空の宇珠海の渦 第七話 揺れる心 その三十四
「佐伯様…もう行かれるのですね…」
明慧は、淋しそうであった。
その後ろに、薺と慧鎮が立っていた。
「また、戻ってくる…」
真魚が笑ってそう言った。
「本当ですか!嘘はだめですよ!」
明慧の喜びが伝わってくる。
「一仕事、終えた後にな…」
真魚がそう言って笑っていた。
「これだけのものがある…」
「行基殿がそう言っている…」
その真魚の言葉が、慧鎮には分かる。
真魚が来た理由。
義淵の声を聞き、行基の想いを受け継いだ。
そして、自分達が出会ったのも…
決して偶然ではない。
確かな答えはまだ見つからない。
だが、慧鎮にはそう思えた。
「約束ですよ!佐伯様!」
離れていく真魚に、明慧が叫んだ。
その声が、桃尾山に響いていた。
嵐が歩きながら、何かを考えていた。
「あの薺という女…慧鎮に気があったのか?」
ひゃひゃはっは~
下品な笑い声…
「今頃そんな事に気付いたのか…」
ほどなく、後鬼が跳んできた。
「呆れてものも言えん…」
そのあと、前鬼が跳んできた。
「その心がなければ、あの呪は成功しておったかも知れぬ…」
前鬼はそう見ていた。
「助かって欲しいが…半分…」
「恋しい心が…半分と言うところか…」
後鬼が嵐に詳しく説明する。
「だから、中途半端になってしまったのか…」
元々、興味がない嵐も納得している。
「理を曲げるような強い呪は…」
「自らの為に、使うべきではないのかも知れぬ…」
「願いは叶うのじゃ…どんな形であれ…」
後鬼はそう思っている。
「それに…」
「薺にそれだけの霊力が、備わっていたかは疑問じゃ…」
前鬼がそう付け加えた。
「確かに…真魚はあの神を呼んだのだからな…」
嵐は目の前で見ている。
布都御魂大神
真魚は、その神を呼び寄せた。
「なんと…真魚殿…ひょっとして…」
後鬼が、その事実に驚いている。
「ま、俺の足下にも及ばぬが…」
「なかなかの奴であったぞ…」
嵐が、自らの手柄のように言う。
「布都御魂大神…をか…」
前鬼が、その神を知っていた。
「ま、それが一番で、確実かも知れぬ…」
呪の綻びを解く。
後鬼の考えは、そうであった。
「みんな喜んでおったな…」
「これも真魚と俺のおかげか…」
過剰な自己評価はいつものことだ…
嵐には、この事実だけでよかったのだ。
「俺は何もしておらぬ…」
「切れかけた糸を、結び直しただけだ…」
真魚が笑っている。
「前よりも強く…か…」
嵐がその事実に呆れていた。
唐から帰った空海が、桃尾山の龍福寺を再興したことは記録に残っている。
その時、空海の力になった者達が存在したであろう。
そこに、盲目の修行僧がいたかどうかは…誰も知らない。
その寺は現在、大親寺となっている。
だが、その頃の面影はもうない。
山中にひっそりと、佇んでいるだけである。
桃尾山の大いなる波動は、今もそこにある。
桃尾の滝の音は、今も谷に響いている。
第七話 揺れる心 完