空の宇珠海の渦 第七話 揺れる心 その二十三
明慧は宿坊の外に出ると、薺の波動の方向に歩いた。
「薺が…来てくれた…」
明慧はうれしかった。
もう会えないと思っていたからだ。
寺の中を難なく歩いて行く。
杖はもう必要ない。
そう思わせる程であった。
だが、明慧はその事に気付いてはいない。
薺に会いたい一心で歩いている。
その場所は分かっている。
寺の水くみ場だ。
明慧がその場所まで来ると声がした。
「気付かれたみたいね…」
明慧の心の中には、その姿が投影されている。
「私には…見えるのに…」
明慧は、薺の存在を確かめていた。
「それが、お主らの策であろう…」
明慧の後ろから、嵐が声をかけた。
「佐伯様に会った時から、かしら…」
薺はそう言った。
「えっ…」
明慧が、怪訝な表情を見せた。
「薺は、佐伯様に会ったの…」
薺はそんな事は言って無かった。
「でも、佐伯様は存在を感じていた…」
明慧はその事実を結びつけた。
「ま、お主には分かるまい…」
「この女に心を奪われておるのだ…」
嵐が笑っている。
「そんな…」
明慧が複雑な顔をしている。
だが、それは事実だ。
「それで、何をやらかした…」
嵐が妙な言葉を言った。
「ふふふっ…」
薺は笑っていた。
「俺が食ってやってもいいのだぞ…」
嵐が薺を見て言った。
「お~怖い怖い」
「だから嫌いなのよ、この手の神は…」
薺は嵐を畏れている。
「だけど、それはお断り…」
「あなたに食べられたら、やり直しでしょ…」
「それは、最後の最後でいいの!」
薺は嵐を見て言った。
嵐に食べられた生命は、中立に戻される。
宇宙で黑き星が、他の星を食らうように…
嵐が闇を食らうのは、その差が大きいからだ。
嵐曰く、味はまずいという。
だが、低きもの程、大きな霊力を得ることになる。
「腹の足しにもならんわ…」
嵐がそう言いながら、舌なめずりをした。
「どうして、慧鎮様には見えないの?」
明慧が薺に聞いた。
「それは…」
薺が口籠り答えを捜している。
「あの男に、見られたくないからであろう…」
嵐が横やりを入れた。
「どうして…慧鎮様に見られたくないの?」
目が見えぬ明慧には、複雑な問題である。
「見ると言うことは、受け入れるという事じゃ…」
「時には、それだけで禁忌を犯す事さえある…」
嵐の言葉に、薺は黙ったままであった。
しかし、明慧はその言葉に驚いていた。
「禁忌…どうして、慧鎮様に見られることが…」
明慧にはその事が全く理解出来なかった。
「あっ…」
その時、明慧の中に光が射した。
その光が全てを教えてくれた。
閃き…
そう言ってしまえば、簡単かも知れない。
だが、明慧はそれよりも明確な何かに導かれた。
「男と女のことは俺はわからぬ…」
嵐がそう言って笑っていた。
「桔梗…って」
明慧は、そこまで言いかけて止めた。
明慧の瞳から涙が溢れていた。
「慧鎮様は…薺のことを、桔梗って…」
「慧鎮様は、薺を感じていた…」
それが、事実であるなら…
「おかしいと…思っていたんだ…」
明慧の声が震えている。
「薺様と…同じ名前だなんて…」
「その姿さえも…偽りなんでしょう…」
心が揺れて止まらない。
その感動で明慧が震えている。
そして、明慧がその名を言った。
「お母さん…」
薺の瞳から光が溢れた。
その光が薺の姿を変えた。
「見えるよ…お母さん…」
明慧の涙は、もう止まらない。
「佐伯様のおかげね…」
明慧の心は揺れていた。
その心を、母の心が抱きしめていた。
続く…