空の宇珠 海の渦 第五話 その三十
夜の空に月が輝いている。
満月。
あれから丁度、ふた月経ったことになる。
田村麻呂はその月を見ながら考えていた。
諏訪の神に告げられた言葉の意味。
本当にあの男に全てを託しても良いのか。
佐伯真魚。
恐ろしい男だ。
果てがない。
あの男には…
そう感じた。
初めての体験であった。
会った瞬間、負けたと感じた。
理由はない。
ただ、そう感じただけだ。
だが、それは真実だ。
間違ってはいない。
それは自分の心が知っている。
そろそろ準備も整う頃だ。
いつ仕掛けるか…
その日は、直ぐそこまで来ていた。
「佐伯真魚、いつまで待たせるのだ…」
燈台の明かりの中で、田村麻呂はそうつぶやいた。
「俺ならここにいる!」
部屋の影から声が聞こえた。
「お、お主どうやってこの城に…」
「他の者に、聞かれる訳にはいかぬであろう?」
田村麻呂の視線の先に、真魚が立っていた。
「これは…ちとやりすぎたかの…?」
城の屋根の上であった。
平屋の城であるが屋根は高い。
南門の屋根の上。
香炉で香が焚かれていた。
そこは風上であった。
その香りが風下へと流れていく。
必然的に香りが城全体を覆う事になる。
これは狙ってしたことだ。
城全体に甘い香りが漂っていた。
「その香のおかげで、俺まで眠くなったわ!」
本来の姿の嵐が、後鬼に文句を言っている。
「その眠りの香とやら、どこで仕入れたのじゃ?」
前鬼が後鬼に問うた。
「これは自家製じゃ!」
前鬼が自慢げに答える。
「なんと、媼さんが作ったのか?」
前鬼は後鬼の内職に感心していた。
「真魚殿に頼まれてな、理水のついでに作っておいたのじゃ!」
後鬼は自慢げに言った。
「俺は少し眠る…」
そう言って嵐は寝てしまった。
風下の者は、ほとんど眠りについたはずだ。
門の見張りの者は既に夢の世界にいる。
「ひょっとして、使うのは今日が初めてか?」
前鬼が恐ろしい事実に気がついた。
「そうじゃ、今日が初めてじゃ!」
後鬼が恐ろしい言葉を返した。
「どれほどの効果かは未確認…」
「あたりまえじゃ、今日が初めてだからなぁ」
前鬼の確認を後鬼は跳ね返す。
「そういえば儂も何だか眠くなって来た…」
そう言うと前鬼も屋根の上に寝転んでしまった。
「そういえば…うちもなんだか…」
後鬼も眠りについた。
これで…
効果の程は誰にもわからなくなった。
満月の光が、全てを包みこんでいた。
続く…