空の宇珠 海の渦 第一話
「うおおおお~」
空海は叫んだ。
その心にある想いのままに。
手にしていた三鈷杵を海に向かって投げた。
それは、空の彼方まで飛んで行き光になった。
涙が頬を伝った。
唐に来て全てを手に入れた。
それが、己の生きる道だと確信していた。
しかし、手に入れた瞬間に全てを失った。
たとえようもない喪失感。
「俺は何を…」
「虚しく行きて実ちて帰る」
後に空海はそう記している。
だが、この言葉の本当の意味を理解できる者は、神以外は存在しなかった。
風が吹いていた。
心地良いそよ風だ。
その風の潮の香りに混じって、禍々しい気配が蠢いている。
砂利を踏む音が、足にまとわりつく。
眼前の深紅の海が、のたうち回りながら、膨大な闇のエネルギーをはき出していた。
夕陽が不気味なほど赤黒かった。
「やっかいなものを背負いこんだかな…」
男は、海に向かってつぶやいた。
その男は困っていた。
それは、男のすぐ後ろをついてきていた。
男の 歳は二十歳前後であろう。
薄汚れた着物を着てはいるが、不潔さは微塵も感じられない。
直垂。
その時代にそう呼ばれていた。
その着物の中に、しなやかな体と強靱な筋肉が備わっている。
髪は無造作に、後頭部で束ねられていた。
一見すれば、陰陽道の行者のようでもある。
しかし、この男を大きく見せているもの…
それは、無限に煌めく、眩しいほどの光の輪であった。
顔はこれといって目立った感じはない。
均整はとれているが、 特に美しいというわけではない。
ただ、この男には憎めない愛嬌というべき武器が備わっていた。
これは天性のものだろう。
もし、現代にこの男が存在したら、その魅力を理解出来たかもしれない。
目を移してみると、目立つ特徴がひとつ。
その右手には棒が握られていた。
長さは、その男の肩ぐらい。
太さはちょうど一握り程度か…
漆黒。
闇そのものの色である。
闇がそこに潜んでいると言って良い。
そして、その表面には艶があった。
漆を丹念に施したような感じだ。
不思議な事に、その棒には傷一つなかった。
男はその棒を肩に担いでいた。
その先には、旅の荷物であろう、赤い瓢箪がぶら下げられている。
鮮やかな朱色の瓢箪であった。
他の荷物は一切持っていない。
旅の支度にしては非常に軽装であった。
「なあ、お前、ええ加減に帰れよ…!」
後ろのものに言っているようである。
しかし、その男は振り返ろうとはしない。
ついてくるものも、一向に離れる気配はなかった。
「しかたないなあ、これも因縁か・・・」
そう言うと、男はようやく立ち止まった。
後ろのものもその動きを止めた。
「あ~あ!」
大げさにため息を吐き、その場に座り込んだ。
後ろには獅子の形をした岩が、大きな口を開けていた。
瓢箪を手に取り、中のものを一口含むと、それをゴクりと飲んだ。
「なあ、ちび、お前の本当の名前はなんや?」
そう言って、男は座ったままで振り返った。
男の唐突な振る舞いに驚いたのか、そのものも動けずにいた。
いや、正確にはその男の持つ独特の気配。
それを、はかりかねていたのだろう。
しばらくじっとしていたが、
そのものは、ようやくその男の方へと動き始めた。
「もうええ、遠慮せんでこっちへ来い」
男の側に、きちんと座った。
「く~~ん」
と挨拶の様な鳴き声を立てた。
「律儀なやつやのう」
男は手を伸ばし、銀色の毛をしたものの頭をなでた。
「く~~ん」
そのものは気持ちよさそうに、その行為を受け入れた。
「まあ、お主も飲みや」
そういうと瓢箪の蓋を取って、手のひらに少しだけ注いだ。
瓢箪の中のから出たのは濁った液体であった。
酒だ。
ぺろっとひと舐めしたが、刺激が強かったのか、それ以上は口を付けなかった。
「はっはっはっ、おまえの口には合わんのか!」
その男は、そう言って笑った。
「しかし、これで俺とお主は仲間やな」
そのものは、言葉を理解したかの様に、頭を下げるような仕草をした。
そのものとは犬の形をしていた。
犬と言っても、生まれて半年ぐらいの子犬のようだ。
色は銀色。
その子犬が、「ある場所」からその男についてきたのである。
気づいたのは、その場所からしばらく経ってからであった。
あまりの気配の小ささと、獣の本能とでも言うべき振る舞いが、
男の感覚を鈍らせたのである。
「俺としたことが…」
「まっ、いずれ消えるやろな…」
最初に、その男はそう思っていた。
しかし、いつまで経っても、その気配は消える事がなかった。
それどころか、だんだんと間を詰めてくる。
出会った場所が、場所だっただけに、あまり関わりたくは無かった。
「で、お主の頼みはなんや?」
「く~~ん」
子犬は、さっきとは違う音色の鳴き声をした。
「そう言うことか…」
男は、その子犬の鳴き声を、理解しているかの様だ。
「それで、俺について来たのか…」
「お主はなかなか目が高い…」
「しかし、俺にも出来る事と、出来ん事があるんやぞ…」
「く~~~ん」
子犬はその男にさらに言った。
「お主の主人とやら、お主をどこで拾ってきたかはわからんが…」
「まあ、だいたいの事は…わかったで…」
この男、どうやら獣と話す術を心得ているようである。
「しかし、お主では細かな事情がわからん…」
「一度、先ほどの場所まで戻るか…」
男はそう言って立ち上がると、
犬と一緒に来た道を戻り始めた。
その男の名は佐伯真魚。
この後、ヤマトの国に唐から密教を持ち込むことになる。
だが、今の時点ではまだ唐には渡っていない。
その志があったかどうかも定かではない。
そこに至る過去の今が、ここに存在している。
しかし、この時から十年後、遣唐使として唐に渡り、
日本の仏教界に衝撃的な登場を果たす事になる。
果てしない未来への道が続いていた。
生まれは 、宝亀五年(七七四年)
讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県多度津町)だと言われている。
だが、それも定かではない。
当時は「妻訪い婚」であったために、母方の実家のある畿内説もある。
父は郡司( こおりつかさ) ・佐伯直田公、
母は阿刀大足の娘(あるいは妹)と言われている。
この男はいつの間にか過去から歩き出した。
ようやく自分の足で「悟り」という自分探しの旅へ。
佐伯真魚
己の道を求めて…
その場所とは、一軒の小さな家であった。
あばら屋と言っても差し支えのない有様で、そこには老夫婦が住んでいた。
真魚がなぜ関わりたく無かったのか?
