空の宇珠 海の渦 第六話 その一
透き通る空の青さが秋の始まりを告げている。
庭の池にその青が映っている。
気の早い落ち葉がそれを揺らす。
また違う青が生まれている。
広い屋敷であった。
これほどの屋敷に住める貴族は少ない。
坂上田村麻呂。
蝦夷との戦いで功績を挙げ、阿弖流為と母礼を追い詰めた英雄である。
だが、事実はそうではない。
それは人々が創り上げた幻想に過ぎない。
それは田村麻呂自身が一番良くわかっている。
その事はどうでもいい。
田村麻呂はそう思っている。
佐伯真魚にその事実は聞いた。
阿弖流為と母礼は生きている。
だが、この目で確かめた訳ではない。
不思議な感情であった。
敵であった彼らに、このような感情が生まれるとは思っても見なかった。
蝦夷の地で見た真の闇。
その淵に立った時の恐怖。
多くの兵がそれに食われ、心が崩壊した。
人智を超えた力になすすべもなかった。
真の絶望がそこにあった。
その絶望をあの男が消し去った。
その体験が田村麻呂を変えた。
佐伯真魚という男が、坂上田村麻呂という男を変えたのだ。
「田村麻呂はどう考えている?」
その男は田村麻呂よりはかなり若い。
父と子と言っても良い位だ。
見かけ上の歳はそれほどに見えた。
上級貴族である田村麻呂をそう呼べる人物は多くない。
細身で彫りが深く目つきが鋭い。
少し浅黒い肌の色とその目つきが、病弱な印象を与えている。
それは、安殿親王であった。
後の平城天皇である。
小さい頃から田村麻呂のことをそう呼んでいた。
それが今に至っているだけなのだ。
だが、これほど身分の高い者が、自ら出向いて来ることはまずない。
それだけの理由が二人の間にあると言うことだ。
「信用してよいのかと…」
田村麻呂はその男に命を救われた。
「その佐伯真魚とか言う男…」
「皇子も知っている男です」
「俺が知っているだと!」
だが、どんなに記憶をたどっても見つからなかった。
「十年ほど前に吉野川で流された事を覚えていますか…」
田村麻呂は答えを導いた。
「まさか、あいつか!」
安殿は思い出した。
忘れもしない。
命を救われたのだ。
向き合う二人の間には黄金が置かれていた。
親指ほどの塊が輝いている。
安殿はそれを手の平に載せた。
その輝きが何かを語っている。
輝きが冷めていた心を高ぶらせていく。
「面白いではないか…」
その黄金をその手に握りしめて言った。
「その男…佐伯真魚」
その目は未来を見つめている。
その高揚感は未来にいる自分の心であった。
「一度会って話してみたいものだ…」
安殿は田村麻呂に向かって言った。
「その必要はございません」
田村麻呂はその言葉を否定した。
否定しておきながら口元に笑みを浮かべている。
「どういうことだ」
安殿はその態度が気に入らない。
何かを隠しているような気がしたからだ。
「皇子がそう願えば奴は現れます」
田村麻呂はそう言った。
田村麻呂はすでに感じている。
「奴が現れるだと…」
この時の安殿は、本当の佐伯真魚を知らない。
だが、そう言いながら安殿も笑っていた。
「奴は、佐伯真魚はそういう男なのです」
「そうか…そうかも知れぬ…」
田村麻呂の言葉に安殿が笑みを浮かべた。
遠い記憶の中の佐伯真魚。
水面の向こうの青い空。
その青が闇に変わっていく。
遠ざかる水面と意識。
気がつくとその男がいた。
震えている。
あの時の恐怖は今も忘れない。
あの男がこの黄金を持って来た。
「これは偶然なのか…」
安殿はつぶやいた。
握りしめた黄金が語る。
遠い昔に会っただけの男に心が躍っている。
理由など無い。
だがそれが真実なのだ。
震える心に嘘はない。
握りしめた手を開いた。
「面白い…」
指先で戯れる。
「俺に…何を望む…佐伯真魚…」
安殿はその輝きを見てそうつぶやいた。
続く…