空の宇珠 海の渦 第五話 その十二
真魚の心境は少し複雑であった。
自分の言葉が皆の笑いを生んでしまった。
真魚にしてみれば、冗談などではなかった。
しかし、蝦夷の者達は、法などは全く必要としていない。
自然そのものが神で有り法なのである。
「俺は冗談を言っているのではない…」
真魚は場の雰囲気を変えるため、仕方なく時間をつくった。
しばらくしてようやく、見かねた長老が口を開いた。
「真魚殿は柵を見ましたか?」
柵とは倭が張り巡らした檻である。
倭の領土に入らないように築いたものだ。
「倭がやりそうなことだな」
真魚の言葉には倭への侮蔑が混じる。
「柵をどのように感じておられる?」
長老はどう感じたか、と言う問い方をした。
真魚の感覚に問いかけているのである。
「畏れだ」
真魚はきっぱりと言った。
「畏れているだと…」
皆はその答えに驚いていた。
強大な力を持っている倭が、
村の集合体である蝦夷を畏れることなどはありえない。
普通はそう考える。
だが、真魚はそうではない。
「あの柵は、蝦夷から自分たちを守る為に作られている…」
蝦夷とは大まかに言うと、倭では無いものを意味している。
倭王権は国造制などにおいて勢力を伸ばして行った。
やがて関東から更に北へと支配を広げていくのだ。
そのために柵を造った。
柵とは倭王権が造り始めた城柵である。
周囲に掘りや柵を張り巡らし、中心には政を行う政庁を作った。
労力としてたくさんの民を引き入れ、周りに街を作り住まわせた。
城柵とは政治、軍事と生活の拠点であったと考えられている。
倭王権は支配を広げていく課程で、いくつもの城柵を築きあげた。
そして、守備を固めながら次第に北へと勢力を広げていったのだ。
規模は遙かに大きいが、織田信長が作った安土城がこれとよく似ている。
柵によって蝦夷たちは生活の場を削られ、自然が破壊される。
柵となってしまった土地は蝦夷達は利用できない。
それは、蝦夷達にとって生きる糧を失うのと同じ事なのだ。
「表向きは蝦夷を押さえ込む権力の象徴のようにみえる」
「だが、俺には奴らの恐怖以外は感じられない…」
真魚はそうはっきりと言った。
「倭が何を畏れるというのだ」
阿弖流為は、真魚の言葉が腑に落ちない。
今まで戦ってきた倭にそのような所は見受けられない。
「お主らは何度も退けているではないか?」
真魚が畏れている理由を言った。
「退けただけだ、勝ったわけではない!」
阿弖流為の言いたいことはよく分かる。
「今まで…」
「倭をここまで手こずらせた者達はいないはずだ!」
真魚は阿弖流為に言った。
「そうなのか!」
「戦っている俺らは思いもしなかった」
母礼がその事実に驚いていた。
「しかも、戦力の差は圧倒的に倭が上のはずだ…」
「だが、倭は退かざるを得なかった…」
真魚の言葉に阿弖流為が考えをのせた。
「お主らは獣を捕っている」
「弓や矢も自在に使いこなす」
「刀も馬の上からでも戦えるように工夫されている」
「その少しの差が集まり力となり得るのだ」
真魚の言ったことは正しかった。
「戦などしたことがないお主が、よくそこまでわかるもんだな…」
母礼は感心していた。
「喧嘩ぐらいは、誰だってするものだ…」
真魚は自分の言葉に笑っていた。
「本題に移ろう」
「奴らの数はどれほどなのだ」
阿弖流為が真魚に向き直った。
「俺が見ただけで数万…」
「今頃、多賀の城辺りには、続々と他からも集まって来ていることだろう」
真魚が答える。
「前よりは少ないのか…しかし、我らとてどれほど集まるものか…」
「前の戦いからでも、倭に取り込まれた村がたくさんある…」
母礼は考え込んだ。
「どれぐらいかかる?」
阿弖流為は時間を気にしていた。
蝦夷は国ではない。
兵を集めるのにもそれなりの時間が必要となる。
「あと…ひと月はかかるはずだ」
「ひと月か…急がねばならぬな…」
真魚の答えに、長老が言葉を載せる。
「それよりも問題なのは、今回の指揮をしている、坂上田村麻呂という男だ」
真魚が田村麻呂の名を出した。
「それは、どういう男なのだ」
母礼が真魚に問う。
「倭の切り札と言って良い、恐らくこれ以上の男は存在しない…」
「それは武人としてと言うことなのか?」
阿弖流為は知りたいことがあるらしい。
「武人としても、戦略、戦術どれをとってもだ」
真魚は田村麻呂の全てを、短い時間の間に感じ取っていた。
「一筋縄では行かぬと言うことだな…」
阿弖流為が唇を噛んだ。
「その男、この地が初めてではあるまい…」
母礼が記憶をたどっていた。
「あの男か!」
阿弖流為が声を上げた。
「たぶんお主らの記憶に間違いはない」
「その男だ」
真魚は確信している。
「やっかいな戦いになりそうだな…」
阿弖流為の感覚も大した物である。
戦場で見かけただけの男の技量を見抜いている。
「とりあえず、兵を集めるのが先だな…」
母礼はそう言いながらも、田村麻呂の事が気になっていた。
続く…