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空の宇珠 海の渦 第三話




挿絵(By みてみん)


 

陽の光が恨めしく感じた。

 

  

夏。

 

  

今はその恵みも、人々にとっては苦痛でしかなった。

  

 

 

来る途中、呆然と立ちつくす農民を何人も見てきた。

 


 

川に水が無いわけではない。

 

 

自然の保水機能が麻痺しているわけではない。

 

 

作物のある田畑まで届いていない。


 

ただ溝を掘っただけでは、届くまでに水が枯れてしまうのだ。

 

 

 

 

「何とかしてやりたいもんやな」

 

 

その男は歩きながら、ぽつりと呟いた。

 


 

 

「そうだな真魚、この暑さは我らには毒と同じじゃ」


 

野太い声。


 

それは、その真魚と呼ばれる男の足下から聞こえてきた。

 

 

子犬がしゃべっていた。

 

 

男の足下を銀色の子犬が歩いていた。

 

 

 

その男は棒を持っていた。

 

 

 

漆黒。

 

 

 

魂さえ吸い込まれそうな闇そのものの黒だ。


 


男はその棒を、肩に担いでいた。

 

  

直垂と呼ばれている着物を纒い、



腰に赤い瓢箪がぶら下げていた。

 

 

髪は無造作に頭の後ろで束ねられているが、不自然さは感じられない。

 

 

 

長い旅の途中であろうか。

 

 

全体に薄汚れていた。

 

 

 

だが、それがかえって、この男の魅力を引き立てているかの様であった。

 

 

 

その男の名は佐伯真魚。

 

 

 

後に、「弘法大師」「空海」と呼ばれる男であった。


 

 


 

「真魚よう…」

 

 

「何だ」

 

 

真魚の返事は素っ気ない。

 

 

 

「このあたりで一雨ほしいなぁ…」

 

 

子犬は恨めしそうに空を見上げた。

 

 

空と言っても、木々の隙間から少し覗く程度だ。



今は森の中だ。

 


歩くたびに深くなっていく。

 

 


 

「暑いのか?」

 

 

真魚は素っ気ない。

 


 

「お主らと違って、こっちは夏でも毛皮じゃ!」

 

 

子犬はもっともな意見を述べた。

 

 


  

「この先に、川がある…」

 

 

真魚が救いの言葉を差し述べた。

 


 

「有り難い」

 

 

子犬は珍しく素直だ。

 

 

その時、突然。

 

 

「待て!」

 

 

そう言うと真魚は急に立ち止まった。


  

いつになく険しい顔であった。


 

 

「どうした真魚」

 

 

子犬は訳を聞く。

 

 

 

「結界だ」

 

 

真魚はその訳を子犬に言った。

 


 

「嵐、すまぬがここで待っていてもらえぬか?」

 


  

「なぜじゃ、俺だって水を浴びたいのじゃ」

 

 

嵐はその理由を聞いた。

 


  

真魚にはおおよその見当はついていた。 


 

「この結界は神のものだ」

 

 

「神であるお主が、この中に入ることが…」

 

 


「分かった!」


 

真魚がその訳を言い終える前に、嵐がそれを断ち切った。

 

 

 

「だが、それは人であるお主も同じでは無いのか?」

 

 

嵐は逆に真魚に聞く。

 

 

 

「俺は別だ…」

 

 

真魚は自信ありげに答えた。

 

 

「全く、呆れた奴じゃ…」



「その自信はどこから来る…」 



「そこまで言うなら、気を付けるのじゃぞ…」


嵐は真魚の事を心配していた。

 

 

 「ああ…」

  

真魚は森の奥へと消えていった。

 

 

 

「まったく懲りん奴じゃ…」

 

 

嵐は呆れ果て、木の陰で座り込んだ。



 

 

 

結界の中は異空間であった。

 

 

凛と張り詰めた清浄な時間の塊が存在した。

 

 

上が下で下が上、右が左で左が右。

 

 

纏い付くエネルギーと、拡散していくエネルギーの渦。

 

 

空間には、エネルギーの塊が呪として張られていた。

 

 

主の許可なく触れたものは、瞬時にそのすべてが停止し崩壊していく。

 

 

たとえそれが形のない形而上の「神」という存在だとしても例外はない。



「これは…すごいな…」

 

 

 

肌に張り付くような密度の高さが真魚の躰を縛る。

 

 

真魚は、驚きとため息が混じったエネルギーの混沌(カオス)にあきれた。


 

嵐を連れてこなかったのは正解だった。

 

 

この言霊の呪を貼ったエネルギー。

 

 

神と雖もこの中では身動きがとれまい。 

 

 

それどころか、瞬く間に消滅したであろう。

 

 

真魚はこの結界に侵入してしまったことを後悔した。

 

 

同時にこの感覚に陶酔している自分を感じていた。

 

 

『この結界を創造した主を見たい。』

 

 

真魚はいつもとは違う感覚に囚われた。

 

 

頭の中がしびれている。

 

 

だが、真魚はこの時は気づいていなかった。

 

 

すでに籠の中の鳥であったことを…

  

 


挿絵(By みてみん)




しばらく森らしきものの中を歩いていた。

 


それすらも現実感がない。


 

木立が切れて目の前が少し明るくなったようだ。

 

 

水の落ちる音が聞こえた。

 

 

瀧だ。

 

 

向こうに瀧があるようだった。


 

真魚はその瀧に誘われる様に森の中を抜けていった。

 

 

「何だ…この感じ…」

 

 

真魚は今まで感じたことのない感覚にとらわれた。

 

 

遠い昔感じた記憶。

 

 

懐かしい記憶。

 

 

生命。

 

 

はじまり。

 

 

だが、真魚はその答えにたどり着くことは出来なかった。

 

 

その時…

 

 

「!」

 

 

真魚は心を奪われた。

 

 

その光景にすべてを奪われた。

 

 

その場に呆然と立ち尽くした。

 

 

それだけが真魚に出来る唯一の事であった。

 



 

女らしきものがいた。

 

 

瀧の前で水を浴びていた。

 

 

全裸であった。

 

 

膝の辺りまで水につかっていた。

 

 


長い漆黒の髪。

 

 


その髪が胸、背中にかかっている。

 

 

濡れた身体に貼り付き、女としての身体を浮き彫りにしている。

 

 


抜けるような白い肌。

 


 

下腹部の陰りがそれをより引き立てていた。

 

 

真魚に対して身体を半分向けた形で、女は


 

水を手ですくい身体にかけた。

 

 

