空の宇珠 海の渦 第二話
山がその存在を神として崇められていた時代。
太古からの森は深く、山の民以外は祟りを畏れ山に入ることが出来なかった。
その神に魂を取り込まれ、道に迷い戻らなかった者もいた。
それほど一般人にとって山は恐ろしい場所であった。
神を讃え崇めれば、水を生み、
木の実や山菜などの自然の恵みを与えてくれる存在でもあった。
この畏れと恵が、神として崇められていた理由の一つであろう。
しかし、その神と結界を畏れず、たった一人で山を往く男がいた。
金峯山。
かなり険しい山道であった。
山道と言っても獣道に近い。
近くには、水の流れる音がしている。
急な斜面の沢は、谷に向かって真っ直ぐに落ちる。
これを目印に進めば、必ず上に行くことが出来る。
ただ、険しい。
険しいが水の心配はいらない。
それだけが救いであった。
これから夏へと向かう木々達は、
勢いを増し鮮やかな緑を演出していた。
たった一人であるが、特徴があった。
正確には一人と一匹。
子犬を連れていた。
銀色の子犬だ。
生まれて半年もたたぬほどの大きさだ。
その男は手に一本の棒を持っていた。
漆黒。
闇そのものの黒と言っていい。
魂さえも吸い込まれてしまいそうな黒だ。
飾りなどは一切ない。
だが、ただの棒でないことは一目で見て取れる。
そして、腰には朱い瓢箪をぶら下げていた。
鮮やかな色彩で、表面には漆を施された様な艶があった。
男の着物は薄汚れ、元の色はわかりにくい。
直垂。
そう呼ばれていたこの頃の着物だ。
袖の丈が少し短い。
動きやすくするための配慮であろう。
形より機能を優先する。
それでも不自然さは感じられない。
それがこの男の持つ感覚なのだ。
漆黒の棒と朱色の瓢箪。
山に挑むには非常に軽装であった。
「おい、真魚よう」
真魚というのはその男の名前だ。
不思議なことに、その声は男の足下から聞こえてきた。
聞こえたと言うよりは、男の意識に直接話かけてくるようだ。
「おい真魚!」
犬だ、子犬がしゃべっている。
「聞こえておるなら返事をせんか!」
「ここら辺りで少し休まんか?」
子犬とは似つかわしくない野太い声だ。
「心配するな。俺は大丈夫だ」
真魚の答えはいつも素っ気ない。
「ほんとにそうか~」
「先ほどから見ておるとかなり辛そうじゃぞ?」
子犬が挑発するように尋ねる。
「大丈夫だ…」
真魚が答える。
「だいたいその棒じゃ」
「どうしてその重い棒をわざわざ担いでこの山に登らんといかんのじゃ」
「そこのそれに入れておけば良かろう?」
子犬が問題を提起している。
「俺のためだ…強いては貴様のためかもしれんな…」
真魚が答える。
「普通の人間なら持ち上げることすらままならぬ…」
「その重た~い棒をじゃなぁ~」
「担いだままでこの険しい山道を登るということは、自殺行為じゃな」
子犬は更に追い打ちをかけた。
「うるさい!だまってろ!」
真魚は珍しく感情をみせた。
「好きにすればええ!」
「俺は腹が減ったのだ!」
子犬は本音を言った。
「最初から正直にそう言えば良かろう…」
真魚がにやりと微笑んだ。
「だがな、残念なことにもう食い物はない」
真魚はきっぱりと言った。
「貴様こそ正直に言え!」
「ここに来る前、町であんなに買い物をしたではないか?」
「食い物だってたくさん買っていたではないか?」
「そこのそれに入っているんだろう?」
そこのそれとは、腰にぶら下げられている瓢箪のことであろうか。
「いつものように、にゅ~と出してくれや!」
子犬が懇願した。
子犬のくせに食い意地だけは大人なのだ。
「今日の分はもう食ったはずだ…」
真魚が過去の事実を述べる。
「あれだけ?今日の分はあれだけか?」
子犬が確認するように尋ねる。
「人の3日分はあったぞ」
真魚はその事実を確認した。
「俺は神だぞ!こう見えても神だ!」
「あれだけで足りる訳がなかろう!!!」
自分が正しいとでも言いたげだ。
「どんなに食べても無駄だ…」
「貴様の空腹は満たされることはない…」
神がどれだけ食べようが、真魚には関係が無い。
だが、真魚にはわかっていた。
「魂や物の怪を食らう貴様が、ただの食い物で満たされるはずがなかろう」
「ちぃ!知っておったか!」
「だがな、俺が食らえる物は、この辺りにはおるまい…」
子犬は残念そうに言った。
「それが、そうとも言えんぞ!」
真魚は小声だがはっきりそう言った。
「い!いるのか!」
「ど、どこじゃ!」
子犬は興奮し辺りを見渡した。
「あ~あ、暇じゃなぁ~」
「紅牙の奴、面白い物が来るから待っておれと言っておったが…」
「昔なら町に行って人をたぶらかしておったが…その程度ではおもろないしなぁ…」
「あ~あ、小角様と飛び回っていた頃が懐かしいわ…」
木の上であった。
周りの木よりもひときわ高い木の天辺あたりだ。
人の形をした物が辺りをうかがっていた。
「おい、これ、媼さん何か見えたか?」
二つの人影が見える。
一人は媼さんと呼ばれておるが、年寄りがこんな高い木の上に登れるはずがない。
「んにゃ、何も見えんけど」
「ただなぁ~なんというか、どう言うていいか・・・」
媼さんと呼ばれた人影は言葉が出てこないようだ。
「はっきりしゃべらんか!」
もう一人は男のようだ。
「ん~なんというか懐かしい様な、清々しいようなそんな・・・」
まだ言葉が出てこない。
「はよ、思い出せ!」
「そうや!」
「お、思い出したか!」
男の方は気が短い。
「小角様や!この感じは小角様や!」
媼さんと呼ばれていた方が答えた。
「お、小角様~。」
「なんで小角様がこんな所におるんや!」
短気な男の方は思いもよらぬ答えに戸惑った。
「せやかてこの感じ、懐かしい。あんたにもわかるやろ?」
媼さんの方が言った。
「ま、まさか!」
短気な男も感じたようだ。
「小角様が生きて・・・おられる・・・」
役小角。
通称、役行者と呼ばれ、修験道の開祖とされている。
六三四年(舒明天皇六年)~七〇六年(慶雲三年)
飛鳥時代から奈良時代の呪術者である。
姓は君。
実在の人物であるが、伝えられる人物像は後の伝説による。
