空の宇珠 海の渦 第六話 その二
近江から伊勢に抜ける峠を歩いていた。
森の中を吹き抜ける風に気持ちが救われる。
登り道にさしかかってから一刻は過ぎた。
この辺りからさらにきつくなる。
「なぁ、真魚よ」
その声は真魚と呼ばれる男の足下から聞こえてきた。
銀色の子犬が喋っている。
その男は手に一本の棒を持っていた。
漆黒。
闇そのものの黒と言っていい。
魂さえも吸い込まれてしまいそうな黒だ。
装飾などは一切ないが、それがただの棒でないことは一目で見て取れる。
腰に瓢箪をぶら下げていた。
鮮やかな朱色であった。
表面には漆を施された様な艶があった。
直垂、そう呼ばれていたこの頃の着物を着ていた。
旅をするには非常に軽装であった。
「何だ…」
この男の返事はいつも素っ気ない。
「お主はどうしてこんなに歩くのが好きなのじゃ?」
「目的の場所があるなら俺が飛んでやる」
やんわりと抗議している。
子犬の言葉は善で偽装した愚痴である。
「それでは意味が無い」
真魚という男はそう答えた。
「意味とは何じゃ?」
「いいか、嵐、お主に乗って飛べばあっという間だ」
「そうじゃな…」
「それは神の次元だ…」
「確かに俺は神だ」
嵐は子犬の姿でも神なのだ。
「それでは楽しみが減るであろう?」
「楽しみ?」
その言葉に嵐は引っ掛かった。
「俺は楽しくないぞ、楽しくないから言っておるのだ」
「それが本音か…」
真魚が笑っていた。
言ってから嵐は気づいた。
どのみちこの男に隠し事など出来ない。
「そのとてつもなく重い棒を持って歩くことが楽しみだというのか?」
「俺にとっては必要な時間だ」
真魚はそういう言い方をした。
「だとすれば、お主は相当の変わり者じゃな」
神である嵐に、理解出来る訳がない。
「人だけが持つ力がある。」
「ま、神であるお主にはわかるはずもない…」
真魚はその視線の先に何かを見つけた。
「それに…」
「それに何だ…」
嵐はそう言いながら真魚の視線を追った。
「誰にも出会えぬ…」
真魚の視線の先。
そこには一人の子供が歩いていた。
齢十二、三の男の子供だ。
こちらに向かってくる。
「面白い…」
真魚が笑っている。
「あの小汚い子供が面白いだと…」
嵐は視線の先の子供を見ていた。
真っ直ぐに向かってくる。
歩く速度は変えない。
変わらないのではなく、変えないのだ。
真魚が面白いと言った事実がそこにあった。
子供はそのまま真魚の目の前まで来た。
子供が顔を上げた。
目が合った。
「あっ!」
子供が突然別の方向を指さした。
嵐はその指先を確認した。
次に視線を戻した時には、子供の姿はなかった。
「消えた!」
嵐は驚いて廻りを見た。
子供は遙か遠くを走っていた。
その手に朱い瓢箪が握られていた。
「真魚!瓢箪が!」
嵐が叫ぶ。
「慌てる必要は無い…」
真魚が笑っている。
「これが本当の子供だましだな」
どうやら真魚は全てを見ていたようだ。
「嵐、あの子供の行く先を見てきてくれ」
「捕まえるのではないのか!」
嵐は真魚の命令には反対であった。
「見つかるなよ」
その言葉はその先の何かを見ている。
「誰に言っておるのだ…」
嵐がそう言うと身体が輝いた。
金色と銀色の光。
それは嵐と青嵐二つの心でもあった。
小さな子犬の身体から途方もない霊力が溢れる。
それと同時に身体が大きくなる。
嵐の背中と真魚の背丈が同じになった。
金と銀に輝く美しい獣が立っていた。
「行くか」
そう言うと嵐は飛んだ。
その瞬間に消えた。
消えたのではない。
あまりにも早すぎて見えないだけなのだ。
光。
この世の理の速さだ。
その子供は走って逃げていた。
こちらも速い。
子供とは思えない。
恐らく誰も捕まえる事は出来まい。
「ちょろいもんだぜ!この風の颯太様にかかればよ!」
颯太は瓢箪を奪った事実に浮かれていた。
偶然か…必然か…。
この世で一番足の速い子供が、この世で一番恐ろしい男に出会ったのだ。
颯太はまだ、その恐ろしい事実を知らない。
それぞれの未来が関わりを持った瞬間であった。
続く…