その動き、仕草がが真魚の心をとらえて放さない。

 

 

真魚は動けないままそれを見つめていた。

 



挿絵(By みてみん)





 

「!」

 

 

女は突然、その動きを止め真魚に視線を向けた。

 

 

その視線は真魚の身体を焼き尽くすかの様であった。

 

 

 

「誰だ!」

 

 

 

女は真魚に強い意志を放った。

 

 

 

美しい。

 

 

 

これほどの美が存在する。

 

 

 

その瞳、その唇。

 

 

 

これ以上はない。

 

 

 

その美しさはそう思わせるだけの存在であった。

 

 

 

真魚の呪縛は解ける。

 

 

 

真魚は禁忌を犯してしまった。

 

 

 

「見た」と言う事実が神の結界を乱してしまったのだ。

 

 

 

 

「すまぬ、見るつもりではなかった」

 

 

真魚は素直に詫びた。

 

 

 

「その美しい躰を隠してくれるとありがたいのだが…」

 

 

真魚は目のやり場に困っていた。

 


 

「そんなことはどうでもいい!」

 

 

女の視線は真魚に注がれたまま動かない。

 


 

「お前は誰だ!」

 

 

女の言葉は鮮烈であった。

 


 

「俺は佐伯真魚だ」

 

 

真魚は女の問いかけに答えた。

 

 

その時、真魚は自分が声で話していない事実に気がついた。

 

 

女の強い視線は緩む事はない。

 

 

だがその険しい表情ですら、美しいと言わざるを得なかった。 

 


 

「佐伯…だと…」

 

 

女は何か心当たりがあるような反応を見せた。

 

 

『佐伯氏の真魚とな』

 

 

 「ここが、神である私の結界の中だと知った上で入ったのか?」

 

 

女は神であった。

 

 

女の神は真魚に問う。

 

 

 

「結界が張られてあることは知っていた」

 

 

「だが、張った主が女である事は分からなかった」

 

 

真魚は女の神にそう答えた。

 


 

『信じられん…神である私の結界だと知っていながら…』

 

 

女の神は唇をかみしめた。

 

 

『なぜ、気づかなかったのだ、なぜ感じなかったのだ』

 

 

女の神は自身の中で葛藤した。

 

 

『あり得ない、人ごときが神である私の波動の呪の中に入る事など…』

 

 

『人のような穢れたものが、私の中に堂々と入って来ることなど…』



『許せない…』



 「!」 

 

 

女の神はふと真魚が持っている棒を見た。

 

 

「お前、その棒…」

 

 

女の神は何かに気づいたようだ。

 


 

「貰いものだ」

 

 

真魚はそう言った。

 

 

 

「人の物では無いな…」

 

 

女の神がそう言った。

 


 

「俺には分からんが、どうもそう言うものらしい」

 

 

真魚は棒を見ながらさらりと言った。

 

 

「そういうことか…」

 

 

『軒猿め、いらぬお節介を焼きおって…』 

 

 

女の神は横に手を振ると、一瞬にして美しい衣を纏った。 


 

 

「これで気兼ねなく話せるかな」

 

 

真魚は安堵の表情を見せた。

 


「人ごときに躰を見られようが、どうと言うことはない」

 

 

女の神は突っぱねる様に言った。

 

 

 

「だが、そなたほど美しい女を見たことはない」

 

 

真魚はさらりと言った。

 

 


「女だと、私は女ではない神だ」

 

 

女の神は真魚の目を強く見た。

 

 


「もとは同じ骸骨(もの)が、これほど美しく輝くのか」

 

 

真魚はさらに言った。

 


 

くすっと女の神は笑ってしまった。

 


 

「お前、神である私を口説いているのか?」

 

 

女の神は真魚の目から視線を外さない。

 


 

「美しいものを美しいと言っているだけだ」

 

 

真魚は平然とそう言ってのけた。

 


 

「お前は面白い奴だ」

 

 

「穢れのない真っ直ぐな心…」


「それにその霊力…人にしては大き過ぎるな」

 

 

女の神は真魚の全てを見透かしている。

 

 

 

「まだまだこんなものではない」

 

 

「まあ、それでもいつかは穢れて枯れていく」

 

 

真魚は言った。

 

 

 

「あっはははっはっ」

 

 

女の神は急に高笑いをした。

 

 

「久しぶりに面白い人間に出会ったわ」

 

 

女の神は笑いながらそう言った。

 

 


「名を聞いていない」

 

 真魚は恐れることもなく女の神にそう言った。

 

 

「名だと!」

 

 

女の神は険しい表情を見せて言った。

 

 

「!」

 

 

その時、真魚が動いた。

 

 

女の神を払いのけるかのように背を向け、その後ろに立った。

 

 



 

「な、何を!」

 

 

瀧の直ぐ横、岩の隙間から黒い霧が吹き出した。

 

 

人が二人入れるほどの闇へと変わった。

 

 

「何だと!私の結界の中だぞ!」

 

 

女の神はその事実が受け入れられない。

 

 

真魚は棒を持ち青龍を呼び出そうとした。

 

 

だが、間に合わなかった。

 

 

真魚の躰は闇からの無数の矢に貫かれた。

 

 

 

「おのれ!」

 

 

女の神は怒りの全てを闇に向けた。

 

 

 

闇はその怒りに触れ一瞬で消え去った。

 

 

真魚の衣が血で滲んだ。




挿絵(By みてみん)





 

「神聖な瀧を汚しおって…」

 

 

女の神は倒れていく真魚の躰を受け止めた。

 

 

この穢れの中では、神といえど実態を維持することで精一杯であった。




 



 

嵐はその異変にすぐ気づいた。

 


「結界が乱れた!」

 


「まさか、真魚!」

 

 

嵐は走った。

 


挿絵(By みてみん)




 

子犬の姿では、どんなに急いでも間に合うかどうかはわからない。

 

 

だが、走った。

 

 

騒ぐ。

 

 

何かが起こった。

 

 

神の結界が乱れる。

 

 

それほどのことが起こったのだ。

 

 

真魚に何かがあったことだけは確かだった。

 

 

真魚の気が小さくなっていく。

 

 

 

「真魚!」

 

 

嵐は女の神に抱きかかえられた真魚を見た。

 

 

女の神は子犬の嵐には目もくれなかった。

 


 

「この者は連れて行く」

 

 

それだけを言い残して、真魚共々消えていった。

 

 

 

嵐は何もないその空間を見つめていた。

 

 

嵐は真魚の血の臭いを嗅ぎ取った。

 

 

 

「真魚…」

 