「や、や、ちょっと違うぞ!」
短気な男の方が、何かに気づいたようだ。
「ほんに、そう言われると…少し違うかも…」
媼さんの方も感じたようだ。
「しかし、似ている…この感じ…」
短気な男は驚いていた。
「ほんに!ほんに!」
媼さんの方は喜んでいた。
「紅牙の奴、このことを言っておったのか!」
短気な男は、ようやく気づいた様である。
「ほんに!ほんに!」
「面白い!これは、面白い!」
「何か久々にわくわくしてきたぞ!」
短気な男は姿の見えぬそのものに、役小角との思い出を重ねていた。
「知らぬふりをしておけ」
真魚が嵐に言った。
「ふ~んあそこか、あそこの木の上じゃな」
嵐はもうたまらない。
「少し厄介な相手かも知れん」
真魚は相手の力量まで計っていた。
「俺に任せておけ」
嵐が自信ありげに言う。
「相手は二人だぞ」
真魚は嵐をたしなめる。
「お主がおるではないか?」
嵐は真魚にそれとなく荷担を勧める。
「面白いとは思うのだが・・・」
真魚の動きが止まった。
「だがなんじゃ」
嵐は話の続きを求めた。
「お、俺は・・・」
バタン
そこまで言いかけたところで真魚は倒れてしまった。
「お、おい、真魚、おっ、俺をこのままの姿で!」
嵐の悲痛な叫びが空しく響いていた。
「おや?」
気の短い男の方が異変を感じ取った。
「あら?」
媼さんの方も気づいたようだ。
「どうしたものかのう」
気の短い男の方が言った。
「どうしたものかのう」
媼さんの方が言った。
「あのまま放っておくのもなんじゃな」
気の短い男の方が決断する。
「そうですな」
媼さんの方がその決断に従った。
二人はそう言うと、木の上から飛んだ。
周りの枝を巧みに利用し、地上に降りた。
「やばいぞ!どうすればよいのじゃ!」
嵐は慌てふためいた。
「おい!真魚!起きんか!」
何を思ったか嵐は瓢箪の蓋をとろうとしている。
「この手では無理じゃ~」
子犬の嵐を絶望が包み込む。
犬の手で瓢箪の栓を抜くなど、初めから無理な話である。
そうこうしている内に二人が近寄ってきた。
鬼であった。
一方は赤鬼。
もう一方は青鬼であった。
「これは重症じゃな」
気の短い男の方が言う。
赤鬼だ。
見ただけで倒れている真魚の状態を把握している。
見ると言うより感じていると言う方が正しいだろう。
「ほんに、よくぞここまで耐えたもんじゃ」
媼さんと呼ばれていたのは青鬼だ。
嵐は子犬になりきっていた。
できるだけかわいく振る舞おうとしていた。
「ほほほ、かわいい子犬だこと、喰らってしまおうか…」
媼さんが嵐をにらみつけた。
完全に見破られているようだ。
嵐はしかたなく倒れている真魚の脇腹に、鼻を埋めるようにして隠れた。
「ちょっくら楽しもうと思っとったが、これでは無理だな・・・」
赤鬼が残念そうに言った。
「媼さんや、水を飲ましてやれ」
赤鬼が青鬼に向かってそう言った。
「まあ、しょうがないな」
そう言って持っていた水甁の水を、倒れている真魚に飲ませた。
ゴクリ。
真魚は一口飲んだ。
「うっ…」
真魚が目を覚ました。
「お主らは?」
真魚がその身を起こした。
「あんまり無理をするもんやないよ」
青鬼の媼さんがいった。
「俺は、やらんと気の済まない質でな…」
相手が鬼であるということに、真魚は驚きさえ見せない。
恐らく遠い意識の中でも何かを感じ取っていたのであろう。
「変な所まで、小角様に似ておるなぁ」
子犬の嵐と遊びながら、赤鬼が言った。
「ほんに、これも何かの縁じゃろか?」
青鬼の媼さんが言う。
「役小角のことか…?」
「そうか!主らは前鬼と後鬼か!」
真魚は全てを理解したようだ。
「そうじゃ、儂らは役小角様に仕えた前鬼と後鬼じゃ!」
前鬼は名を知っているこの男に驚いている。
「お主の名は何というのじゃ?」
青鬼媼さんが尋ねた。
「俺は佐伯真魚だ」
「お、お主が佐伯真魚殿か!」
赤鬼が驚いた様に言う。
「俺を知っているのか?」
真魚も少し驚いた様だ。
「興味を持っているのは、こちらの世界だけではないぞ」
媼さんが楽しそうに答えた。
「すまない…おかげで戻った様だ、礼を言う」
そう言うと真魚は何事もなかったように立ち上がった。
「ほう」
真魚は回復の早さに驚いていた。
全快と言っても良かった。
「媼さんの水もたまには役に立つな」
赤鬼の前鬼がからかう。
「たまにはとはなんじゃ!」
「この理水に何度助けられたと思うておるのじゃ!」
媼さんの後鬼がとがめた。
「そんなこともあったかな?」
都合の悪いことは忘れたふりをする。
だが、これも後鬼には通用しない。
「それはそうとこの子犬、ただの子犬ではないな…」
前鬼が真魚に向かって言った。
すでに中身の事を感じ取っている。
前鬼の感覚が並では無いことがわかる。
「俺の連れのものが中におる」
真魚はあっさりと答えた。
びくり!
驚いているのは子犬のままの嵐である。
「しかも、かなりの霊力じゃ」
そう言いながら、後鬼は中身を探るようなそぶりを見せた。
「やはりな・・・」
大体のことは掴めたらしい。
「お主、兄弟がおるじゃろ」
子犬の嵐に向かってそう尋ねた。
「なぜそんなことがわかる」
今まで無邪気な子犬のふりをしていた嵐が、口を開いた。
「やはりそうか」
後鬼は確信を得た。
「お主と同じ臭いのする獣を知っておる」
後鬼は続けた。
「その昔、小角様を守るために我らは同志として戦ったことがある」
「結局、小角様は母君を人質に取られ、わざと囚われの身となってしまわれた…」
「確か青嵐とか言っておった」
後鬼はそう言った。
「兄者じゃ」
嵐は遠い記憶を語るように言った。
「兄と言っても双子の兄じゃ」
「我らは天と地、陰と陽、対極と言っても良い」
「元々我らは一つじゃ」
嵐が淡々と答えた。
「その話は初耳やな」
真魚が話に割って入った。
「お主に言うほどのことでもないと思ってな」
嵐は真魚に言った。
「なかなか面白い話ではないか」
「双子の兄がいたとはな」
真魚はその視線の先にある何かを、見据えて言っているようだ。
「それよりも・・・」
「!」
「!」
一瞬、皆動きを止めた。
ポン!
