空の宇珠 海の渦 第六話 その十三
頬を風が抜けていく。
湖が白波を立てている。
午後の風に煽られ、湖の水が暴れている。
「人の心も同じだな…」
田村麻呂は馬上からその波を見つめてつぶやいた。
帝の命令で軍を率いて近江まで来た。
ここから甲賀を抜けて伊勢に至る。
その途中に目的の場所がある。
「風に吹かれなければ…波は立たぬ…」
田村麻呂は変わる心を楽しんでいる。
いや、そうではない。
変わって行く過程を楽しんでいるのである。
昔の自分ならこんな事は思わない。
全てはあの男…
佐伯真魚の所為だ。
「だが、風が止めば…波は立たぬ…」
「心は変われぬのだ…」
自分に吹いた風を田村麻呂はそう捕らえていた。
それが不思議でならない。
堅物で有名な武人の自分が、このような考えを持つ。
今までにはない自分が面白くてならない。
だが、そのおかげで…
見えなかったものが、見えるようになった。
「!」
突然、田村麻呂は眉間を突かれた。
そんな気がした。
そして、その気配に気がついた。
「夜まで待てぬのか…」
田村麻呂が笑みを浮かべている。
「千の兵を前に、俺に恥をかかせるつもりか…」
そう言ってその気配のする方を何気なく見た。
その瞬間、気配が消えた。
だが、田村麻呂はその姿を確認した。
「この…一件!」
田村麻呂の思考が情報を結んでいく。
「まさか…」
その答えが信じられない。
「女盗賊とどういう関係があるのだ…」
その事実に驚いている。
だが、次の瞬間には笑いがこみ上げてきた。
「はははっ!面白い…」
空を見上げて笑っている。
近くの兵は気が触れたと思ったに違いない。
「気にするな、たわごとを思い出しただけだ!」
田村麻呂は周りに聞こえるように言った。
女盗賊と佐伯真魚。
どういう分けか二人は繋がっている。
そして、この自分も巻き込まれていくのだ。
「今夜か…」
田村麻呂は楽しみにしている。
「佐伯真魚…面白い男だ…」
その口元には、笑みが浮かんでいた。
木の上で前鬼が止まった。
森が突然切れた。
その下は崖であった。
「あそこか!」
前鬼がその目で確認した。
「ほに!」
後鬼が驚いている。
このような場所にこんなものがある。
吉野の金峰山寺も山奥にある。
それに似た感動が後鬼を揺さぶっている。
後ろは断崖絶壁。
近寄ることも出来まい。
だが、それは逃げられないと言うことでもある。
「お社なら分かるが…」
前鬼はその不自然さを気に掛けていた。
「まるで…何かを守っているようじゃ…」
後鬼は既にその心を感じていた。
仕組まれた結界でその場所にたどり着いた。
本来、結界は良からぬ物を寄せ付けないように張られている。
前鬼はそれを逆に利用した。
最初から分かっていればそれも可能だ。
だが、身体には良くない。
目が回る方に突き進んでいくようなものだ。
どんどん感覚がおかしくなる。
「この結界を鈴鹿御前が…」
前鬼が驚いている。
これだけの術者は金峰山でもそうはいない。
「何か特別なものの様ですな…」
後鬼がそこに気づいた。
「媼さんもそう感じるか…」
前鬼も既に感じていた。
「とにかく行くしかない」
前鬼はそう言って跳んだ。
「それもそうじゃ!」
後鬼もその後を追って跳んだ。
続く…