  

真魚の棒が残されていた。

 


  

「一体、どうしたと言うのじゃ…」

 

 

 

嵐は事実を受け入れることが出来なかった。

 

 

 

しばらくそこに立ちつくした。


 



 

真っ白い空間であった。

 

 

何もない。

 

 

大きさは感じられない。

 

 

靄のようなものが立ちこめている。

 

 

清浄な空間であった。

 

 

真魚の躰らしきものはその何もない地に横たえられていた。

 

 

 

真魚の傷は浅くはない。

 

 

全身を貫いた闇の矢は、真魚の体力を奪って行った。

 


 

「お前の身体は治療のため別の場所にある」


 

 

「ここに置くことは許されないからだ」

 

 

「しかし、出来る限りのことはやっておいた」

 

 

「あれ以上は許されていない、後はお前次第ということになる」

 

 

女の神は真魚に向かって言った。

 

 

 

「すまない…」

 

 

真魚はそれだけ言うのがやっとであった。

 

 

 

「痛みは感じているはずだ」

 

 

「残念だがその痛みを取り去ることは出来ない」


 

「その繋がりを切ることは、死を意味するからだ」

 

 

女の神は更にそう言った。

 

 

 

「それにしても…」


 

「人というものは、どうしてこうも哀しく愚かなのだ」


 

言葉ではない、意志が真魚の中に響いてくる。

 

 

 

神は真魚の状態をわかっていた。

 

 

意識の中で会話をする方が楽であった。

 

 

 

「その愚かな人を作ったのはそなた達「神」であろう」

 

 

真魚は遠い意識の中で答える。

 

 

 

「人の世は神が作りし坩堝(るつぼ)だ」

  

  

真魚は言った。

 

 

 

「そういうお前は何だ!」

 

  

女の神は声を荒げた。

 


 

「私は死なぬ!あの程度のものならどうすることも出来た」

 

 

「なのに!お前はこうなるのを覚悟でそれを受けた」

 

 

「わからぬ!私にはわからぬ!」

 

 

女の神は険しい表情を崩そうとはしない。

 


 

「美しいものを守りたい」

 

 

「そう思うことがなぜ悪い」

 

  

真魚は問いかけた。

 


  

「美しいだと!そんなものは幻想だ!」

 

 

「この躰とて、本当の姿ではない!」

 

 

女の神はそう言った。

 

 

 

「俺はそう思った」

 

  

真魚は揺るがない。

 

 

 

「思うのは自由だ!幻想に惑わされるのも自由だ!」

 

 

女の神は尚もそう言う。

 


 

「俺は美しいと思う」

 

 

生命(エネルギー)の波動の心地よさにに引き寄せられた」


 

「見てみたいと思ったのだ」

 

 

真魚は女の神を見つめた。

 

 

 

「私は…お前のことが許せない」

 

 

「人は神を超えられぬ、超えてはならぬ…」

 

 

「だが、あの時、あの一瞬…」

 

 

女の神は真魚を見つめた。

 

 

 

「結界越しの奴らに気付けず…」

 

 

「お前が触れ、穢されたため我を忘れた」

 

 

女の神の怒りは収まらない。

 

 

「だが、お前は気がついていた」

 

 

「神である私より先に…」

 

 

「あの一瞬…」

 

 

「神である私が…」


「人であるお前に、遅れを取ることなどあってはならぬのだ!」

 

 

 

「それは俺だからだ」

 

 

真魚は神をも恐れぬ言葉を放った。

 

 

 

「な、何を!」

 

 

「お前は何を言っているのかわかっているのか!」

 

 

女の神はその感情を高ぶらせた。

 


 

「俺だからわかったのだ」

 

  

真魚は尚もそう言った。

 


 

「お前は、神である私を超えたと言っているのだぞ!」

 

 

 

「そうだ、それが事実だ」

 

  

真魚は言った。

 


挿絵(By みてみん)




 

「何ぃ!」


 

女の神は怒りで言葉を失った。

 

 

だが、その怒りの表情でさえ、真魚は美しいと感じていた。

 

 

 

「人であっても、神を超えられる」

 

 

「これは事実だ」

 

 

「そなたを守りたい、その思いがそれを叶えた」

 

 

「思えば叶う」


 

「人はそうして今を作る」

 

 

「この理は仏が作りしものだ」

 

 

「神であっても、これには逆らえぬ」


  

真魚は神に対してそう言った。



 

「私を守る…だと…」

 

 

「人であるお前が…私を守る…だと」

 

 

「あり得ない…それはあってはならぬのだ」

 

  

女の神はその事実を拒んだ。

 


 

「そなたを美しいと思った」

 

 

真魚は目を開けようとしたが、出来なかった。

 

 

「俺は今まで、そなたのように高貴で美しい存在を観じたことはない」

 

 

「あの時、『俺はそなたを守らねば…』そう思った。」

 

 

「躰が無意識に動いていた」

 

 

「心と連動した…それだけのことだ」

 

  

真魚は目を瞑ったまま、女の神の存在を確かめる。

 


 「それだけだと…」

 

  

女の神は動揺した。

 

 

「こんなになってまで…」

 

  

真っ直ぐな心。

 

  

傷ついた躰。

 

  

庇った証。



 

「命さえも惜しむことなく…」

 


  

女の神の怒りが消えていく…

 

 

  

なぜだかわからない。

 

 

 

「お前は…」


『それだけ』

 

 

「その言葉で全てを片付けるのか…」

 

 

  

その答えが見つからない。

 

  

女の神は真魚に近づき膝をついた。

 

  

この愚かな人に別の感情が芽生えた。

 

 

  

「お前は何がしたいのだ…」

 

 

  

その手が静かに真魚の頬に触れた。

 

  

女の神を柔らかな光が包み込んだ。

 

 

  

「人というものは…」



「こんなに愚かで…」



「儚い…だが…」

 


「温かい…」

 

 

  

温もりが神を揺さぶった。

 

  

  

女の神は真魚の中に意識を向けた。

 

 

  

そして、その心に触れた。

  


 

  

「お前!」

 


  

驚いた。

 

  

  

真魚の心をその両手で包んだ。

 


  

「どうして…」

 


  

悲しみがあった。

 

 

  

苦脳があった。

 

 

  

そういうもので真魚の心は埋もれていた。

 

 

  

「なぜだ!」

 

 

  

女の神は理解できなかった。

 

 


挿絵(By みてみん)





  

「お前の心はどうしてこのようなもので…」

 

 

  

 

「悲しみを知らねば、喜びを感じることはない」

 

 

  

真魚は答えた。

  

 

 

 

「苦しみを超えなければ、楽しさは来ない」

 

 

 

「これは神が創りし理であろう…」

 

  

更に真魚は言った。

 


 

 

「しかし…お前のそれは…」

 

 

 

女の神は返事に困った。

 

 

大きすぎるのだ。

 

 

これを人が抱えられるのか…

 

 

これだけのものを背負えるのか…

 

 

女の神は戸惑った。

 

 

「この坩堝を作ったのは…そなた達「神」だ」

 

 

真魚は平然と答えた。

 

 

「何と…いう…」

 

 

禁忌という器に秘められた意志と想い。

 

 

今にも壊れそうなそれは、真魚の中で輝いていた。

 

 

「こんなに…こんなに…」

 

 

儚さが神を縛った。

 

  

   

その時!


