空の宇珠 海の渦 外伝 沈黙の微笑 その十五
塊は坂を登る。
憎悪を纏い走っている。
だが、その体力も既に、限界に来ていた。
自らは走っているつもりだ。
だが、身体は前に進んでいない。
後ろで口を広げる黒い穴。
塊の生命が吸い寄せられている。
塊はその事にまだ気づいていない。
ただ、理由の分からない苦しみに、憎しみを重ねる。
この世は二極。
強い光は濃い影を生む。
塊は、してはいけない過ちを犯した。
「あの男さえ来なければ…」
その憎しみの矛先を、あの男に向けたことだ。
佐伯真魚。
強い光は、強い影を生む。
塊の憎悪など、ただのきっかけに過ぎない。
「そろそろか…」
真魚がそう言った。
「陽炎、すまぬが奴は後回しだ!」
そう言った時には嵐の姿は無かった。
のどかな風景にそぐわない黒い穴。
その中から黒いものが吹き出した。
形の無い黒いもの。
それは見る者の恐怖そのものとなる。
見る者の恐怖が、自らの心ににその姿を見せる。
「何だ、あれは…」
陽炎が口を押さえている。
そのものを見た陽炎が、吐き気に耐えている。
距離は関係ない。
その黒き重い波動が陽炎を苦しめる。
「俺たちは闇と呼んでいる…」
真魚が右手に持った棒を前にして、左手で手刀印を組んだ。
真魚の七つの輪と同時に、棒が輝いた。
「玄武!」
棒の光が溢れ、光の盾が現れた。
光り輝く亀の甲羅。
それが皆を包み込んでいた。
「これは!」
陽炎の吐き気が止まった。
「この中から絶対に出るな…」
真魚はそう言い残して闇に向かった。
「何だ、これは!」
塊が振り返った。
背中に走る悪寒。
それに耐えられなくなった。
そこに黒い化け物がいた。
そのものに形は無い。
塊にはそう見えただけだ。
「ひえぇっっ~!」
塊が情けない声を上げて、腰を抜かした。
もう逃げる力も無い。
黒い触手が塊を捉えた。
「あわっっわっ!」
それを必死にふり払うが離れない。
その触手は身体を掴んでいるのでは無い。
塊の魂を捕まえ、食らう。
物質である身体はすり抜ける。
生命が食われていく。
身体はもう動かなかった。
その時…
光が塊の目の前を奔った。
急に身体が楽になった。
「逃げろ…死ぬぞ…」
金と銀に輝く巨大な山犬。
それが、塊に言った。
「ひえっっっ~」
地面を這いながら塊は必死に逃げた。
這い這いの子供より遅い。
力はもう残っていない。
着物の膝は破れ、血がにじんでいる。
手の平も血まみれだ。
それでも、塊は必死になって逃げた。
必死になって生にしがみついた。
生きたいと願った。
這いつくばる塊の目の前に、人の足が見えた。
男が立っていた。
「お、お前は…」
憎悪の矛先を向けた男。
「お主でも、生きたいと思うのか…」
塊には目もくれない。
「だが、それでいい…」
「まだ、やり残したことがあるはずだ…」
真魚は闇から目を離さずにそう言った。
続く…