空の宇珠 海の渦 外伝 迷いの村 その一
夕焼けが済んだ稲刈りの後を照らしている。
東の空から丸い月が昇ろうとしていた。
とある村。
蝦夷の地からさほど遠くはない山の中。
そこにその村はあった。
その村の中を、子犬を連れた男が歩いている。
銀色の子犬だ。
その男は肩に黒い棒を担いでいた。
長さは人の肩ほど、太さは一握りほどである。
漆黒、吸い込まれそうなほど黒い。
闇そのものの色であった。
薄汚れた直垂の腰に、朱い瓢箪をぶら下げている。
旅をするにしては軽装であった。
「おい!真魚!」
子犬がその男を真魚と呼んだ。
「面白い…」
男は口元に笑みを浮かべていた。
その男は佐伯真魚。
後に弘法大師、空海と呼ばれる男だ。
右手の山に灯りが見える。
山は既に薄暗い。
その中腹に灯りが固まっている。
「祭りか?」
子犬が怪しんでいる。
稲刈りの時期に神社では収穫祭が行われる。
その時に採れた作物を神に捧げる。
「変だな…」
子犬の問いかけに真魚がそう答えた。
「村中の者が集まっているのか…」
村に人気はない。
人の波動が感じられない。
その代わりに山の灯りが波動を放っている。
「祭りにしては…重い…」
真魚はその波動をそう表現した。
「おい!真魚、あれ!」
子犬がそれを捕らえた。
「!」
真魚の遙か前。
真魚の目よりも先に子犬の耳が見つけた。
一人の子供が走って来る。
「女か…」
真魚がつぶやいた。
肩に斧を担いでいる。
道を折れた。
山の方に向かっている。
女が斧を担いで走ることは尋常ではない。
それともう一つ。
殺気だ。
「嵐!」
真魚が叫ぶと子犬の廻りに竜巻が起こった。
すさまじい霊気が廻りの大気を巻き上げたのだ。
その中に人の背丈ほどもある山犬が現れた。
金と銀の縞模様。
その美しい輝きは、鋭い刃の様であった。
真魚がその嵐の背中に乗った。
乗った瞬間にその姿が消えた。
「子供か…」
真魚は薄暗い中でその姿を見極めた。
はぁはぁはぁ
息を切らせながら少女が走って来る
今にも人を殺しそうな気配。
少女が気がつくと、見知らぬ男が目の前に立っていた。
その横を走り抜けようとした。
その時…
何かに足を掬われた。
少女は斧もろとも地面に転がった。
その横に子犬の嵐が一緒に転がっていた。
「いたたったっ…」
少女が呻いた。
「痛いのはこっちだ!」
「ちゃんと前を向いて走らんか!」
子犬の嵐が少女に言った。
少女は気づかずに子犬につまずいたのだ。
だが、嵐も避けられたはずだ。
「い、犬が…喋った!」
少女の殺気が消えた。
「犬ではない俺は神だ!」
「神、だと?」
少女は一瞬驚いた様であった。
だが、神と言う言葉を聞いて殺気が戻った。
「神に言いたいことがあるのか…」
真魚が膝をついて少女を起こそうとした。
「神などこの世にいるか!」
真魚の手をふりほどいて少女は立ち上がった。
目が怒りに燃えている。
飛んでいった斧を捜している。
「殺してやる…あいつら…」
少女の憎しみの炎。
燃える瞳が山の灯りを見つめていた。
続く…