空の宇珠 海の渦 外伝 無欲の翼 その八
「どこに行く?」
未羽が村を出て行こうとしたとき、兄に呼び止められた。
「どこって、空の訓練よ…」
「嘘をつけ…」
「お前は狩りをして、手ぶらで帰って来るつもりか?」
兄の言葉で未羽が気付いた。
獲物を入れる袋を忘れていた。
兄の鋭い目が、未羽の行動を疑っている。
肩まで伸ばした髪を掻き上げた時、その表情が変わった。
眼光が更に鋭さを増した。
兄から強い波動が、伝わって来る。
未羽が振り返った。
「真魚…」
そこに、真魚と嵐がいた。
「知り合いか…」
兄がつぶやいた。
「未羽、迎えに来たぞ…」
真魚が言った。
「あ、こっちは…兄です…」
未羽が動揺している。
兄の心を知っているからだ。
怒りと、不安。
真魚は二つの波動を感じている。
その行き場のない怒りは、兄のものだ。
そして、不安は未羽の心だ。
「未羽の行動がおかしいのは、俺が頼み事をしたからだ…」
真魚が兄に言った。
「頼み事…?」
「見た所、身分のお高い方の様だが…」
兄の言葉は、自らの心を表してしる。
「身分など、どうでもいいことだ…」
真魚はその言葉を、兄に向けた
「どうでもいいだと…」
兄の怒りの波動が広がった。
「ほう…」
真魚はそれを感じ、笑みを浮かべた。
「父が…戦で…」
未羽はその言葉を、絞り出すように言った。
「坂上田村麻呂という男を、知っているか?」
真魚が、兄に向かってその名を告げた。
「坂上の…田村麻呂だと…」
その名で、 兄の怒りが増した。
「やはり…蝦夷か…」
真魚の答えはそれであった。
蝦夷との戦いで、何かがあった。
それが、確信に変わった。
「あの中にいたのか…」
真魚の言葉は、兄にとっては意外であった。
「あの中…だと」
「お主は、あの場にいたというのか…」
突然、兄の怒りの波動が弱まった。
驚いた兄の顔が、それを示していた。
「父は、戦から帰った後、一言も喋らずに死んだ…」
「何かに怯え、畏れていた…」
「あの場で、何があったのだ…」
兄はその真実を求めていた。
「闇だ…」
真魚がそう言った。
「闇…だと…」
「なんだ、それは…」
兄には、想像もつかなかった。
「この世のものではない…真の恐怖だ」
「地獄の穴と言った方、がわかり易いか…」
「その淵を覗いたものは、皆そうなる…」
真魚が説明しても、分かるはずがない。
真の恐怖は、自らが生み出すものだ。
「戦とは関係ないのか…」
その事実は兄にとって受け入れられない。
「あの戦は、闇が現れたから終わったのだ…」
「闇はあらゆるものを食らいつくし、破壊していった…」
「皆死んだ、倭も、蝦夷も…」
「人の力など蟻の様なものだ…」
「身分など関係ない…」
「逃げ延びたものだけが、生き残ったのだ…」
真魚が話した事実は、聞いた話とは全く違った。
倭が蝦夷を倒し、阿弖流為と母礼を処刑した。
そう言う話に、なっている。
「そんな…」
「では、父の死は、無駄死にだったと言うの…」
未羽が真魚に言った。
「戦は、憎しみの連鎖を生むだけだ…」
真魚が、未羽を見た。
ぎゅっ、ぎゅっ!
左腕の空が鳴いた。
未羽の心の揺らぎを、感じたのかも知れない。
「あっ…」
未羽が右手を、胸に手を当てた。
未羽は、自らの心に気付いた。
「空、お前は賢いな…私の心がわかるんだ…」
未羽は、空の頭を撫でた。
「恐らく…倭から何も喋るなと言われてる筈だ…」
「闇に触れた者は、いずれ命を落とすことになるがな…」
真魚が、兄を見て言った。
「本当なのか…それは…本当のことなのか…」
受け入れられる筈がない。
ねつ造された事実に、自らの心を痛めていたのだ。
「俺が見た事実だ…」
真魚は二人にそう告げた。
しばらく、二人は黙っていた。
心の波が静まるまで、時間が必要であった。
「私は…信じる…」
未羽が、言った。
「多分、空もそう思っている…」
「ねぇ、嵐も同じよね!」
足下の嵐を見た。
「父は人を殺せない…例えそれが、戦でも…」
「私は、その方がいい…」
未羽は空を見上げた。
父の魂に、自らの心の波動を伝えていた。
続く…