真魚は嵐の背中を軽く叩いた。
その瞬間。
嵐の目が輝いた。
金色に…
そして、躰が輝いていく。
銀色に…
それと同時に躰が大きくなっていく。
溢れるエネルギー。
躰が大きくなるにつれ、膨れあがっていく。
そのエネルギーで空間が歪んで見える。
真魚の背丈と同じくらいになった時、それは収まった。
「ほ~大したもんじゃな」
前鬼が感嘆の声を上げた。
「ほんに青嵐そっくりじゃ」
後鬼がいう。
「真魚、遅いわ!」
嵐は真魚に愚痴った。
「やっと飯だな」
そう真魚が言ったとき、それは起こった。
突然、目の前の空間に…
人の背丈ほどの丸い穴が開いた。
闇の穴だ。
その穴は生きものの様にうねりながら、そこにとどまっていた。
「来るぞ!」
真魚が皆に言った。
嵐はぺろりと舌で口元を舐めた。
「ほ~い」
前鬼はわくわくしていた。
「ほどほどにしときや!」
後鬼は前鬼をたしなめた。
闇が揺らめいた。
その瞬間。
どおぉぉぉ~!!!!
闇から黒い何かが吹き出した。
それは止めどなくあふれ出してきた。
かなりの量である。
黒い何かはだんだんと形を取り始める。
蜘蛛の様でもあり…
百足のようでもあり…
蛇やその他の動物の様でもあった。
元々それらに形など存在しない。
見る側のイメージが形を決める。
禍々しい恐怖が詰まっていれば、見る側の恐怖が反映され形を作り出す。
見た者の心の弱い部分が如実に形となるのである。
見る側の一番恐ろしいもの…
それは真の恐怖そのものである。
そんな固まりが寄り集まり、うじゃうじゃと蠢いていた。
閃光が奔った。
嵐が動いたのだ。
速い!
この世界のものでは捕らえることすら出来ない。
光そのものと言っても良い。
「お主は人気ものじゃな!」
前鬼がそう言って楽しそうに斧を振り回していた。
真魚は棒を地面に立てたままであった。
棒を立てて持ち、ただそれらを見つめていた。
目をそらすことはない。
ただ、笑っていた。
真魚だけが笑っていた。
「あちらからもお出迎えとはなぁ~」
媼さんの後鬼はあきれていた。
嵐は食っていた。
出てくるものを片っ端から食っていた。
ただ、その量が多すぎる。
神本来の姿に戻った嵐であっても、その量をもてあましていた。
前鬼は斧でそれらを切り刻んだ。
今までの鬱憤を晴らすかの様に楽しそうに斧を振っていた。
「みんながんばれ~」
媼さんの後鬼はひたすら後方支援のようだ。
嵐はまだ食っていた。
どれだけ食ったら気が済むのか…
しかし、その勢いも翳りを見せ始めていた。
真魚が不敵な笑みを浮かべながら口を開いた。
「嵐、満腹か?」
そう言うと、棒を左手に持ち、目の前まで持ち上げた。
右手で手刀印を組み呪を唱えた。
「東の碧き神よ!我にその力を見せよ!」
ブーン
棒が震えた。
その振動が大気を伝わり、場を作って行く。
碧い光の粒がその周りにまとわりついていく。
どんどん大きくなる。
それが真魚と同じぐらいの大きさになったとき、揺らめいた。
揺らぎながら形を取り始める。
エネルギーが溢れていく。
棒は青白く輝きだした。
碧い光はやがて形を留めた。
「ほ~これは見事じゃ!」
前鬼は賞讃の声を上げた。
龍の顔であった。
青龍だ。
青龍が口を開け、金属同士がぶつかった様な甲高い音で咆吼した。
「ぎゃい~~ん!」
その波動が周りの空間を震わせる。
咆吼と同時に青龍は天に向かって飛び上がった。
天空で一回転した青龍が真魚の頭上で浮遊している。
蠢く禍々しいものたちは青龍を見て動きを止めた。
次に何かが起こる。
真魚は棒を両手で持った。
「征け!」
そう言うと真魚は棒を振り下ろした。
碧き龍は鋭利なアギトを開けたまま、光の固まりとなって闇に向かって飛び込んでいった。
前鬼と嵐は慌ててその場を飛び退いた。
「こ、こら!真魚!」
嵐が叫ぶ。
「ひえ~わしらを殺す気か!」
後鬼も叫ぶ。
禍々しいモノたちの真ん中に大きな口を開けて碧い龍は飛び込んだ。
そのもの達は為す術もなく龍に取り込まれていった。
悲鳴とも叫びとも呼べる音が響き渡る。
龍の躰が輝きを増す。
その光が元に戻ると同時に龍は穴から首を抜いた。
顔を真魚達に向け咆吼した。
真魚が呪を唱えた。
一瞬、龍の躰が光った。
やがて、光の粒となり真魚の棒の中に吸い込まれていった。
そして静寂が訪れる。
最初に口を開いたのは前鬼であった。
「お主…面白いものを持っておるな…」
前鬼は真魚の棒を見ながら言った。
「長い間生きておるが、初めて見るものじゃ」
後鬼も感心していた。
「真魚殿、わかっておると思うが今のは使い神じゃ」
「しかも、その主はそんじょそこらの奴ではない」
前鬼は真魚に言った。
「ああ」
真魚は理解していた。
「しかし、この金峯山に穴を開けるとは・・・」
「お主の選んだ道は・・・」
前鬼が言いかけて止めた。
真魚はただ笑っていた。
「お主は…面白い…」
前鬼が微笑み、言った。
「お主なら出来るかもしれん」
後鬼が言った。
「小角様が果たせなかった世界…」
いや、お主しかいない。
前鬼と後鬼は確信していた。
前鬼と後鬼に案内されて真魚達は目的の場所に向かった。
足下を子犬に戻った嵐がちょこちょこと歩いている。
前鬼が歩きながら言った。
「そうか紅牙を知っておったか」
「そう言えば昔、変な小僧を見かけたことがあったが、あれがお主とはな」
前鬼は思い出していた。
「こんな所にくる子供はよほどの変わり者じゃ」
後鬼は笑いながらそう言った。
真魚は黙っていた。
ただ黙っていたのではない。
役小角のことを考えていた。
役の行者が作ろうとした世界。
自分が作りたいと思う宇宙。
人が支配していると思っているこの世界。
釈尊やキリストが出現しても何も変わりはしない。
大いなる苦による輪廻が存在している。
支配者や宗教者はその世界観を作り上げ、真実をねじ曲げた。
そして、それを存続させるために罪のない人までも利用した。
なぜ人は苦しむのか?
肉体を持っているからか?
欲にまみれているからか?
