空の宇珠海の渦 第七話 揺れる心 その一
新緑が木々の生命の色であった。
山がその色に包まれていた。
谷を流れる水の音色が心地良い。
鶯の声がその音色に彩りを添える。
風に乗って新しい草の臭いが運ばれてくる。
山が生命に包まれている。
その男は目を閉じて生命の波動を感じていた。
直垂
その時代にそう呼ばれた着物を、その男は着ていた。
他に目立った特徴が二つあった。
その男は黒い棒を肩に担いでいた。
見ているだけで魂までも吸い込まれる。
そんな妖しい黒い色をしていた。
他に、もう一つ特徴があった。
腰に瓢箪をぶら下げていた。
朱色の瓢箪であった。
丹念に漆を施したような艶があった。
旅にしてはかなりの軽装であった。
その男の足下に 、銀色の子犬が歩いていた。
足に纏わり付くその姿が、妙にかわいらしい。
「おい、真魚よ!」
真魚の足下から声が聞こえてきた。
「おい、聞いておるのか!」
その声の調子が強くなる。
「なんだ…」
真魚と呼ばれた男がようやく返事をした。
「お主、やらかしおったな…」
その声の主は足下の子犬であった。
「いつからだ…」
子犬が執拗に真魚に食い下がる。
「さあ…」
真魚が曖昧な返事をした。
「まさか!お主!」
「知っておったのか!」
子犬が真魚に怒りを向けた。
「布留御魂大神のお膝元だ、ない方がおかしいのではないか?」
真魚達は石上を抜け、布留川に沿ってその上流に向かっていた。
「大地の龍が奔るこの地を、甘く見ていたわけではあるまい…」
真魚はその事実を重ねて言った。
「それとこれとは話が別じゃ!」
子犬の怒りは収まらない。
「神が結界に踏み込む事がどれだけ…」
そこまで言いかけて子犬は止めた。
真魚が立ち止まって何かを見ていた。
「女か…」
子犬がそれを怪しげに見て言った。
「しかも、このような所に来る女ではない…」
艶やかな壺装束を身に纏い、数人の供を連れている。
女の出自が貴族であることは間違いない。
おとめらが
そでふるやまの みずがきの
ひさしきときゆ
おもいきわれは
「娘子らが、
袖布留山の、瑞垣の、
久しき時ゆ、思ひき我れは」
真魚が一首詠んだ。
「なんだ、それは?」
子犬が怪訝な表情を見せている。
「そう…見えぬか?」
真魚が逆に子犬に問うた。
「神には人の詩など興味がない」
子犬は自らを神だと言い、その場を逃げた。
貴族の女が真魚達に気付いた。
真魚が女に近づいていった。
市女笠の垂れ衣の隙間から、その女の顔が見えた。
「ほう…」
真魚は笑みを浮かべた。
美しい。
年の頃は三十路。
大きな瞳、通った鼻筋。
整った少し厚めの唇。
お供の者の鋭い波動が、真魚に刺さる。
真魚が笑みを浮かべた理由…
女の瞳に光が見えたからだ。
「行かぬのか?」
真魚は挨拶もせず女に尋ねた。
「ここから先は修行の場…」
その女の言葉からは、親しい者の存在が窺える。
「あなた様は…」
「俺は佐伯真魚だ…」
「佐伯…」
女は驚いていた。
女が驚いたのは無理も無い。
真魚の着物が貴族にはふさわしくないからだ。
だが、その事実が女の心を開いた。
それが、真魚には手に取るようにわかった。
警戒した人の心は貝のように閉じる。
触れられたくないものを、相手に見せることは無い。
だが、女はそれを真魚に見せた。
普通の貴族では無い。
そう思ったからであろう。
「分けあって名を明かす事は…」
「そういうことなら、想いは伝えておく…」
女が言いかけた言葉を、真魚が遮った。
「はい…」
女が返した微笑みは濡れていた。
続く…