 

   

突然…

 

 

 

真魚の頬が濡れた。

 

 

女の神は突然起こった異変に戸惑った。

 

 

 

「涙か…」

 

 

真魚がつぶやいた。

 

 

 

「神の涙も温かいのだな…」

 

 

そう言うと真魚は意識を失った。

 

 

 

その言葉で女の神はやっと気づいた。

 

 

「泣いている…」

 

 

「神である私が…」

 

 

「泣いている…」

 

 

「この人間に触れて…」

 

 

「心に触れて…」

 

 

「神である私が…泣いている…」

 

 

傍らに座り、女の神は真魚の顔を見つめて泣いていた。

 

 

その涙の意味を拒んでいた。



挿絵(By みてみん)  



 

真魚は宇宙にいた。

 

 

闇の中に立っていた。

 

 

光の宇渦が無数にあった。

 

 

光と闇。

 

 

密と疎。

 

 

それらは互いに影響しながら世界を作り出していく。

 

 

宇宙の理がそこにあった。

 

 

ふと気がつくと無限の彼方にひときわ輝く光の玉があった。




挿絵(By みてみん)



 

 

誘われるままに飛んだ。

 

 

 

「こんなにも速く飛べるものか?」


 

 

その速さに驚いた。


 

だが光の玉は近づくこともない。

 

 

遠ざかることもない。

 

 

どんなに速く飛んでも変わらなかった。  


 

その時…

 


 

「真魚…」

 

 

 声がした。

 


 

「お前はまだ行ってはいけない…」

 


 

その声の主に覚えがあった。

 

 

 

「お前にはまだやるべきことがある…」

 

 

 

そうだ!

 

 

行ってはいけない!

 

 

 

真魚は思った。

 

 

 

「戻ってこい!」


 

 真魚はその声に振り向いた。

 


  

「私の側に来い!」

 


  

呼んでいる…

 


  

「私はまだお前を失いたくはない」

 


  

俺も同じだ。

 


  

「私は丹生津姫…」

 


   

姫!

 


  

「私はお前が…」

 

 

  

真魚の目にその姿がはっきり見えた。

 


  

「愛おしい…」

 

 

 

姫の瞳から涙が溢れた。

 

 

姫は涙の意味を受け入れた。

 

 

真魚の躰がまばゆいほどの光に包まれた。

 

 

 

この感じ…

 

 

温かい…

 

 

柔らかい…

 

 

感じる…

 

  

生命(エネルギー)… 


  

  

「姫!」

 

 

 

その瞬間、真魚は飛んだ。

 


  

光の玉となって、次元を飛び越えた。

 

 

 

真っ白い時間が過ぎた。

 

 

 

それは永遠という時間の始まりだったかも知れない。


 

 

真魚はゆっくり目を開けた…

 

 

 

「真魚…」


 

 

真魚の目の前に、美しい丹生津姫の顔があった。

 

 

 

悲しげに真魚を見つめていた。

 

 

 

真魚の上半身を抱きかかえるようにして、姫は真魚を見つめていた。

 

 

 

姫の手が真魚の存在を確かめるように、その頬をなでた。

 


  

「私はお前が憎らしい」

 

 

「神と拝め奉られてから何千年も過ごしてきた」

 

 

「我が結界に侵入し、我を見、禁を破り、我に触れ、我を穢した」

 

 「たかだか人であるお前に…心が乱れた…」

 

 

 その瞳には溢れそうな涙と感情が、いっぱい詰まっていた。

 

 

 「そなたは美しい」

 

 

 真魚のその言葉で…

 


 溢れて…

 


 落ちた。

 


 なぜだかわからない。

 


 神である。

 


 だが…

 

 

 

こらえきれない感情を真魚にぶつけた。

 

 

 

人である真魚の前に…

 

 

 

その胸に顔を埋めるようにして泣いた。

 

 

 

あらぬ限りの声で泣いた。

 

 

 

真魚は姫を抱きしめた。

 

 

 

「お前は愚かじゃ!」

 


  

「愚か者じゃ!」

 

 

 

全ての感情を洗い流すかのように姫は泣いた。

 



 

真魚は全てを受け入れた。

 

 

 

時が止まっていた。

 

 

 

二人が抱き合ったまま…

 

 

 

時が止まっていた。

 


  

ただ…

 

 

 

想いだけが溢れ続けていた。





挿絵(By みてみん)



 



 

 

嵐は途方に暮れていた。

 

 

残る血の臭い。

 

 

真魚のものだ。

 

 

しかも、かなりの出血であることは間違いなかった。

 


 

「真魚を連れて行った女の神は誰じゃ?」

 

 

嵐は考えていた。

 

 

  

  

金峯山を下りた。

 


  

「情報は有効に利用しないとな」

 

   

真魚達一行はそのまま南へ下った。


 

  

十日ほど時間をかけながら歩いた。



  

前鬼と後鬼は時々何処かに出かけて行った。



  

真魚は何かを探しながら歩いている様であった。

 

 

 

葛城の山々を越え、川伝いに歩いた。 

 

 

川幅が広くなり始めた頃、川を渡った。

 

 

今度は大きな川の支流を伝って山の方に向かった。

 

 

少しずつではあるが道が険しくなり始めた頃であった。 


 

そこで、事件は起こった。


 

 

「あの神は一体誰じゃ?」


 

嵐は独り言をつぶやいた。

 

 


 

「遅いと思ったら休憩かいな!」

 

 

その声は木の上から聞こえた。

 


 

挿絵(By みてみん)





 

「前鬼!後鬼!お主ら何をしとったんや!」

 

 

嵐は情けない声で言った。


 

 

「おや!真魚殿がいないようじゃが?」

  

  

