言った。
その言葉が田村麻呂に届く。
田村麻呂はこの時初めて、
佐伯真魚と言う男を理解したような気がした。
「俺に任せておけ…」
田村麻呂が言った。
真魚は笑っていた。
「あとひとつ」
「何だ?」
「それだ」
真魚はそう言って、田村麻呂の枕元にあるものを指さした。
続く…