空の宇珠海の渦 第七話 揺れる心 その四
明慧は立ち上がると、ゆっくりと歩き始めた。
滝の側の岩に立てかけておいた杖を持ち、歩き始めた。
「滝の水はまだ冷たかろう…」
真魚が明慧の後ろに寄り添った。
「それが、そうでもないのです」
「心の中に温かい光が流れ込んできました」
「私の心は充実しています」
明慧の言葉に真魚が笑みを浮かべた。
それとなく明慧の体調を伺ったのかも知れない。
誰にでも器が存在する。
その許容量を超えることは、存在そのものに影響を及ぼす。
身体が壊れるか、心が崩壊するか…
危険を伴う行為でもあるのだ。
側にある滝守の小屋に明慧は向かった。
足下に不安はない。
その事実は、何度もこの滝に入った事を意味している。
このような小さき者が、何かを求めていたことになる。
明慧は小屋に入ると濡れた身体を拭き、着物を替えた。
全ての動きによどみがない。
明慧の心象が、別の世界を創造しているようであった。
「真魚よ、この小僧なかなかやりおるな…」
子犬の嵐もそれを認めていた。
「そのうちに杖さえ必要でなくなる…」
真魚はその未来を既に見ていた。
「佐伯様、案内いたします、上に参りましょう」
着替えの終わった明慧が真魚に言った。
滝の側に道があり、桃尾山の山頂に向かっている。
その山の中腹に明慧の師、慧鎮がいる寺がある。
明慧が言う上とは、この寺のことだ。
「お主の母は何をしておる…」
真魚が明慧に尋ねた。
道で泣いていた女。
真魚はその関わりが気になっていた。
「私に母はいません」
「物心ついたときにはこの寺にいました」
明慧が真魚に答えた。
「ほう…」
真魚が想像していたものとは全く違う。
予想外の事実が明慧の口から語られた。
「では父は?」
真魚は更に明慧に聞いた。
「父も誰だかは存じておりません」
「私の面倒は乳母がしておりました」
「記憶は薄いですが、幼き頃から不自由はしておりませぬ…」
「それは、裕福であったと言うことでしょう」
明慧はまるで他人事のように、自らの出自を告げた。
どちらにせよ、何か理由がある。
明慧が物心つかぬ間に出家したのは、そういうことだろう。
「私は生まれてはいけなかったのでしょうか?」
「目が不自由なのも…そういうことなのでしょうか?」
自らの存在を否定する。
それは、神に対する冒涜である。
それが分かっていながら、明慧は苦しんでいた。
明慧の波動が、真魚と嵐に伝わる。
「むしろ…逆だ…」
真魚が明慧に言った。
「逆?」
明慧には真魚の言葉の意味が理解出来なかった。
「それは、どういうことでしょうか?」
明慧が真魚の答えを待っていた。
「そこまでして、生まれる必要があったのだ…」
真魚がそう言って微笑んだ。
明慧には真魚の微笑みは見えてはいない。
「ああ…」
その言葉で、明慧が立ち止まった。
その心が拓いていく。
明慧の瞳から、一筋の光が落ちた。
「お主の両親は道を外したのかも知れぬ…」
「だが、母はそれを受け入れたのだ…」
「誰のためかは、考えれば分かるであろう…」
明慧は立ち止まって泣いていた。
「そんな…ことって…」
真魚の言葉が心に染みこんでくる。
溢れ出した涙は止まることはなかった。
初めて母の悲しみを知った。
自らの苦しみよりも深い、母の愛を知った。
「今日は…何という日でございましょう…」
明慧は苦しそうに泣いた。
そして、晴れていく心に、問いかけていた。
続く…