のうのうと暮らす貴族達にも苦しみがある。
食うに困らず、着るものに困らず・・・。
釈尊が説いた「苦」は我が身から生じると言うことはわかる。
だが、民衆は生きることで精一杯だ。
それを分かれと言うのは難しい。
だが、懸命に生きる人々の輝きを絶えさしてはならぬ。
そのためには…
「おい、真魚」
嵐が話しかけてきた。
「おい、真魚!」
「何だ」
真魚は素っ気なく答える。
「なんかおかしくないか?」
嵐が何かを感じたようである。
「!」
「着いたようだな」
前鬼が言った。
「結界だ」
「これはかなり強力な仕掛けのようだな…」
真魚は全てを見抜いていた。
「分からぬものは…」
「この周りを永遠に彷徨い続けるだろう…て」
「しかも、その霊力が強ければ強いほどなぁ~」
後鬼がそのものに心当たりがあるように、嵐を見ながら言った。
「よかったな嵐、俺達が一緒で」
真魚は嵐の心情を逆撫でするように言った。
「うるさいわ!俺だって知っておったわ!」
嵐が負け惜しみを言う。
そこは頂上に近い場所であった。
強力に張り巡らされた結界。
原生林。
そのどれもが人の進入を拒んでいた。
案内なしではたどり着くことなど不可能な場所であった。
だが、そんな場所にそれらは建っていた。
鳥居をくぐるとそこは異次元の空間であった。
「ほう・・・」
真魚が思わず声を出した。
幾つかの建物が立ち並んでいる。
こんな山奥にこのようなものがある。
その事実に真魚は感嘆したのである。
前鬼と後鬼の姿はいつの間にか消えていた。
「あやつら俺らを放って行ってしまいおったわ」
嵐が子犬の姿には似つかわしくない野太い声で言った。
「どこかに行ってしまった訳でもあるまい」
真魚にはその行き先が分かっていた。
しばらくすると再び前鬼と後鬼が現れた。
その後ろに一人の男が立っていた。
真魚よりは五つほど年上に見える。
目は切れ長で、端正な顔立ちをしている。
女と言われれば、そうかと思う。
美しさと切れ味の鋭い刃物の様な、相反する要素を兼ね備えていた。
長い髪を後ろで束ね、修験者の格好をしていた。
「よく来たな」
その男は真魚のことを知っているようだ。
「それにしても、しばらく見ないうちに逞しくなったな」
その言葉には親しみが含まれている。
「久しぶりだな、紅牙」
真魚は相変わらず素っ気ない。
「前鬼達に聞いた、少々歓迎を受けた様だな」
紅牙は少々という言葉で状況を濁した。
「それで紅牙、俺に何の用だ」
真魚は単刀直入に尋ねた。
「相変わらず気の早い奴だな、真魚」
「そう慌てるな、しばらくゆっくりしてゆけばよい」
紅牙は何か思う所があるらしい。
「しばらく見ないうちにここも変わった…」
真魚は昔見た記憶を辿っていた。
「役小角様の念の波動が残っている」
紅牙は辺りを見ながらそう言った。
「小角の念…すると紅牙、これは小角が描いた配置か?」
真魚は建物の配置のことを言っているらしい。
「そうだ、それに書を残されておった」
紅牙は微笑みながら真魚に言った。
「書が…、紅牙、まさかそれを俺に…」
真魚は興奮していた。
役小角が描いた世界が目の前にある。
「それだけではないぞ!」
紅牙は真魚を挑発するように言った。
「他にもあるのか?」
真魚は驚いた。
なぜこの俺に…
なぜこの時期に…
期待と疑問が押し寄せてくる。
『お主の道は決まっておる』
師の言葉が響く…
「見たいか?」
紅牙は意地悪く尋ねる。
「決まってるだろ」
真魚は素直に言えない性格らしい。
「ふっ!変わらんなその性格」
紅牙は真魚の反応に満足したようだ。
「悪い、悪い、少々意地が悪かったな」
「お前の本心を知りたかったものでな」
紅牙は真魚に詫びた。
「お前こそ、その疑り深い性格は直らんか」
真魚はばつが悪そうに言った。
「とりあえず本尊に挨拶してからだ」
紅牙が蔵王堂に案内をした。
ここには本尊として三躯の蔵王権現が祀られていた。
一行は蔵王堂に入って行った。
「ほう」
真魚が口を開いた。
「いるではないか」
何がいるのか?
「だから案内したのだ。お前に用があるのではないか?」
紅牙が、真魚に言った。
「俺にか?」
真魚が仕方なしに蔵王権現に向かう。
三体の内の一番左端の像の前で止まった。
目を瞑って合掌し像と向き合う。
金色の光が幕となって舞い降りてきた。
しばらくそのまま動くことはなかった。
真魚の瞳が開いた。
真魚は一礼し、一言つぶやいた。
「そういうことか…」
「だろう?」
紅牙が真魚に確認した。
「ああ、そう言うことだ」
真魚は素っ気なく言う。
「もう帰ったようだな」
紅牙は現状を把握しているようだ。
「紅牙よ」
不意に真魚は紅牙に尋ねた。
「ここの結界は完璧か?」
「そのはずだが・・・」
そう言いながらも紅牙は辺りの気配を伺っていた。
「入る者に取り憑いたりしない限りは、入れないはず…」
紅牙はそれとなく真魚に伝えるべきことを伝えた。
「そういうことか…」
真魚は空中の何もない一点を見つめていた。
棒を構える。
この時点でこれから起こるであろう出来事を疑う者は誰一人としていなかった。
「嵐!」
真魚が呼ぶ。
子犬の嵐が飛んだ。
その背中を真魚の手が叩く。
嵐の目が金色に輝いた。
躰から銀色の光が溢れ出す。
それと同時に躰が大きくなっていく。
「ほう、これは!」
紅牙が思わず声を上げた。
本堂の入り口部分。
空間に異変が起きた。
黒い陽炎のようにぽっかりと人の大きさぐらいの穴が開いた。
「まさか!ここに来るとはな!」
紅牙が叫ぶ。
「来るぞ!」
真魚が言った。
突然、その中から槍のようなものが飛んできた。
全員かろうじてよけることが出来た。
柱の一本が大きくえぐられていた。
第二波が来た。
大きな黒い蟹の爪が出た。
その爪めがけて嵐が奔った。
外側から爪にかみついた。
爪が嵐を振り払おうと大きく動いた。
「嵐!気を付けろ!」
真魚が叫んだ。
今度は槍の様なものが嵐をめがけて飛んできた。
それを嵐は難なくよける。
「なかなかやるのう」
前鬼は嵐の動きに感動している。
「媼さん、前の奴らよりこれはすごいぞ!」
前鬼が言う。
「儂らにはちと荷が重いかのう」
後鬼が前鬼に言った。
「何を言う、見ておれ!」
「無理は禁物じゃぞ!」
後鬼が前鬼をたしなめる。
前鬼が行こうとした時、突然穴が大きくなった。
「おおっ!」
前鬼はとどまった。
出てくるものの波動に押されたのだ。
「皆下がれ!」
紅牙が叫んだ。
どぉぉぉお~!!!