前鬼が嵐に聞いた。

 

 

 

「真魚は女の神に連れて行かれてしもうた」

 

 

嵐は言った。

 

 

 

「何と!女の神とな!」

 

 

後鬼は驚いた様子で言った。

 


 

「それは恐らく丹生津姫であろう」

 

 

前鬼は心当たりがあるらしい。

 

 

 

「かなりの美人であったであろう?」



「うちと同じくらいか?」

 

 

後鬼が言った。

 

 

 

「お主など、足下どころか虫けら以下じゃ!」 

 

 

嵐もその美しさを認めていた。

 

 

「えらい言われようじゃのう…」



「お主こそ今は虫けら以下ではないのか?」



後鬼は嵐を睨み付けた。



「間違いない、丹生津姫じゃ!」

 

 

前鬼は確信した。

 

 

 

「だが、その丹生津姫がどうして真魚殿を連れて行くのじゃ?」

 

 

後鬼が不思議そうに言った。

 


 

「わからん。だが、真魚の血の臭いが立ちこめて居った」

 

 

「お主らにもわかるであろう」

 

 

嵐は前鬼と後鬼に遠回しに、何かあったと言う事実を伝えた。 

 


 

「それは、うそではないのう…」

 

 

後鬼は辺りの臭いをかいで言った。

 

 

 

「それにあちらの奴らの気も混じっている」

 

 

前鬼はおおかたの事情は飲み込めた様だ。

 


挿絵(By みてみん)





 

「奴らめ!」

 

 

嵐は無念であった。

 

 

 

「初めは何もなかったのじゃ」

 

 

「だが、突然神の結界が乱れたのじゃ」

 

 

嵐はその時の状況を語り始めた。

 


 

「お主はどうして居った?」

 

 

後鬼が尋ねる。

 

 

 

「神の結界に他の神が入ると危険だと言われて…」

 

 


「休んで居ったか」

 

 

前鬼がその時の状況を描く。

 


 

「そうであれば、真魚殿は丹生津姫に助けられた可能性が高い。」

 

 

前鬼が言った。

 

 

 

「そうか!だから姫は『この者は連れて行く』と言ったのか!」 


 

嵐はようやく事の真相が掴めてきたようであった。

 


 

「そう言ったのか?姫は」


 

後鬼が問い直す。

 


 

「言った」

 

 

嵐は確信した。

 

 

真魚は生きている。

 


 

「大丈夫だとは思うが、傷は思ったより深いかもしれんな」

 

 

前鬼が言った。

 

 

 

「なぜじゃ!」

 

 

嵐は納得いかない。

 


 

「何もなければ…」



「わざわざ神である姫が、人である真魚を連れてはいくまい…」

 

 

前鬼は不安そうな嵐に向かっていった。

 


 

「真魚どうして居るのじゃ…」

 

 

嵐は後悔していた。


 







 

真魚は眠り続けていた。

 

 

元々時間など存在しない空間である。


 

どれだけ眠っているのかもわからない。

 

 

だが、その間真魚をずっと見ていた。

 

 

そして、ずっと考えていた。

 

 

 

人である真魚のこと。

 

 

 

神である自分のこと。

 


 

人である真魚が抱える悲しみ、苦悩。

 

 

 

それは真魚だけのものではない。

 

 

 

自分以外の者に対してこれほどの想いを抱く。

 

 

 

佐伯真魚。

 

 

 

果てしない器を持つものが生み出す力。


 

 

「神を超えるかも知れない」

 

 

「いずれこの男は神をも超える」

 

 

そう感じた。

 

 


挿絵(By みてみん)






 

そして、もう一つ…



 

自分の中に芽生えた感情に戸惑っていた。

 

 

 

儚く、今にも壊れそうな器を抱え、



それでいてひたすら真っ直ぐに進もうとする。

 

 


それ故に自らも傷を負う。

 

 

だが、それすらも潔しとする。

 

 

「このような男がいたのか…」

 

 

眠っている真魚の顔を見つめる。

 

 

こみ上げてくる感情。

 

 

「私にもこのような感情が存在したのか」

 

 

「このような感情が、神である私にも生まれるのか」

 

 

この男の波動に巻き込まれていく。

 

 

この男の生命(エネルギー)に同調していく。

 

 

それが心地よい。

 

 

命という器の中に、秘められた意志。

 

 

その意志はやがて人々を巻き込んで行くであろう。

 

 

「お前といるのも悪くはない」

 

 

神としてあり得ない言葉を言った。

 

 

「お前と…」

 

 

その時…

 

 

「真魚!」

 

 

真魚の瞼が動いた。

 

 

真魚が目を開けた。

 


 

- 真魚が存在する。 -

 


 

その事実に打ち震えた。

 


 

溢れる感情に押しつぶされそうになりながら、懸命にそれを堪えた。

 

 

 

  

「ずっといてくれたのだな…」


  

真魚が微笑んで言った。


  

真魚の声が丹生津姫を包んだ。


  

 

涙が落ちた。

 

    

それが心地良かった。

 

  

真魚をいっぱい抱きしめた。

 


   

溢れ出る感情にあらがう必要はもうなかった。



   

『神である私が…』

 


   

『お前という存在に…』

 


   

『抱かれている…』

 


   

その事実がうれしかった。

   

   








「ところでお主達は何をしていたのじゃ」

 

 

嵐は姿を消していた前鬼達の行動が気になっていた。

 


 

「ちょっと一仕事、真魚殿に頼まれてな。」

 

 

前鬼が言った。

 


 

「何の仕事じゃ?」

 


 

「それはまだ言えぬ」

 

 

嵐が内容を尋ねたが、前鬼は言葉を濁した。 




「お主らだけで何が出来るのじゃ?」

 

 

嵐は前鬼と後鬼を挑発した。

 


 

「その手には乗らぬ、真魚殿にしかられるからな」

 

 

後鬼は嵐の挑発を軽くあしらった。

 

 


「真魚殿が何の考えもなしに、この地に来たと思うか?」

 

 

前鬼は嵐に問いかける。

 


 

「それはない。」

 

 

嵐は確信を持って言った。

 


 

「じゃろう!」

 

 

後鬼は相づちを打つ。

 


 

「そう言うことじゃ」

 

 

前鬼は嵐を窘めるように言った。

 


 

「それではわからん!」

 

 

嵐は自分だけが蚊帳の外であることが不満であった。


 

 

「お主らだけで何を企んでおるのじゃ!」

 

 

嵐は知りたくてしょうがなかった。

 


 

「これは儂らにしか出来ない仕事じゃ」

 

