空の宇珠 海の渦 外伝 無欲の翼 その一
木々の緑が深みを増している。
陽が傾き始め、 肌に触れる光の波動が、
少し柔らかくなった。
だが、生命はその動きを止めることはない。
人もその一部であり、その理からは逃れられない。
峠の下り道。
一人の男が歩いていた。
直垂。
その時代にそう呼ばれた着物を、その男は着ていた。
他に目立った特徴が二つあった。
その男は、黒い棒を肩に担いでいた。
見ているだけで、魂までも吸い込まれる。
そんな妖しい黒い色をしていた。
そして、腰には瓢箪をぶら下げていた。
丹念に漆を施したような、朱色の瓢箪であった。
旅にしては、かなりの軽装である。
そして、他に、もう一つ…
その男の足下には、銀色の子犬がいた。
足に纏わり付くように、ちょこちょこと歩いている。
その姿が妙にかわいらしい。
その男の名は佐伯真魚。
後に「空海」と呼ばれる男である。
「なあ、真魚よ…」
その声は、男の足下から聞こえてきた。
「お主は、いつまでうろうろ歩き回るのだ…」
子犬が喋っていた。
その犬は、ただの犬ではない。
それを意味していた。
「時はまだ満ちてはいない…」
真魚がそう答えた。
「この国をうろうろするのは、何か企みがあるのだろうが…」
「もうすぐ日が暮れるぞ…」
「そういえば、あれから時間が過ぎたな…」
真魚は子犬の言いたいことは、理解していた。
「そうであろう!」
子犬が、真魚の言葉にときめいた。
その波動が真魚にも伝わっている。
「腹が減ったのなら、兎でも捕まえて食ったらどうだ?」
「お主の力であれば簡単であろう?」
真魚が子犬に言葉を返した。
言葉で子犬を攻め続ける。
「それが出来るくらいなら、とっくにやっておるわ!」
子犬が振り返った。
「つまらん…そんな事をしても、腹の足しにもならん…」
「お主にも、生き物をいたわる心が存在するのか…」
真魚は、子犬にそう言った。
「ほう…」
真魚が答えたあと、急に立ち止まった。
道の側の楠の大木。
その前に一人の少女が立っていた。
上を見つめ、何かを言っている。
良く見ると、皮紐で結ばれていた。
「何か、様子がおかしいのう…」
子犬がつぶやいた。
真魚達は、少しずつ少女に近づいて行った。
「面白い…」
真魚がつぶやいた。
笑みを浮かべている。
少女の波動。
それが真魚に届いている。
近くまで寄るとその表情が見えた。
「渡来のものか…」
真魚は、そう感じた。
髪が短い。
齢十五、六。
貴族の女ではない。
少女が、真魚を睨み付けていた。
険しい表情の中に、あどけなさと美しさが混在する。
未完の美がそこにあった。
その美しい顔が、敵意に満ちていた。
「その子犬!ただの犬じゃないわね!」
左手を木に繋がれて、少女がその真実を見抜いていた。
続く…