巨大な本体が姿を見せた。
それは蟹とも蠍とも言えた。
大きな鋏、堅い甲羅の様なもので覆われた躰を持ち、
棘の様なものが付いた尻尾が二対存在した。
その躰は本堂の入り口を完全に塞いでいた。
「面白い!」
真魚は笑っていた。
後ろに蔵王権現を三躯従え、不適な笑みでそれらを睨み付けた。
「本堂に堂々と入って来るとはええ度胸やな」
後鬼がいう。
「ここをどこだと思っている」
「なぁ紅牙」
真魚は紅牙に言った。
「本堂を壊されて、黙っていることもなかろう」
そう言うと紅牙は懐から何かを取り出した。
法具の三鈷杵のようだ。
しかし、微妙に形状が違っていた。
紅牙は右手を伸ばし胸の前で三鈷杵を構えた。
左手で手刀印を組み真言を唱える。
「オン・マユラ・キランディ・ソワカ」
孔雀明王の真言である。
役小角が使ったと言われている孔雀明王呪。
紅牙が使えても不思議ではない。
唱え終わると同時に三鈷杵が輝き始めた。
赤い光の粒が三鈷杵に集まっていく。
両端に三本ある刃の間から赤い炎が吹き出した。
だがそれはこの世の炎ではない。
その瞬間、真魚の持っている棒に変化が現れた。
「ほう」
真魚は紅牙の言葉を思い出した。
『それだけではないぞ』
「そう言うことか!紅牙!」
真魚は全てを理解した。
紅牙の三鈷杵は赤い炎の刃と化した。
「行くぞ!」
紅牙が奔る。
美しい。
この男は実に美しい。
儚い美しさの中に、鋭い刃の危険さを併せ持つ。
究極の美が存在する。
そして、その姿は赤い刃そのものとなる。
紅牙の刃が足らしきものを切断する。
それを嵐が食らう。
紅牙の腕も大したものだが、さすがに嵐の速さには及ばない。
食べ損なったものは前鬼が斧で刻んでいた。
だが、切断された場所もしばらくすると再生してしまう。
「これでは鼬ごっこだな」
紅牙が打開策を模索していた。
真魚は戸惑っていた。
棒の共鳴が収まらないのだ。
「こんなところで、青龍を使っても良いのか?」
「しかし、この感じ…」
真魚は何かを感じ取っていた。
「とりあえずやってみるか」
そう言うと、真魚は棒を左手で持ち右手で手刀印を結んだ。
棒を胸の前にして呪を唱えた。
棒が光り始め、振動する。
碧い光が包んでいく。
溢れるエネルギーで空気が膨張していく。
そのエネルギーの波動が場を形成する。
そして、龍の顔が現れた。
青龍だ。
青龍の咆吼が大気を震わす。
「征け!」
放たれた龍は一直線にそのものに飛び込んでいった。
碧い光はそのものを浄化し分解していくはずであった。
しかし、一向に変化はなかった。
そのうちに青龍の力が弱まって来た。
「前の奴らは咬ませ犬か!」
結界を破るきっかけを作り、こちらの力を探る。
「同じ手は通用しないと言うことやな」
「戻れ!」
真魚は次の手を考える。
龍は光を失いながら棒の中へ戻っていった。
「やはり・・・」
真魚は感じていた。
『この共鳴共振はあの時と同じ・・・』
ふと、後ろを振り向いた。
祭壇に法具が見えた。
「まさか!」
真魚は気づいた。
「紅牙!この三鈷杵はお前の持っているものと同じか?」
蔵王権現の祭壇の前。
三躯の蔵王権現の前にそれぞれに同じ法具が祀られていた。
真魚は紅牙に確認した。
「そうだ!なぜそんなことが分かる?」
紅牙は戦いながら答えた。
「俺のも含めて全部で四つだ!」
紅牙の答えを真魚は歓迎した。
「それならば話が早い!」
「嵐、前鬼これを持て!」
そう言うと祭壇に祀られてあった三鈷杵を前鬼と嵐に投げた。
嵐は口でくわえた。
「持っているだけでよい!」
残りの一つは真魚が持った。
持った瞬間、真魚は自分の考えが正しいことを確信した。
「紅牙、嵐、前鬼、そいつの周りを囲んでくれ」
「一体何をするつもりじゃ」
後鬼が端の方でつぶやく。
その三鈷杵には赤い宝珠が埋め込まれていた。
真魚は三鈷杵を棒に近づけた。
ぶ~んと振動する。
「やはりそうか!」
真魚は、三鈷杵の宝珠の部分を棒に付けた。
棒が赤く輝きだした。
三鈷杵を離すと、そこにはもう宝珠はなかった。
真魚は三躯の蔵王権現の前に立った。
そして、棒を右手で構え、左手で手刀印を結んだ。
「オン・バキリュウ・ソワカ」
真魚は蔵王権現の真言を唱えた。
「真魚、お前まさか!」
紅牙は真魚がやろうとしていることが分かっているらしい。
その瞬間、三躯の蔵王権現が燃えた。
その炎が真魚の棒に絡みつく。
紅牙、嵐、前鬼の三鈷杵も燃えていた。
三つの三鈷杵から溢れる炎が輪となってそのものを取り囲む。
炎の輪がそのものの動きを止めていた。
「我を守護する蔵王権現よ!その力、我に託せ!」
呪を唱えると炎は更に燃えた。
この世の炎ではない炎を纏い、蔵王権現を従えた姿。
それは神そのものであった。
炎は巨大な鳥へと形を変えた。
「征け!」
真魚が棒を振り下ろすと、炎の鳥はそのものに向かって行った。
どぉおおおおおん!!!