 

後鬼が言った。

 


 

「厳密に言えば二人そろってないと出来ない仕事じゃ」

 

 

前鬼が言った。

 


 

「お主ら二人がそろうと、なんか良いことがあるのか?」

 

 

嵐は不機嫌そうに言った。

 


 

「良いことはないが、出来ることがある」

 

 

後鬼は言った。

 


 

「出来ること?何か芸でも出来るのか?」

 

 

嵐には皆目見当が付かなかった。

 


 

「芸と言えば芸になるかな」

 

 

前鬼が言う。

 


 

「そうじゃのう」

 

 

後鬼が頷く。

 


 

「そこまで言うなら見せてくれ!」

 

 

嵐はたまらずそう言った。

 

 

 

「ほ~見たいのか?」

 

後鬼がそう言って嵐を覗き込む。

 

 

 

「見たい!見せてくれ~~~!」

 

  

嵐がたまらず吠えた。



 

「仕方ないのう」

 

 

前鬼と後鬼はそう言うと肩を組んだ。

 

 

そして残っているお互いの手で印を組んだ。

 

 

呪を唱える。

 

 

 

「お~!」

 

 

嵐は驚いた。

 


 

二人の躰が陽炎のように揺らぎ始めた。

 


「お~お~お~~~~~~!」


 

嵐は予想もしない出来事に、奇妙な声を上げていた。


 

揺らぎながら融合していく。

 

 

「お~お~お主ら一体!」

 

 

嵐は目を丸くして二人を見た。

 

 

いや、今は二人ではなく実体は一人であった。

 

 

「どうじゃ!」

 

 

前鬼と後鬼は、前鬼と後鬼ではなくなっていた。




挿絵(By みてみん)



 


 

「お、お主らこんな特技があったのか!」

 

 

嵐はある意味で感動していた。

 


 

「ひょっとして吉野山の天狗とはお主らのことか?」

 

 

嵐はふと湧いた考えを言った。

 


 

「そうかも知れん」

 

 

「じゃが、この技はそう長くは使えん、霊力の消耗が激しいのでな」

 

 

そう言うとまたもとの二人に戻った。

 


 

「ははぁ~お主らその技を使って・・・」

 

 

嵐にはおおよその見当がついたらしい。

 

 

 

「まあそんな所だ」

 

 

元に戻った前鬼が答えた。

 


 

「真魚も面白い事を考えるな」

 

 

嵐は感心していた。

 

 

「さすがは真魚じゃ」

 

 

自分で納得していた。

 


 

「わかったのか?」

 

 

「さあ?」

 

 

前鬼と後鬼は半信半疑であった。

 


 

「真魚…どこに行ったのじゃ~」

 

  

嵐は真魚に会いたくなった。

 

 








 

「ふふっ」

 

  

白い空間であった。


  

花の絨毯。

 

 

花びらが敷き詰められていた。

 

 

二人は向き合って寝そべっていた。

 

 

互いの躰に手を添えてくすぐって遊んでいた。

 

 

 

丹生津姫が真魚の目を見つめていた。

 

 

 

真魚が丹生津姫の目を見つめていた。

 

 

 

互いに目を逸らすことはない。

 

 

 

そうすることで互いの心をつなぎ止めていた。





挿絵(By みてみん)



 


 

「私は、お前に出会うまでは、人は虫けらと同じだと思っていた」

 

 


「そんな奴らもいる…」

 

 

 真魚は姫の言葉にそう答えた。

 

 

「だが、今は違う」

 

 

「お前という存在が私を変えた…」

 

 

丹生津姫は真魚の頬に手を触れた。

 

 

そして、その手を真魚の顎の先まで滑らした。

 

 

真魚は黙って姫を見つめていた。

 

 

姫は唇を真魚の唇に重ねた。

 

 

真魚はその腕を姫の背中に回し、その行為を受け入れた。

 

 

しばらく二人は揺らぎながら、お互いの唇を確かめ合っていた。

 

 

二人がふれあい動いている。

 

 

姫が唇を離した。

 

 

「お前といると…」

 

 

「抱き合っているのに…」 

 

 

「苦しいのだ…」

 

 

「唇を重ねているのに…」

 

 

「切ないのだ…」

 

 

姫は真魚の目を見つめていった。

 

 

 

「俺も同じだ」

 

 

「相容れぬものが相容れようとする」

 

 

「それは哀しくて切ない…」

 

 

真魚は言った。

 

 

 

「相容れぬもの…陰と陽…男と女」

 

 

姫はそうつぶやくと再び真魚に唇を重ねた。

 

 

真魚は姫を抱きしめた。

 

 

互いの肌のぬくもりが、その切なさを癒す。

 

 

重ねた唇が沈黙を守る。

 

 

だが、どんなに肌を合わせても、どんなに唇を重ねても足りなかった。

 

 

「私はどうすれば良いのだ…」

 

 

「この感情はどこに行きたいのだ」

 

 

丹生津姫は、湧き上がる感情に戸惑っていた。

 

 

「切ないのだ…」

 

 

「お前の事を、思えば思うほど切ないのだ…憎らしいのだ」

 

 

「こうして…」

 

 

姫は真魚の背中に爪を立てた。

 

 

「…」

 

 

真魚は姫の目を見つめて言った。

 

 

「そなたが愛おしい…」

 

 

姫の目から涙が溢れた。

 

 

姫は真魚を受け入れた。

 

 

感情の渦が姫の心を捕らえた。

 

 

真魚の波動が伝わってくる。

 

 

心地よい…

 

 

真魚の波動によって渦が加速していく。

 

 

『いつまでもこうしていたい…』

 

 

『この渦に抱かれていたい…』

 

 

『真魚といたい…』

 

 

姫はそう感じた。 

 

 

渦はどんどん大きくなっていく。

 

 

渦が二人を包み込んでいく。

 

 

姫は真魚にしがみついた。

 

 

波が来る。

 

 

波が押し寄せてくる。

 

 

心地よい…

 

 

苦しい…

 

心地よい…

  


切ない…

 

 

互いに違う感情が打ち寄せる。

 

 

だんだんと周期が速くなる。


 

それに合わせるように吐息が漏れた。

 

 

だんだんと強くなる。

 

 

大きくなる。

 

 

いつの間にか吐息は声に変わっていた。

 

 

その大きさに…

 


全てが包まれていく…

 

 

渦の中で時が止まる。

 

 

二つの心が混ざり合う。

 

 

足りないものを求め…


 

隙間を埋め…

 

 

