空の宇珠 海の渦 外伝 魂の器 その二十五
「い、今、この犬喋った?」
その声を、結希は確かに聞いた。
「これは内緒だ…」
真魚を見ると、口元に人差し指を当てていた。
「まさか、喋れるなんて…」
結希は驚いていた。
「何をこそこそ話してるんだ!」
兄が、二人の話を気にしている。
「だいたい、この男、信用出来るのか?」
「俺たちのことを調べに来たんじゃ…」
「大丈夫、勾玉だって持っていたでしょ!」
「それは、私が保証する!」
兄の疑う気持ちは、分からぬでも無い。
たった今、逢ったばかりだ。
だが、時間では量れない何かがある。
それを、結希は感じていた。
「お主の名は何という…」
真魚が兄に聞いた。
「俺は有我だ、覚えておけ!」
高飛車な態度で、何処かに消えた。
「ごめんなさい、兄は貴族が嫌いなの…」
結希は、兄の非礼を詫びた。
「俺は神だぞ…」
嵐が、小声で結希に言った。
「それでか…」
結希に驚いたような様子は無い。
言葉を話すことだけが、意外であったようだ。
「何か食わせてくれるのか?」
嵐の興味は、食べることだけだ。
「後でなら、何とかするわよ」
「なら付き合ってもいいぞ…」
嵐は結希にそう答えた。
海賊の世話になった方が、良い物が味わえると考えたのであろう。
「ひとつ、結希に確認したい事がある…」
真魚は話を切り出した。
今は廻りに誰もいない。
他の者に聞かれては、まずい話だ。
「海賊の頭が、船から落ちたりするのか…」
「鰐がいると分かっている海にだ…」
それが、結希の父が命を落としたきっかけであった。
「私は、ないと思っている…」
結希がはっきりそう言った。
「俺の友の、入鹿魚が斬られたのだ…」
「入鹿魚?」
突然の入鹿魚の話。
結希の思考が、混乱している。
「人に慣れている…ひょっとしてと思ってな…」
結希は、真魚が何を言いたいのか、わからなかった。
「これは俺の想像だが…」
「鰐を呼ぶために、斬ったのではないかと…」
「鰐を呼ぶためにな…」
結希の心が揺れた。
「父の死は、仕組まれたものだと…」
思考の中で、積み木のように何かが重なっていく。
結希がしばらく考え込んだ。
「父は何故…声を出さなかった…」
それが、結希が導き出した、最後の疑問であった。
海に落ちたとき…
犯人の名を叫べば、誰かに聞こえたかも知れない。
だが、それをしなかった。
「その言葉の通りではないのか…」
真魚は、自らの考えを結希に告げた。
「叫ばなかった…叫べなかった…」
結希の瞳から涙が流れた。
「兄上か…」
結希の心の中に、兄の姿が浮かんだ。
「兄上が…父を…」
結希から、怒りの波動がにじみ出ている。
真魚が、結希の腕を掴んだ。
「もう一つ、話さねばならぬ事がある…」
その瞬間、怒りの波動が切れた。
「心を静めて、良く聞くのだ…」
真魚が、結希の目を見た。
結希が素直に頷いた。
「父を看取った友は、優秀な薬師だ、身体も看る…」
「その友が言っていた…」
「病に冒されていたと…」
それを聞いた結希の瞳から、涙がこぼれた。
「何故…どうして、言ってくれなかったの…」
「私は、あなたの娘なのに…」
結希は、心の中の父に言った。
「人はいずれ死ぬ…父は自らの死を選んだのだろう…」
「自らの…死を選ぶ…」
結希はその言葉を噛みしめた。
「いつ死ぬかも知れぬ…見知らぬ誰かに殺されるならば…」
真魚は、その答えを結希に委ねた。
「愛する者に…殺される方がいい…」
結希は、それを自らの言葉とした。
父は兄の心を見抜いていた。
その事実を知った。
「最初は勾玉と共に、沈むつもりだったのかも知れぬ…」
「後継者争いを避けたんだ…」
結希は父の考えを理解した。
「勾玉が無ければ、頭は決まらない」
「普通で考えれば、有我が頭になる筈だ…」
「結希が引けば争いは起こらない…」
真魚は父の考えを代弁していた。
「待って!」
「じゃあ、どうして、勾玉を友達に託したの…」
結希はその事が腑に落ちなかった。
「残念だが、最後の言葉は聞き取れなかった…」
「処分してくれ…と言ったのかも知れぬ…」
真魚が言った。
「だけど、あなたが受け取った…」
「込められた父の想いを、感じ取った…」
真魚は、結希の考えに頷いた。
「この想いを、受け取れる者は、限られている…」
真魚は、結希にその力を告げた。
「あれも…あなたがやったの…」
結希が見た生命の渦。
「結希の霊力ちからを見たかったのだ…」
真魚に触れられて、それが消えた。
「でも、それだけじゃない…あなたは教えてくれた」
感動の波動は、心に刻まれている。
「結局、父の願いは…」
「あなたが、教えてくれたんだ…」
空を見上げて涙を拭いた。
「ありがとう…」
結希は、真魚に感謝していた。
「ちょっと、待って!」
突然、結希が大切な事実に気がついた。
「ひょっとして…それだけの為に…来たの…」
「海賊がいると、分かっていて…」
真魚の行動に、結希は呆れていた。
「海賊の友なら、熊野にもいる…」
「熊野の海賊!?」
結希は、信じられなかった。
海賊であれば、誰でも知っている。
「有我を許してやれ…それが、父の最後の願いだ…」
「そして、本当の願いは…」
「そなたの名に…込められている…」
真魚が、星空を見ていた。
「あなたって人は…」
結希は呆れて、何も言い返せなかった。
真魚と二人でいる。
「前にも…こんな事があったような気がする…」
結希の心の中に、不思議な感情が溢れてきた。
続く…