轟音を上げて炎が舞い上がる。
動きを封じられたそのものは為す術もなかった。
「す、すごい!」
紅牙が息を飲む。
炎に共鳴し三鈷杵が荒れ狂うように振動した。
炎を纏った怪鳥は、更に勢いを増す。
その口からは紅蓮の炎が吹き出され、禍々しいモノたちを縛り付けていた。
「これを持つ方の身のことも考えてくれんかなぁ」
三鈷杵を持っている前鬼がぼやく。
「真魚、覚えておれよ!」
嵐は口に三鈷杵を咥えながら、必死に耐えていた。
だが、真魚は笑っていた。
不敵な笑みを浮かべ、ただ笑っていた。
更に真魚は青龍を呼び出した。
碧い光が真魚を包んでいく。
「な、何じゃ!せ、青龍の力が!」
後鬼は端の方で震えていた。
青龍の溢れるエネルギーの量が以前と違う。
倍になったと言っても過言ではない。
「もし、あの炎で自分が焼かれたら…」
「もし、あの青龍に飲み込まれたら…」
そんなことを考えていたのかも知れない。
「予定通りだ!」
真魚はそう言うと青龍を放った。
「征け!」
勢いを増した炎に、碧い光となって飛び込んでいった。
ぐぉおおおおお~
そのものは悲鳴とも叫びともつかぬうなり声を上げた。
舞い上がる炎を青龍のエネルギーが浄化していく。
やがてそれらは灰となり砕け散った。
何もない空間を見つめる時が過ぎる。
どれくらいの時間が過ぎたのか。
「終わったな」
紅牙が言った。
「ああ」
真魚が答えた。
「こら!真魚のあほんだら!」
嵐が真魚に向かって言った。
「何だ」
真魚が答える。
「あのなぁ、あの炎はもの凄くやばいぞ!」
嵐は真剣に怒っていた。
「俺は肉体が消滅するかと思ったぞ!」
「生きておるではないか」
真魚は事実を言った。
「結果が良ければ良いというものではない!」
「少しは持つ方のことも考えてもらわんと、身が持たん!」
嵐の怒りは収まらない。
「では、どうすればよかったのだ」
真魚は嵐にやんわりと言った。
「それはだなぁ~」
嵐は困った。
「それは?」
真魚が追い詰める。
「もうよい!次からは頼むぞ!」
そう言って嵐は尻を向けた。
皆は笑っていた。
嵐は真魚のことを少し見直した。
畏さえも持ち始めていた。
神を使いこなせる選ばれし者かも知れない。
そう感じずにはいられない事実が存在した。
「面白いものを見せてもらったよ」
入り口に人影が見えた。
「老師!」
紅牙はその老人のことをそう呼んだ。
「じいさんか」
真魚も知っているらしい。
「真魚よ、お主らが派手にやるのはいいが、その法具はもう使い物になるまい。」
老師は紅牙達が持っている法具を見て言った。
突然、真魚が膝をついた。
「真魚!」
紅牙が真魚に駆け寄った。
ポタッ。
真魚の下に赤い染みが広がった。
真魚の鼻から大量の血がしたたり落ちた。
「大丈夫・・・だ」
その言葉を残して真魚は意識を失った。
「やれやれ、まだまだ修行が足りんようじゃな」
老師はそう言った。
しかし、本心はそうではなかった。
無名の沙門がこれほどの術を使いこなせることに、驚異を感じていた。
「紅牙、真魚を休ませてやれ」
老師はそう言うと、本尊の蔵王権現を見た。
憤怒の顔が一瞬ゆるんだ様に見えた。
「光が来ましたな、小角様…」
老師は心の中で役小角にそう語りかけた。
いまだ頭上で荒れ狂っている禍々しい怪鳥。
真魚たちを守護している青龍。
それらは互いに赤と黒の炎を吹きながら牽制しあっている。
真魚のやるべきことはまだ残されたままであった。
真魚は一晩中目覚めることはなかった。
明け方、日が昇ると目が覚めた。
同時に異変に気がついた。
『大気がざわついている』
急いで外に出た。
召喚した炎の怪鳥朱雀と青龍が互いに牽制しながら空を占領していた。
「しまった…」
呼び出した青龍と朱雀をそのままにして、
真魚は気を失ってしまったのだ。
互いの霊力を使い果たし、朱雀と青龍は抜け殻のようになっていた。
真魚は急いで棒を捜した。
「そうか、昨日のままか・・・」
気を失った時にその場に置いたままであった。
「俺以外に動かせぬか・・・」
真魚は直ぐに蔵王堂に向かった。
棒は直ぐに見つかった。
急いで棒を持つ。
印を組み呪を唱えた。
朱雀と青龍は赤と青の光の粒となり棒に吸い込まれた。
その瞬間、棒は赤と青のまぶしい光を放ち振動した。
そして、更に重くなった。
真魚は思わず膝をつきそうになった。
「やれやれ・・・」
真魚は不適な笑みを浮かべた。
真魚は境内を散策していた。
寺院の朝は早い。
既に修行の者が掃除を始めていた。
朝日が心地良かった。
「小角の思い…」
役小角は何をしたかったのか。
歩きながら真魚は考えていた。
微かに残る念の波動から、情報を整理していく。
真魚の意識にそれが映像となって再生されていく。
「もう大丈夫の様だな」
「青龍と朱雀もほっとしているな」
紅牙が姿を見せた。
「嫌みか」
真魚は笑った。
「それにしても驚いたぞ」
紅牙が昨日の出来事をそう言った。
真魚は微笑んでいた。
「まさか蔵王権現を召喚するとはな」
紅牙は真魚に向かって言った。
「そうしろと言ったのはお前だろ」
真魚は紅牙に責任をなすりつける。
「まぁ、解釈の違いやな」
「そして、あれだけの事をして、今ここに立っていられるんだな、お前は…」
紅牙は笑った。
「それに・・・」
「あの棒は何だ」
「お前が気を失ってから運ぼうとしたが、どうにもならんかった」
「力ではあの棒は持てない。コツがある」
「お前なら持つぐらいはできる…」
真魚が笑って答える。
「お前はあれを担いでこの山を登ってきたのか?」
紅牙は真魚に尋ねた。
「そうだ」
真魚は素っ気なく答える。
「決めたのだな」
紅牙はそう表現した。
「決めた」
真魚はそう答えた。
紅牙は真魚を見た。
「覚悟ができたのだな」
『本当にお前という奴は…』
真魚は空を見ていた。
青い空に浮かぶ雲が形を変えながら浮かんでいた。
「雲には形があるが、とどまることはない」
「俺も同じだ」
真魚は空の雲をを見つめながらそう言った。
朝の陽が真魚を包む。
男の顔がそこにあった。
真魚は紅牙と共に歩いていた。
書院に向かう途中であった。
そこに子犬の嵐が駆け寄ってきた。
「新しい事実が判明した」
子犬の嵐は不機嫌であった。
「何がだ」
真魚は素っ気ない。
「お主が気を失うとだな、俺も子犬に戻ってしまうという事実だ」
嵐は残念そうだ。
「当たり前だろ」
真魚は何を今更と言いたげだ。
「では、お主と俺は運命共同体ではないか!」