その中に互いを取り込もうとする。

 

 

相容れない切なさがそれを拒む。 

 

 

それでも求め合う。

 

 

突然。

 

 

全てが止まる。

 

 

中心からエネルギーが沸き上がった。

 

 

弾けた。

 

 

全てが弾けた。

 

 

叫んでいた。

 

  

真魚の名を叫んでいた。

 

     

真魚は全てを包み込んだ。

 

 

 

姫は全てを受け止めた。


   

  

静かに時が流れていく。

 

   

「これが…」

 

  

丹生津姫は薄れゆく意識の中で感じた。

 

  

「生命の…力…」

 

   

吐息が時を数えていた。


  

感情の渦が静まっていく。

 

  

そして…


 

突然…


 

姫の心に光が射した。

 

 

「真魚…」

 

 

「思い出した…」



「すべては…ひとつだったのだな」


 

姫は真魚を見て言った。

 

    

  

真魚は姫を見つめていた。

 

 

 

「だから…愛おしいのだ」

 

 

 

真魚の言葉がしみこんでくる。



儚さが心を締めつける…。

 

 

真魚…」

 

 

姫は真魚の胸で永遠の今を願った。











嵐は動けずにいた。

 

 

陽が高くなっても瀧の側は涼しかった。

 

 

毛皮を着ている嵐には絶好の避暑地と言えた。

 

 

あれからすでに一週間が過ぎていた。

 

 

 

「腹減ったなぁ~」

 

 

嵐は真魚に会いたいと願う気持ちとは裏腹に、


どうして良いのかわからなかった。

 

 


ただ、前鬼がここしかないと言う。



この場を動く理由がなかった。



 

それに棒を置いたままである。

 

 

『必ず真魚はここに戻ってくる…』

 


確信はあったが、何もせず真魚の帰りを待つ日々が続いた。

 



前鬼と後鬼は他にも用事があるらしく、



出かけたきり帰っては来なかった。

 

 

 

「真魚の奴は何をしているのだ」

 

 

「まさかあの高飛車な姫と、懇ろになるとは思えんしな…」

 

 

そう思ってはみたが、嵐に一抹の不安がよぎった。

 

 

「ひょっとして真魚の奴…」



「丹生津姫まで抱き込もうとしておるのでは…」

 


前鬼と後鬼を使いに出した事実。

 

 

 

「何かを企んでおることは間違いない」

 

 

「あの丹生津姫が落ちるはずがないしな…」

 

 

 

その考えをもみ消すと再び眠りに就こうとした時… 


 

 

嵐の目の前に信じられない光景が現れた。

 

 

 

「あぁ…」

 

 

嵐は言葉が出なかった。

 




挿絵(By みてみん)





「傷も良くなったしそろそろ出かけんとな」

 



真魚は丹生津姫に言った。

 


 

「お前に聞いておきたいことがある」

 

 

姫は真魚に向き合った。

 


 

「なぜこの地に来たかと言うことだ」

 

 

姫は真魚に尋ねた。

 

 

「お前のような者が、用もなしに動くとは思えん」

 

 

 

「そうだな」

 

 

真魚は訳を話し始めた。

 

 

「あるものを捜している」

 

 

真魚はあるものとだけ言った。

 


 

「そう言うことか…」

 

 

姫にはわかっていた。

 

 

「丹砂だな」

 


 

「一つはそうだ」

 

 

真魚は答える。

 


 

「一つ?」

 

 

「まだあるのか?」

 

 

姫は不意を突かれた様に言った。

 


 

「場所だ」

 

 

真魚はさらりという。

 


 

「場所?」

 

 

「お前は何をする気だ」

 

 

姫は真魚の考えを図りかねていた。

 


 

「俺の居場所を作るだけだ」

 

 

真魚はそう答える。

 


 

「居場所?」



「そうか!なるほどな…」

 


姫にもだんだんと見えてきたらしい。

 



「お前という奴は、何を考えてるのだか…」

 

 

丹生津姫はしばらく真魚を見つめていた。

 


 

「これを持って行きなさい」

 

 

丹生津姫は胸にかけられていた宝玉を真魚に渡した。

 


 「これは…」

 

 

「あの棒には必要なものです」

 

 

丹生津姫は真魚の疑問に答えた。

 

 

「やはり、このときは訪れるのですね」 

 

 

丹生津姫は真魚の胸にもたれ、残念そうに言った。

 


 

「世話になった」

 

 

真魚は姫を抱きしめた。

 


 

「このまま時が止まればいい…」

 

 

姫は心の底からそう願った。

 


 

だが、同時に真魚の心も感じていた。

 

 

 

「お前は行かねばならぬな」

 

 

真魚が成さねばならぬ事、それはわかっていた。

 

 

だが、離れたくはないという気持ちがそれを許さなかった。

 

 

二つの気持ちの間で心が揺れた。

 



挿絵(By みてみん)





「人はこの様にして、心で力を生むのだな」

 

 

真魚の腕の中で丹生津姫はつぶやいた。

 


 「そうだ」

 

 

姫を抱きしめたまま真魚が答えた。

 


 

「神である私はそのようなものは必要ない」

 

 

「だが、今は違う」

 


「悪くはない…」

 


姫はその瞳に涙をためた。

 


 

「真魚の前では…」

 


 

姫は顔を上げ真魚を見た。

 

 

その瞳から涙が溢れた。

 

 

真魚はその涙を指ですくった。

 


 

「温かい」

 

 

 

姫は必死に堪えていた。

 

 

笑顔を必死に作ろうとした。

 

 

そうしようと思えば思うほど涙が溢れた。

 


 

「哀しいのなら泣けばいい」

 

 

真魚は姫にそう言った。

 

 

 

姫は首を横に振った。

 


  

「笑いたい…」

 


「でも…」

 

 

 

姫は真魚の胸に顔を埋めた。

 

 

 

「出来ないのだ…」

 

 

 

真魚は姫を抱きしめた。

 

 

 

どれだけの時間が過ぎたであろう。

 

 

穏やかな心が姫を包みこんだ。

 

 

丹生津姫は真魚の胸から顔を離し真魚に言った。

 

 

 

「そろそろ行かねばな」

 

 

 

「ああ」

 

 

 

真魚はそれだけ答えた。

 

 

真魚の言葉と同時に二人の躰が輝き始めた。 


 

だんだんと光の粒が増えていく。

 

 

一際輝いたかと思うと二人の躰は消えていた。







嵐は目をぱちくりさせていた。

 

 

あまりの出来事に顎が外れた様に開いた口が塞がらなかった。

 

