空の宇珠 海の渦 外伝 心の扉 その十六
東子は寝殿の出来事に気を取られていた。
「何をするつもりなの…」
ふと気配を感じて釣殿の下を見た。
すると、池の水際に子犬が座っていた。
「あら、かわいい」
東子は一目でその子犬を気に入った。
「!」
子犬が口に何かを咥えている。
文の様にも見える。
東子は予感がした。
「少し、一人になりたい…」
東子には見張りの端女がついていた。
「ですが東子様、仲成様の…」
「屋敷の中です、逃げも隠れもいたしませぬ」
「それに、お兄様はあそこにいるではござりませんか…」
そう言って東子は寝殿の仲成を指さした。
「今の私にはそういう時が必要なのです!」
東子が口調を強めた。
「では、何かあればお呼びください…」
東子の心の内を察し、端女は奥に下がった。
「ちょっと待っててよ…」
東子は考えた。
柵が邪魔をして、手を伸ばしても届きそうにない。
「そうだ!」
そう言うと東子は着物を一枚脱いだ。
そして片方を帯紐で柵に結んだ。
「これでいい!」
東子はもう片方を持って柵から半分身を乗り出した。
手を伸ばすと着物が地面の近くまで垂れ下がった。
「着物に乗って、さあ早く!」
東子は嵐に着物に乗るように言った。
ただの子犬ではない。
だが、東子はまだその事を知らない。
嵐は仕方なく着物の上に乗った。
すると東子は着物を思い切り引っ張った。
その勢いで小さな嵐のからだが宙に浮いた。
その嵐を東子が抱き上げた。
「お利口さんね」
東子はそう言って嵐の頭を撫でた。
「それ、私にでしょ?」
東子は嵐が咥えていた文を手に取った。
嵐が文を落とさなかったのは、奇蹟と言えた。
「ちょっとこれを…」
着物を元に戻さないと逃げるためと思われてしまう。
先に東子は着物を着て身なりを整えた。
「見た目とはずいぶん違うな…」
「えっ!誰?」
嵐がとうとう喋ってしまった。
「紗那が好きになったのも、そういうわけか…」
その声に東子が目を丸くして驚いている。
「犬が…喋った…」
東子はそう言って口を開けたままだ。
「犬ではない、俺は神だ!」
嵐はいつものようにそう言った。
「神…様…?」
東子はその事実を理解出来ないでいた。
「いいからそれを読め…」
東子は嵐の事が気になりながらも、手にした文を開いた。
「あっ」
その瞬間、東子の瞳から涙が溢れた。
「紗那…」
それは愛しき紗那の文字であった。
「生きて…いるのね…」
東子は無意識にそれを抱きしめていた。
涙で声が震えている。
「どうして…これを…」
泣きながら東子は嵐に聞いた。
「紗那に頼まれたからに決まっておるじゃろ…」
嵐が呆れてそう言った。
「それにその理由は本人に聞け…」
「会えるの!紗那に!」
東子の心が震えた。
「それは奴らに聞け」
嵐がそう言って寝殿に顔を向けた。
続く…