空の宇珠 海の渦 外伝 沈黙の微笑 その一
迫り来る木々の間から青空が覗いている。
色めいた落ち葉が、地上に降り積もる。
山が艶やかな衣を脱ぎ捨て、その実りを分け与える。
それで生き物は生命を繋ぐ。
無駄なものは何一つ無い。
それは宇宙の一部となり、新たな生命を育む。
山の峠を越えようとしていた。
道は狭いがようやく平坦になった。
長い上り坂。
それがようやく終わったところであった。
一人の男が歩いている。
直垂。
その時代にそう呼ばれた着物を、その男は着ていた。
他に目立った特徴が二つあった。
その男は黒い棒を肩に担いでいた。
見ているだけで魂までも吸い込まれる。
そんな妖しい黒い色をしていた。
他に、もう一つ特徴があった。
腰に瓢箪をぶら下げていた。
朱色の瓢箪であった。
丹念に漆を施したような艶があった。
その男の名は佐伯真魚。
後に空海と呼ばれる男である。
「おい、真魚よ!」
その男の足下を、ちょこちょこと子犬が歩いている。
銀色の子犬だ。
首に妙な金色の首輪をしていた。
不思議な事にその声は、その子犬が出したものであった。
「何だ…」
この男の返事はいつも素っ気ない。
ぐうぅぅぅぅ~
音がした。
聞き慣れた音。
「嵐、お主は分かりやすい…」
真魚はそう言って笑みを浮かべた。
「だがな…もう無いぞ…」
真魚が言ったその言葉は、嵐にとっては死の宣告に近い。
「うそをつけ!」
「そこのその朱いのに、入っているであろうが!」
真魚の腰の朱い瓢箪を、子犬の嵐が見ている。
「本当にないのだ…」
「金なら少しぐらいはあるぞ…」
真魚は態とそう言って楽しんでいる様だ。
「俺は神だぞ!」
「金など何の意味も持たぬ!」
「それより食い物だ!食い物を出せ!」
嵐がそう言って、真魚の腰の瓢箪に飛びついた。
「また、覗いて見るか?」
真魚が蓋を抜く真似をした。
「お主、前も同じ事を言っただろ!」
嵐は横を向いてそれを拒否した。
「俺のこの気持ちを、誰が癒やしてくれるのだ…」
神である嵐が天を仰いだ。
「腹の間違いであろう…」
真魚がそう言って笑っていた。
その時…
くんくん
嵐が何かに反応した。
風に乗って漂ってくる臭い。
「おい、嵐!」
真魚がそう言った時、嵐は既に遠くまで走っていた。
「仕方の無い奴だ…」
真魚は呆れて笑っていた。
峠を登り切ったところで、一息入れることにしたのだろうか。
三人の親子らしき姿が見える。
父と母、そして娘のようだ。
背負うための大きな籠が三つ。
何処かに売りに行くのであろうか?
その中に沢山の作物が入っていた。
どう見ても、裕福そうには見えない。
だが、見た感じは幸せそうな家族であった。
三人は木陰で何かを食べていた。
そこに一匹の子犬が走って来た。
銀色の子犬だ。
「!」
一番最初に気づいたのは娘だ。
その方向を見て笑顔を見せた。
歳の程は十三か四であろうか…
髪が長く細身で手足が長く感じる。
小さめの切れ長の瞳と、小さめの唇が印象に残る。
肌の色が白かった。
日焼けに弱いのか、頭から布をかけ、それを防いでいる様であった。
「あんた!」
母親らしき女が、父親の肩を叩いた。
「雫…」
父親は驚きのあまり娘の名を言った。
母親も驚いていた。
娘である雫の笑顔。
それを見ただけで、二人は幸せそうであった。
「あの子が笑うなんて…」
母がそう言った。
その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。
続く…