嵐は真魚に不満をぶつけた。
「いけないのか」
真魚は言う。
「だったら俺は、お主から永遠に離れられないのか?」
嵐は不満げだ。
「そうとは限らん、今はそうというだけだ」
真魚はあっさり言う。
「ふ~ん…」
嵐は黙り込んだ。
紅牙は笑っていた。
「青嵐をさがすことだ」
真魚は嵐に道を示した。
「あ、兄者か?」
嵐は驚いた。
「お主達は元は一つであったのであろう?」
真魚は導くように嵐に問う。
「…、…。…!」
「そ、そうか!兄者か!」
嵐は納得したようだ。
「そ~か~兄者か~♪」
嵐の機嫌が直ったようだ。
飛び跳ねてどこかに行ってしまった。
「お前は面白い奴だな」
一部始終を見ていた紅牙が、笑いながら言った。
「俺は面白くない」
「見ているお主が面白いと思っただけであろう」
真魚が事実を言った。
「それもそうだ!」
紅牙はそんな自分に笑った。
書院には様々な書物があった。
真魚が今まで見たことのないものも多くあった。
こんな山奥にもこれだけのものが存在する。
真魚は驚きを隠せなかった。
「これを全部見ても良いのか?」
真魚は興奮していた。
雑密と呼ばれている修験道の秘術も沢山あるはずだ。
それを門外漢である真魚に全て見せると言うのだ。
「本当に良いのか?」
真魚は紅牙に確認した。
「老師が良いと言っているのだ」
「お前も知りたいことがあるだろう」
紅牙は更に真魚に言う。
「分かっていると思うが、呪法や呪術が書物を読んだだけで出来る訳がない」
「それなりの霊力や経験がないと無理だ」
「それはここにいる修験者の誰もが分かっている」
「ここで見たものをどうするかは、今後のお前次第と言うことだ」
紅牙は真魚に老師の考えそのものを伝えた。
「俺は試されているのか?」
真魚はつぶやいた。
「だがな」
紅牙は続けていった。
「お前は別だ」
「お前ならここにあるものを倍にさえすることが出来る」
「俺はそう思っている」
紅牙は真魚に夢を、全てを託したと言っているのである。
「分からんぞ!」
真魚はいたずらにそう言って見せた。
「ぬかせ!」
紅牙が言った。
「笑いながら言うな」
紅牙の思いは真魚に受け継がれた。
それは役小角の思いでもあった。
真魚は書院の一室に籠もっていた。
数日間ろくに食事も取らず書を読みふけっていた。
うず高く積まれた書物。
更にその奥にその姿はあった。
真魚は驚いていた。
こんな山奥の寺院に、これだけの書物が埋もれていることに。
雑密の秘術、教典、図、絵…
真魚が今まで見たことのないものが沢山あった。
中には読むことすら出来ない、異国の文字で書かれているものも存在した。
今まで一通りの学問をしてきたつもりでいた。
だが、足りなかった。
真魚はこのとき自分の無力さを痛感した。
それと同時に新たな光を感じた。
「世界は広い…まだ…」
「!」
そう思った時、真魚の前にぼんやりと人の形が現れた。
真魚は意識を集中させた。
分かっていた。
その人影が誰であるのか…
「役小角か?」
ぼんやりしていたものはだんだんとその者の形となった。
「佐伯真魚殿じゃな」
その影は真魚の問いかけを否定しなかった。
「面白い…」
「近くで見れば更に面白い…」
その影はそう言った。
「俺は見せ物ではない」
真魚はきっぱり言った。
「だが、あちらでは人気者でござるぞ!」
「人気は鰻登りじゃ」
その影はそう言う。
「念が残っている」
真魚は小角の影にそう言った。
「そうか…」
「残した思いは少々ありまする」
小角の影は言う。
「だが、新しい芽がいずれ花を咲かす」
「そうであろう、真魚殿よ」
小角の影は、真魚に向き合う。
「俺がその花を咲かせても良いと言うのだな」
真魚は小角の思いを感じていた。
「ほう…」
小角の影は真魚の心の内を探っていた。
「だがな、俺は俺のやり方でさせてもらおう」
真魚ははっきりそう言った。
「そうか、それもそうじゃろな」
「まあそれも良かろう」
小角の影はそう答えた。
「お主はすでに理の一部を手に入れている」
「しかし、それは手に入れたと言うだけじゃ」
『理の一部』
小角の影は真魚が持っているものをそう表現した。
「分かっている」
地図を手に入れただけで、その場所に行ったことにはならない。
それと同じことである。
「お主には敵も多い」
既に何度も手を出されている。
「前鬼と後鬼を連れて行くが良い」
小角は思いがけない言葉を言った。
「よろしいのか?」
真魚は小角の影に尋ねた。
「前鬼の知識の灯りと後鬼の理水、役に立つはずじゃ」
「それに、お主にわしの幻影を重ねておる」
今ここに実態がない自分を小角は残念に思っているようだ。
「夢を追い始めた奴らに、夢を見るなと言うのは酷であろう…」
小角の影は遠回しに『自分も楽しんでいるのだ』と言っているようであった。
「ありがとうございます」
真魚は小角の影に礼を述べた。
「では、そうさせていただきます」
真魚は全てを受け入れた。
「それと…真魚殿は気づいておるか?」
小角は真魚に問いかけた。
「何でしょう?」
真魚は小角の念を探る。
「襲ってくる奴らの正体のことじゃ」
小角はそう表現した。
「おおよそのことは…」
真魚はそう答えた。
「そうか、それならば良い」
小角は安心した様だ。
「真魚殿、心してかかるがよい」
そう言うと影は消えていった。
真魚は驚異的な速さで書院の書物を読み終えた。
誰もがその事実に驚愕した。
「お前は恐ろしい奴だ」
紅牙にしても真魚の超人的な能力に舌を巻いた。
「そろそろ出立しようかと思います」
真魚は老師を訪ねその旨を伝えた。
「そうか…」
「これを持って行け」
そう言うと、金色の布に包まれているものを真魚に差し出した。
「何でしょう?」
真魚は老師に尋ねた。
「開けてみればよい」
老師は言う。
真魚は恐る恐るその封を解いた。
「こ、これは!一体!」
真魚は驚いた。
その法具から出ている霊力がすさまじいものであったからだ。
「今度の玩具はこれじゃ、欲しくはないかな」
玩具と呼ばれた代物は黄金の輝きを放つ五鈷杵と五鈷鈴であった。
赤い宝玉が埋め込まれていた。
前のものとは次元が違う。
それは隠してある棒の共鳴が証明していた。
『これは、やられたな』
真魚は蔵王権現に感謝した。
『やはり俺はまだまだだ…』
真魚は自分の未熟さを恥じた。
法具を見つめる真魚に老師が言った。
「これからはこれで闇から出てくる怪どもを浄化せよ」
「五鈷杵と五鈷鈴の使い方は分かっておるじゃろう」
老師は真魚に確認した。
