空の宇珠海の渦 第8話 神の血族 その一
深い森の中であった。
その森の中を、一人の男が歩いていた。
肩に黒い棒を担いでいる。
漆黒。
闇そのものの色だ。
見ているだけで、引き寄せられる。
妖しげな艶が浮かんでいる。
男の足下には、銀色の子犬がいた。
その子犬が急に立ち止まった。
その鼻先を森の奥に向ける。
「おい、真魚よ!」
その子犬が喋った。
「なんだ…」
真魚という男の返事は素っ気無かった。
その男は、直垂に似た着物を纏っている。
薄汚れてはいるが、生地はいい。
それは、ここ男の出自を示している。
その腰には、朱い瓢箪が結ばれていた。
旅にしては非常に軽装である。
この男の名は佐伯真魚。
後の世に、弘法大師、空海と呼ばれる男である。
「血の臭いだ…」
子犬が、真魚と呼ばれる男に言った。
「ほう…」
真魚という男は、平然とその子犬の言葉を受けている。
この男にとっては、当たり前の事らしい。
「人か…」
真魚は子犬に聞いた。
「人ではない…」
子犬の答えは、何かを含んでいる。
真魚が、目を瞑りながら、その答えを聞いた。
その口元に、笑みが浮かんでいる。
この男が何かを掴んだ証だ。。
「面白い…」
真魚がそう答えた。
がつっ!
くちゃ!
ごくり…
薄暗い森の中に、その音が聞こえている。
だが、それは獣ではない。
人であった。
その人の周りに、羽毛が散らばっている。
風が吹き、それが宙に舞う。
むしゃ…
ごく…
何かに怯えるように…
毛をむしり、そのままを囓っていた。
獣のような仕草で、それを食べている。
その口元には、血がこびりついていた。
「!」
突然、何かに気付いて振り向いた。
その気配を探っている。
それらは、少しずつ間を詰めている。
正確に。
測ったように…
森の中に蠢く、黒い影。
標的がこの者であることは、間違いなかった。
「一つ、二つ、三つ…」
その者が、見えぬ影を正確に数えた。
「逃げても無駄だぞ…」
黒い影の一つから声がした。
若い男の声だ。
追う者と追われる者。
その関係がそこに見える。
捕った山鳥を、生で食べる。
その理由がそこにはある。
「いい加減にしろ!」
追われるものが叫んだ。
叫んだその声は、女であった。
髪を結うことも、叶わぬのであろう。
刃物でそいだだけの髪。
薄汚れ、血まみれの顔。
鋭い獣のような目つき。
その腰に剣を携え、身を構えている。
着物は、はぎ取った男のものであろう。
この森の中で生きて行く。
追われる身。
この女が置かれた世界。
それが、この女の姿を創り出していた。
女は手に持った肉を捨て、腰の剣を抜いた。
まだ距離はある。
姿さえ見えない。
だが、その前に…
女は覚悟を決めた。
その瞬間、剣が耀いた。
「三人なら何とかなる」
女はそう言って笑った。
その剣の耀きは、この世のものではなかった。
続く…