 

真魚がいた。

 

 

瀧の前に。

 

 

いつの間に現れたのか、それすらもわからなかった。

 

 

側に丹生津姫が立っていた。

 

 

二人は向き合ってお互いの手を握り合っていた。

 

 

そうしていたかと思うと急に抱き合った。

 

 

 

「離れとうはない…」

 

 

丹生津姫が真魚に言った。

 

 

 

「いつでも会えるではないか」

 

 

真魚は姫の髪を撫でて言った。

 

 

神である。

 

 会おうと思えばいつでも会える。

 

 

 

「磁場、霊力(エネルギー)、触媒、なかなか条件は厳しいぞ。」


 

姫は言った。

 

 

 

「実体でなくても良い」

 

 

「俺を見ていてくれ」

 

 

真魚は姫の頬を撫でた。

 


 

「それだけでいい」

 

 

真魚は姫と唇を合わせた。

 

 

しばらく二人は動かなかった。

 

 

何か心で言葉を交わしている様であった。

 

 

 

「私は許さない」

 

 

「私を奪ったのだぞ」

 

 

姫は言った。

 

 

 

「どうすれば許してもらえる?」

 

 

真魚は微笑んで聞いた。

 

 

 

「そうだな…」

 


 丹生津姫は目を伏せた。

 

 

こみ上げる思いに絶えきれず、真魚の胸に頬を付けた。

 

 

 

「お前がここにいる…」

 

 

丹生津姫はそうつぶやいた。

 

 

 

「当たり前だ」

 

 

真魚が言った。

 

 

「それだけで良い…それだけで…」

 

 

 

その言葉に真魚は揺れた。

 

 

真魚の心に、愛しさと切なさが交錯する。

 

 

真魚は丹生津姫を抱きしめた。

 

 

真魚の腕の中で姫は顔を上げた。

 

 

 

「契りだ」

 

 

姫はそう言うと真魚に唇を重ねた。




挿絵(By みてみん)




 

 

姫の目から涙がこぼれた。

 


  

「真魚…」

 

 

姫が真魚の心に話しかけてきた。

 

 

姫の涙は止まらなかった。

 

 

真魚は姫を抱きしめた。

 

 

「私はお前が…」

 

 

そう言って丹生津姫は真魚の唇に歯を立てた。

 


一度目は、優しく触れた。

 

 

姫は真魚を見つめた。

 

 

その瞳からは涙が溢れている。

 


「真魚…お前が…」

 


「愛おしい…」

 


二度目は本当に咬んだ。

 

  

真魚の唇から血が流れた。

 

  

その血の穢れが、姫の躰を消し去っていく。

 

 

 

姫は目に涙を浮かべながら微笑んでいた。


     

 

それは真魚にとってはかけがえのない微笑みであった。

 


 

ゆっくりと消えていく躰を真魚は精一杯抱きしめた。

 

 

 

やがて姫の躰は消滅した。

 

 

 

躰に残る温もりが姫の全てであった。

 


 

真魚はその温もりを抱きしめていた。

 

 

 

 


 

嵐はしばらく真魚に声をかけることはしなかった。

 

 

 

「真魚の奴、とうとう丹生津姫まで巻き込みおったか…」

 

 

初めはそう思っていた。

 

 

姫が去った後も真魚は動かなかった。 


 

その姿を見て嵐は気がついた。

 

 

 「真魚…」

 

 

嵐はどうするべきかと悩んだ。

 

 

 

「声をかけるべきか…」

 

 

だが、その前に真魚が嵐の存在に気がついた。

 

 

嵐は複雑な気持ちであった。

 

 

 

「ぼ、棒を忘れておるぞ」

 

 

嵐の口から最初に出た言葉はそれであった。

 

 

もっと伝えたいこともあった。

 

 

会いたかった。

 

 

寂しかった。

 

 

しかし…

 

 

思わず出た言葉に嵐はあきれた。

 

 

 

「久しぶりに会ったのにそれか?」

 

 

逆に真魚に突っ込まれた。

 

 

 

「お主があの姫に連れて行かれるところを見たのだ」

 

 

嵐は必死に言い訳をしたが、言い訳になっていなかった。

 

 

 

「この通り大丈夫だ」

 

 

真魚のその言葉に嵐は駆けだした。

 

 

主人に駆け寄る子犬そのものだ。

 

 

 

「心配はしてないぞ!」

 

 

嵐は憎まれ口をわざと言った。

 


 

「おみやげをもらってきた」

 

 

真魚が嵐の頭を撫でた。

 


 

「お、おみやげ!な、何だ食い物か!」

 

 

嵐のその言葉が言い終わらないうちに、真魚は瓢箪の蓋を取った。

 


 

「うひょ~!」

 

 

瓢箪の口から今まで見たことのないようなごちそうが出てきた。

 


 

「こ、これを全部食べてもいいのか?」

 

 

嵐がうれしそうに聞いた。

 

 

 

「まて~!」

 

 

聞き覚えのある二つの声がそれを制した。

 

 

 

「分け合うことが幸せの始まりじゃぞ!」

 

 

後鬼が嵐をたしなめた。

 

 

 

「そんなのは知らん!一人で食べるから幸せなのだ」

 

 

嵐はそう言って食べようとした。

 

 

 

「食い物の恨みは恐ろしいぞ!」

 

 

前鬼がそう言って割り込んだ。

 

 

 

真魚は笑っていた。

 

 

 

「お主らそんなことより仕事は終わったのか?」


 

嵐が聞く。

 

 

 

「終わったからここにいるのだ!」

 

 

後鬼はそう言って一つ何かを食べた。

 

 

 

「わ~」


 

嵐が叫んだ。

 

 

 

「それは俺が食べようと思っていたやつだ!」

 


 

「速い者勝ち~!」

 

 

後鬼が嵐の言葉を制した。

 

 

 

「くそ~こうなったら食べてやる!!」

 

 

「全部食ったる~~~~~~~~~~~~!!!!!」

 

 

嵐の叫びが辺りにこだました。




挿絵(By みてみん)



  


 森の中に闇があった。

 

 

その中から幾つかの目が除いていた。

 

 

「丹生津姫め!」

 

 

「余計なことを…」

 

 

「あれは俺の手柄であったものを…」

 

 

「生きておったか佐伯真魚…」

 

 

「しぶとい奴め…」

 

 

「だが、あいつは面白い…」

 

 

「ああ、面白い…」

 

 


闇はしばらく存在したが、いつの間にか消え去っていた。


 


 第三話 -完-






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