空の宇珠 海の渦 外伝 心の扉 その二十二
満月が美しい夜であった。
月灯りが世界を包み込んでいる。
その柔らかい光の中に、馨しい香りが漂っていた。
甘い香り。
誰もがその虜になる。
そんな香りだ。
だが、その香りは危険な香りだ。
その香りが仲成の屋敷を包み込んでいる。
「満月は美しいのだが、この臭いはどうにかならぬか?」
屋根の上であった。
前鬼が後鬼に愚痴を言っている。
「何を言っておる、その臭いがお主を支えておるのじゃ」
後鬼が前鬼を窘める。
「皮肉なものだ…」
「この悪臭が生きている証なのか…」
鼻に詰めたものの悪臭。
前鬼はこの臭いを何かに例えた。
「この甘い香りを感じた瞬間、夢の世界じゃ…」
後鬼は、屋根の上に置かれた香炉を見ていた。
紗那と二人きりであった。
夢の世界。
紗那と二人。
二人だけの世界。
どこまでも続く花の絨毯に寝そべっている。
花の甘い香りの上でじゃれ合っていた。
幸せな時間。
いつまでも埋もれていたい。
東子はそう思った。
東子の目に一本の美しい花が咲いていた。
うす紫の美しい花だった。
東子はそれを手にとって臭いを嗅いだ。
その瞬間…
げほっ!
東子は咳き込んだ。
悪臭。
片方の鼻の穴に何かを詰められた。
その臭いで現実に引き戻された。
「東子…」
「東子…」
誰かが身体を揺すっている。
燈台の明かりがぼんやりと映し出す。
「紗那…」
夢の続きか…
「紗那なの…」
意識は半分夢の中だ。
「東子!」
急に身体を抱きしめられた。
伝わる感動。
東子は目を開けた。
「紗那!」
東子は紗那に無意識に抱きついた。
着物が濡れている。
涙が溢れていた。
「東子と行きたいところがある」
「どこ?私も行きたい!」
どこでもいい。
紗那と一緒に行けるのなら…
東子はそう思った。
「でも、この臭いどうにかならないの?」
「屋敷を出てから取ればいい」
東子はその臭いに参っている。
「でも、このままでは…」
そして、身なりを気にしている。
「着物などどうでもいい…」
紗那はそう言って東子を抱き上げた。
外に嵐が待っていた。
「あなたは…」
東子はその神の名を知らなかった。
「約束は守ったぞ…」
嵐が笑っている。
「嵐が俺たちを導いてくれる」
紗那が東子に微笑みかける。
「乗れ!」
嵐はそう言って背を低くした。
東子が前、紗那は東子を後ろから支えた。
「しっかり捕まっておれ!」
嵐が飛んだ。
「あっ」
東子が気がついた時、仲成の屋敷は小さくなっていた。
「すごい、すごいわ!」
満月が二人を見ている。
紗那が後ろから東子を抱きしめた。
背中に伝わる温もり。
東子は紗那の手をにぎっている。
「夢じゃない!」
東子は夜空に叫んだ。
「これは夢じゃないのよね!」
東子はその想いを抱きしめていた。
続く…