真魚もそれらをどのように使うかは知っていた。
単なる浄化の法具と言うだけではない。
新たな可能性を秘めていた。
「その者が来れば託す必要がある」
「小角様との約束じゃ」
「それに、使いこなす者がいなければ何の役にもたたん」
「お主なら出来るであろう」
老師は全てを真魚に託した。
「ありがとうございます」
真魚は礼を言った。
すがすがしい朝であった。
「残した思いはもうない」
それは真魚の心の内を表していた。
風が「早くせよ」と真魚の背中を押した。
「気を付けろよ」
紅牙が真魚に言った。
「ああ」
紅牙は真魚のその素っ気ない返事の中に、決意を感じ取っていた。
黒い棒と赤い瓢箪。
薄汚れた衣とぼろぼろの草履。
そして子犬。
何とも軽装であった。
「世話になった」
真魚は礼を言った。
「老師には伝えておく」
紅牙が言った。
それだけであった。
それだけで寺を後にした。
真魚は振り返ることはしなかった。
それは真魚の生き方そのものかも知れない。
紅牙はその姿を頼もしく見送った。
「あの幼かった真魚が…」
その姿が見えなくなるまで、紅牙は真魚達を見ていた。
「おーい!」
後ろから声がした。
「真魚、なんか来たぞ!」
子犬の嵐が言う。
「わかっている…」
真魚が素っ気なく答える。
「こら!真魚殿!」
前鬼であった。
「年寄りを走らすとはどういうことじゃ」
後鬼も一緒であった。
「お主らであれば、どこからでもこれるであろうに」
真魚は素っ気ない。
歩くことを止めることもない。
「形というものがあろうが!」
「旅立ちの形じゃ!」
いつになく二人は興奮していた。
「俺はこだわらない…」
真魚は素っ気ない。
「小角様に聞いたぞ!」
前鬼がいう。
「うちらの力がいるのじゃな!」
後鬼が言った。
「来たくなければ来なくて良いぞ」
真魚は冷たくあしらった。
「相変わらずじゃな!」
前鬼が言う。
「まあ、真魚殿のイケズなこと!」
「素直にお供せよ!と言ってくれれば、うちらとていやとは言えへんし」
後鬼が言う。
「勝手にくればよかろう…」
真魚はそう表現した。
「ウヒャヒャヒャ~。決まりだ決まりだ」
二人は同時に言った。
「お主ら言っておくが・・・」
嵐が間を割るように言った。
「食料は自分達で調達だぞ」
先輩口調の嵐の言葉に真魚が笑った。
「何の心配かと思えば食い物か!」
真魚は嵐をたしなめた。
「争いの原因のほとんどは食い物だ」
嵐は言い切った。
「お主らしいな~」
前鬼が挑発した。
「心配するな、お主ほど大食いではないぞ」
後鬼が言った。
「それはそうと真魚」
ばつが悪い嵐が話を変えた。
「本当にあの書院の書物を全部読んだのか」
嵐が真魚に聞いた。
「いや…」
真魚がさらりと言った。
「急いで行かなくても良いんだぞ」
嵐にとって最も居心地の良い場所は、食い物が常にある所だ。
「もう用はない」
真魚はきっぱり言った。
「二度と読めないものもあるかも知れないぞ」
嵐は念を押した。
「書物には全部目を通した」
「だが今の俺には読めないものもある」
真魚が答える。
「では、どうするのじゃ?読めるようになってからまた戻ってくるのか?」
嵐は面倒くさそうに言った。
「俺が読めないものは他の者も読めん」
真魚が言う。
「今読めないのであれば戻って来るしかないではないか?」
嵐は『そんなことはいやだ』と目で訴えていた。
「後で読めばいい」
真魚が言った。
「後って言っても…戻るしか…!」
「・・・!・・・・・・!・・・・・・・・・!!!」
「真魚!」
「お前!まさか!」
嵐はそう言って真魚の腰の瓢箪を見た。
真魚は笑っていた。
「誰も読めないものがなくなっても、誰も文句は言うまい…」
「しかも、この書物を体現できるのは俺だけだ…」
真魚は何食わぬ顔で言った。
「真魚、お主も相当の悪よの~」
嵐は真魚に感心した。
「悪よの~この旦那は~」
「ほんまやの~」
前鬼と後鬼はそう言いながらも、真魚に親しみを覚えはじめていた。
「食料もいっぱい入るし、その瓢箪はほんまに役に立つなぁ~」
嵐が気持ちを込めてそう言った。
「それで真魚どれだけの書物をナニしてきた?」
嵐は地面を掻く仕草をして真魚に尋ねる。
「覗いてみるか?」
真魚は瓢箪の蓋を取るふりをした。
「や、止めてくれ!その中だけは止めてくれ!」
嵐は懇願した。
前鬼と後鬼に出会ったとき、
その中に隠れようとしたことを既に忘れている。
「それは残念だな」
真魚は笑いながらそう言った。
「なさけないやつちゃのう」
前鬼は嵐を挑発する。
「お主らは知らぬ!あの瓢箪の恐ろしさを!!」
「一度入って見るがよい!」
嵐は心底怖がっていた。
「今は止めておこう」
前鬼が逃げた。
「その辺にしとき!」
後鬼が二人をたしなめた。
「そうだ!真魚!」
嵐が急に思い出した様に言った。
「次はどこに行くのじゃ?」
嵐が次の行くあてを聞いた。
「まだ決めていない」
真魚が答えた。
「まだ決めていないのにどうしてこの道を行くのじゃ」
嵐が抗議する。
「では、お前はどうしてここを行くのだ」
真魚が嵐に聞く。
「それはお主が行くからであろうが!」
嵐がそう言った。
「ならばこの道で良いのではないか?」
真魚が確認する。
「俺の行く道が、その道と言うことだ」
真魚はきっぱり言った。
「そうかなぁ~」
嵐は納得していない。
「そうだ」
真魚が言う。
「まあそんなものかなぁ~」
嵐はそんなことはどうでも良くなってきた。
行くべき道は確かにある。
『それだけで良い』
そう思えてきたからだ。
「まあそれでええわ!」
嵐は半ば投げやりでそう言った。
前鬼も後鬼も笑っていた。
一人の男と小さな銀色の子犬
そして、二人を加えあてのない道を行く。
あてはない。
あてはないがその道は全てに通じている。
少し離れた木の上に群れからはぐれた野猿がいた。
真魚達の一部始終を覗きながら、木の実を食べていた。
『くそ坊主め!』
真魚は心の中でそうつぶやいた。
既に様々な種はまかれている。
それらは至る所で芽を出していく。
はぐれ猿。
新たな試練が迫っている。
真魚はそれに気づいていた。
闇。
闇があった。
森の木々の隙間。
その闇は形を変えながら蠢いていた。
その隙間から幾つかの目が真魚達を覗いていた。
「やるではないか、佐伯真魚」
「だから言ったであろう」
「次だ、次でやる」
「そうか次か」
「そうだ次だ」
闇は木々の間を揺らめきながら、静かに消えていった。
第二話 - 完 -