空の宇珠 海の渦 第九話 魂の鼓動 その一
深い霧。
その霧の奥には森の闇が口を開いていた。
一歩踏み込めば、何が待ち受けているかも知れない。
白と黒…
あるようでない色彩。
その色彩の間に、水の音が聞こえる。
その音の響の中に人影が見える。
森と闇の間。
そこを一人の男が歩いていた。
この時代、山は恐れの場所でもあった。
入ったが最後、出られぬ者は多かった。
神隠し、祟り…
その噂は絶えることがない。
だが、この男に畏れなど微塵もない。
漆黒の棒を肩に担ぎ、颯爽と歩いている。
険しい道だが息一つ乱さない。
薄汚れた着物を身に纏い、腰に朱い瓢箪を結んでいた。
「おい、真魚よ!」
不思議な事に、その声は男の足下から聞こえてきた。
良く見ると側に一匹の子犬がいる。
妙な形の首輪を付けた銀色の子犬。
それが…
男の足下に纏わり付くように歩いていた。
「おい、真魚!聞いておるのか!」
その声の主は子犬であった。
真魚と呼ばれるこの男…
佐伯真魚…
後の世に、唐から密教を持ち込む。
弘法大師、空海と呼ばれる男である。
「なんだ…」
真魚の返事は素っ気ない。
「さっきからおかしいと思ったのじゃ…」
「お主…道を間違えておらぬか?」
子犬が真魚の前で立ち止まった。
真魚は何食わぬ顔で、その横を通り過ぎる。
子犬が真魚を追い越し、また止まる。
「俺の言う事が間違っておるのか?」
「いいや…」
真魚は笑みを浮かべてまた通り過ぎた。
「では、どうしてこの道を行く…」
「俺に説明せぬか!」
道無き道。
子犬が真魚という男を責める。
「壱与に会いたい気持ちは分かるが…」
真魚が子犬に向かって言った。
「そ、そう言うわけではない!」
否定はするが、見抜かれているのは事実だ。
「嵐、悪いが少し付き合ってくれ…」
真魚はそう言って笑みを浮かべた。
「なんじゃ、他に言いたいことがありそうじゃのう…」
嵐という子犬が振り返って立ち止まる。
「三諸山はすぐそこだ…」
三諸山…現在では三輪山と呼ばれている。
すぐ横の谷を歩いているのである。
真魚がその山を指で示した。
行きたいのなら一人で行け…
そう言う意味にも聞こえる。
「お主に付き合うのが、俺の仕事みたいなものじゃ!」
嵐という子犬は文句を言いながら、鼻先を前に向けた。
霧の上に山が浮かんでいる。
倭の大地が霧に沈んでいる。
倭の国は迷っていた。
都が移され、人々は彷徨っていた。
帝が力を持った宗教を嫌った。
南都六宗。
その力は平城京の隅々まで届いていた。
だが、他にも理由があった。
都が移された本当の理由。
それを知ることになるのは、もう少し後になってからだ。
三諸山。
その山の麓。
丘の上に一人の女が立っていた。
「真魚…」
「もうすぐよ…」
女がつぶやいた。
その女は目を閉じていた。
手を広げ何かをつぶやいた。
「この国の民を導き給え…」
女の身体が耀き始めた。
その耀きを天からの光が貫いた。
その一瞬、世界が耀いたように見えた。
そのように見えた。
しかし…
その光が天に昇ったのか…
舞い降りて来たものなのか…
それはわからなかった。
次回へ続く…