空の宇珠 海の渦 外伝 沈黙の微笑 その二
子犬の嵐が雫の足下まで来た。
雫は地面に膝を着いて嵐の頭を撫でた。
嵐は子犬のふりを貫き通す。
雫が笑っている。
「こんなことって…」
母親は手ぬぐいで涙を拭った。
嵐は雫の食べ物を貰って食べていた。
「お前は、どこのどいつだ…」
父親が近寄って来て、自分の食べ物を嵐に与えた。
その理由はたったひとつ…
娘の笑顔を見たかったからだ。
嵐はそれらをすぐに平らげた。
娘が笑っただけで感動している。
小さな子供なら分からぬでもない。
だが、そういうことではない。
この親子には、何か隠された事実があるようだ。
「俺の連れがすまない…」
そこに真魚が現れた。
「その犬は嵐と言う」
真魚は雫にそう言った。
いや、雫にだけ…と言った方がいいかもしれない。
「旅をなさっているのですか…」
父が言ったその言葉には、疑問が含まれていた。
明らかに真魚を警戒している。
着物は薄汚れているが悪いものではない。
その汚れ具合で、旅と言うのは何となく理解出来る。
だが、それにしては荷物が少なすぎる。
もし、真魚の棒が刀であったのなら、直ぐに雫を遠ざけたに違いない。
「まあ、そう言うところだ…」
真魚はそう言って笑った。
「いい物をお召しですね…」
母親がそう言った。
真魚の着物は薄汚れている。
だが、その生地から真魚の身分を伺う。
「俺は、佐伯真魚と言う」
真魚が珍しく自ら名乗った。
それはこの親子の警戒心を解くためだ。
「佐伯氏の…」
真魚の予想通り警戒心が解けた。
真魚の出自がこの者達にとって、馴染みがあるものだったからだ。
真魚はその事実を利用した。
それには理由があった。
「その作物、少し分けて頂けぬか?」
籠の中の作物に真魚が目を向けた。
「その子犬が腹を空かせて困っているのだ」
真魚は事実を告げた。
ふふっ
それを聞いて雫が笑った。
「なんと…」
父と母は驚いていた。
「雫が笑うなんて…もう…」
母が目に涙を浮かべている。
父と母には、たわいのない言葉。
だが、雫にはその事実がおかしくてたまらなかった。
それは、嵐の秘密に気づいているからである。
嵐の中に何かがいて、そのおかげで腹が減ってたまらない。
そして、犬のふりをして近づき、食べ物にありついた。
この事実のある部分…
そこまで気づいているから、おかしいのだ。
知識がないと笑いは起こらない。
真魚はその言葉で雫を試した事になる。
「ほう…」
真魚は笑みを浮かべた。
嵐が真魚を見て睨んでいる。
『お主、また良からぬ事を企んでおるであろう!』
嵐の目はそう言っている。
そう言う嵐は既に雫と会話をしていた。
言葉ではない。
『見た目に似合わず面白いな、お主』
『それはお互い様でしょ…』
嵐の波動に雫がそう言った。
荒ぶる神を隠した子犬。
愛らしい姿に潜む力。
雫の言うことは的を射貫いていた。
「しばらく…見たことがなかった…」
父親がつぶやいた。
「あの子犬が…雫の心を…」
母親はそう思った。
それは、決して間違いではない。
だが、真実ではない。
「さ、佐伯様!あの子犬を譲って頂けませぬか!」
父親が声を上げた。
「それは、話を聞いてからだ…」
真魚はそう言って笑みを浮かべた。
続く…