空の宇珠 海の渦 第六話 その九
様子をうかがいに来た凪の目に、信じられない光景が映っている。
凪は戸の影から覗く様にして見ていた。
「うそ…」
目をまん丸と見開いている。
「御前様が…あの御前様が…」
「男に…気を許している…」
その事実は凪にとって受け入れがたいものであった。
「さっきは目玉がなくなるかと思ったけど…」
凪の下から颯太の顔が出てきた。
「良かったのかな…」
瓢箪を盗んだ事が、こんな結果に繋がるとは思っても見なかった。
「不思議な事も起こるものね…」
その原因である姉弟がそう言って、二人を観察していた。
「飛炎と疾風は何しているの?」
凪は気になって颯太に聞いた。
「ここにいる…」
二人は既に凪の後ろに立っていた。
何かあれば直ぐに助けに行くつもりであったようだ。
「なるほど…あいつがそうか…」
飛炎が真魚を見ている。
「どうにかなる…ことはなさそうだな…」
疾風が正確に状況を見ている。
「何の話をしているんだろう」
凪は話の内容が気になっていた。
「お主が言うとおり私は蝦夷の生まれだ…」
鈴鹿御前が真魚を見ている。
「倭との戦の中で住む場所を奪われた…」
「倭の行いは俺もこの目で見た…」
真魚と鈴鹿御前の波動が触れている。
「その時、あの男を見たのだ…坂上田村麻呂を…」
鈴鹿御前はそう言って空を見上げた。
逃げ惑う村人。
容赦なく迫る刃。
それを馬上で指揮する男。
その記憶は心に負った傷だ。
「倭の兵は武器を持たぬ村人を捕らえ、逆らう者は容赦なく切った」
「逃げ延びて山賊となるか、捕まって倭の奴隷となるか…」
「その選択の自由すらない」
「田畑や森を奪われれば、死んだも同然だ」
「蝦夷は生きてはいけない…」
鈴鹿御前も一人の犠牲者だった。
「蝦夷の者達は元気でやっているのか…」
そう言う 鈴鹿御前の目は懐かしさに溢れている。
「皆、元気だ」
真魚の言葉と同時に流れ込んで来る心象。
「だが、既に捕まった者までは救えなかった…」
「そうか…」
鈴鹿御前はそう答えるしかなかった。
堪らずに両手で顔を覆った。
堪えていたものが溢れた。
救えなかった多くの命。
今も奴隷として苦しむ人々。
それが事実として存在している。
「そなたは誤解をしている…」
「誤解…?」
「田村麻呂は悪い男ではない…」
「あの男の力がなければ、蝦夷討伐はまだ続いているはずだ…」
真魚は鈴鹿御前に事実を言った。
「奴は、命をかけてお上に進言したのだ」
鈴鹿御前の記憶とは違う田村麻呂がいる。
「田村麻呂もしくじれば家族が殺される」
「それでも蝦夷のために動いたのだ」
真魚が話す事実は、鈴鹿御前にとって受け入れがたいものだ。
目の前で村人に手をかけた事実は消える事はない。
だが、蝦夷を救ったこの男の言葉も嘘ではない。
この波動は信じられる。
心がそれを受け入れている。
諦めた夢…蝦夷の未来。
それを実現したのはこの男なのだ。
鈴鹿御前はそう感じていた。
「先ほど覗いていたであろう」
「蝦夷の村は見えぬのか?」
真魚はその力に気づいていた。
「残念だが、私にそこまでの力はない」
「あの時ですら、自分が逃げる事で精一杯であったのだ」
鈴鹿御前がそう言ってため息をついた。
「ところで…沢山の人の波動を感じるのだが…」
真魚が話を変えた。
「何もかもお見通しなのか、お主は…」
「私の結界の中だぞ…」
鈴鹿御前が呆れている。
「付いてこい、案内してやる」
鈴鹿御前が真魚を誘った。
「もう大丈夫なのか…」
半信半疑な嵐が子犬に戻った。
「それより真魚、俺はもう限界なのだ!」
「瓢箪が戻ったらまず飯ではないのか!」
嵐が空腹で我を忘れている。
「面白い山犬だ」
鈴鹿御前が笑っている。
「私がご馳走してやる、付いてこい!」
鈴鹿御前が嵐に言う。
「言っておくが、俺は神だぞ!」
子犬の姿では説得力がない。
だから嵐は誰かに出遭う度に、この台詞を言うはめになるのだ。
「面白い男だ…佐伯真魚…」
鈴鹿御前は久しぶりに心が和む気がした。
続く…