空の宇珠海の渦 第七話 揺れる心 その二十
「薺が…見えないなんて…」
明慧はその事実に戸惑っていた。
明慧には見えている。
見えていないのは慧鎮の方だ。
「薺様と…同じ名前だねって、驚いたんだ…」
出会った頃のことを、明慧は思い出していた。
薺は突然現れた。
友達のように…
姉のように…
母のように…
明慧に接した。
薺が来てくれることで、明慧も救われた。
そんな気がしていた。
「じゃあ一体…薺は…」
明慧は、本当の事を知りたくなった。
明慧が一番畏れていることは、薺がいなくなることだ。
その受け入れ難い事実が、明慧の心を凍らせる。
心の動きを鈍らせる。
心が動かねば、感情は起きない。
感情が起きなければ、波動は生まれない。
それは、魂の縮小を意味している。
器に閉じ込められた生命。
そのものが、低きものになっていくのだ。
「そうだ…」
明慧はふらふらと歩き出した。
手に持った箒を、杖代わりにして歩き始めた。
「明慧、どこに行く…」
慧鎮は明慧に聞いた。
明慧の耳にその言葉は聞こえない。
慧鎮は慌てて履き物を捜した。
「佐伯様なら…佐伯様なら…」
明慧はそうつぶやきながら、宿坊に向かっていた。
真魚が柱に背を持たせ、外を見ていた。
その側を風が抜けていく。
眠っていた嵐が、片目を開けた。
だが、直ぐに目を閉じた。
真魚の耳元で、その風が言った。
『お願い…助けてあげて…』
「明慧か…」
乱れる波動を、真魚は既に感じていた。
扉が開いた。
「佐伯様!佐伯様!」
いつもは冷静な明慧が慌てている。
「どうした、明慧…」
真魚は、明慧に向かって声をかけた。
その波動が明慧に届く。
ぴくっ!
一瞬震えたあと、明慧が真魚の方を向いた。
「佐伯様、聞きたい事がございます…」
入り口で立ったまま、泣きそうな顔をしていた。
「まぁ、来て、座れ…」
真魚の言葉が明慧を誘う。
「慧鎮殿も…」
明慧の後ろに、慧鎮が立っていた。
二人が真魚の前に座った。
「聞きたい事は何だ…」
真魚が二人に向き合った。
「薺の事なんです…」
明慧の声が震えている。
「助けてあげて…と言っていたぞ…」
真魚が笑ってそう答えた。
明慧はその言葉が、信じられなかった。
「薺を見たのですか?」
明慧は、その事実をすぐに確認したかった。
いるか…
いないのか…
それだけでも知りたかった。
自分が支えられてきたもの。
それが、存在しない…
それは受け入れがたい事実であった。
薺は明慧にとって、かけがえのない人であった。
「見てはいないが、存在はする…」
真魚はそう言った。
「やはり、薺はいるのですね!」
明慧の顔が華やいだ。
「だが、俺には…」
「助けてあげて…という言葉が…」
「助けてほしい…とも聞こえたのだ…」
真魚が二人にそう告げた。
「ああ…」
それを聞いた慧鎮の顔色が変わった。
「桔梗…」
慧鎮は、その名を思わずつぶやいた。
続く…