この老夫婦が、泣いていたからである。
真魚が丁度、この家の前を通り過ぎようとした時だった。
人の泣き声が聞こえて来た。
正確には感じたというべきか…
真魚に悲しみの波動が、伝わってきたのだった。
その時、この子犬が家の前でおろおろしていたのだ。
しかし、真魚はこの時、小さな過ちを犯してしまった。
「ほほう…」
その子犬に、一瞬でも興味を抱いてしまったのである。
その過ちが、真魚を再びこの家に戻すことになったのだ。
「なあちび、お前の主人はどこへ行ったんや…」
真魚が子犬に聞いた。
「く~~ん」
子犬は小さく答えたが、真魚には良く分からなかったようだ。
獣と話せる術といっても、実際に言葉を交わしている訳ではなく、
どうやら波動を読み取ってるらしい。
この子犬も、人の言葉を理解しているかは疑問である。
「気配はないな…」
「く~~ん」
悲しそうな子犬の鳴き声だった。
「嵐お前どこに行ってたんや!」
子犬の鳴き声に気づいたのか、一人の女が近づいてきた。
どうやら、先ほど泣いていた夫婦の婦人のようだ。
「お主は嵐と言うんか、良い名じゃな」
「あなた様はどなた様でしょう…?この嵐とどういう訳で…」
薄汚れた着物をきていても、真魚がただの男ではないと感じたようだ。
「一つ、お聞きしたいのだが…」
驚かさない様に、真魚は丁寧に訪ねた。
「はい、なんでござりましょう?」
女は怪訝そうに返事をした。
「この子犬の主人は今どこに?」
女は驚いた様子で答えた。
「どうして…如月の事を知ってござらしゃる?」
「この子犬が、どうも主人の事を心配している様でな…」
女は目を伏せた。
すると、その伏せた目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「如月…如月…」
女は何度もその名を呼んだ。
その度に、あふれる涙が、女の如月への愛情の深さを物語った。
「く~~~ん」
それは、嵐も同じであった。
「さらわれました…」
女は涙の間に、そう答えた。
「さらわれた…」
真魚は、ようやく事の次第が飲み込めた。
なぜ、子犬に興味を持ったのか。
なぜ、今ここにいるのか。
「誰にだ?」
真魚は更に尋ねた。
「この付近には、若い女が突然いなくなる神隠しが、昔からございまして…」
「それが、ここの所、頻繁に起こるようになって…ついに如月が…」
「さらわれたと、言うことやな…」
「誰の仕業か、なんの仕業かも全く分かりません!」
「皆は鬼じゃと言うてます…」
「私もその影を見ました!あれは確かに鬼でした!」
女が堰を切った様に話す。
「どうして鬼だと?鬼も人も形は似ている…」
真魚には不可解であった。
「角がありました…」
女がその根拠を言った。
「つっ角だと?!」
真魚は、吹き出しそうになったが、こらえてこう答えた。
「確かに鬼には角がある」
「だが、本当に恐ろしいのは姿や形ではない…」
「本当に怖いのは闇に取り込まれたものの心だ…」
真魚の答えは、核心に触れていた。
角があるからと言って、悪いものとは限らない。
女は黙り込んでしまった。
「まあ、おおよその見当はついた…少し心当たりもある…」
真魚がそう言うと、女の顔色が一変した。
「たっ、助けてくださるのですか?」
「どこにおるか分からんが、すべての手は打ってみぬとな…」
「まっ、それからの話だ…」
真魚は微笑んだ。
女の目から、再び涙が溢れ出した。
しかし、その涙は悲しみの涙では無かった。
如月が助かるかも知れないという、希望に満ちたものであった。
「お願いします!どうか如月をお願いします!」
「その代わりに私の方からも、一つお願いがあります」
「なんでございましょう!」
「私どもに出来ることなら、何なりとお申し付けください!」
女の声の波動が変わった。
「嵐をお借りしたい」
「嵐をですか?あんな子犬がお役に立つのですか?」
「こう見えても嵐はずっと心配しているんで…」
「その心が、想いが…如月に届くはずだ」
真魚はにこやかに言った。
「それに…なあ、嵐」
真魚は、嵐の頭をなぜながら話しかける。
嵐もその言葉に応えるべく、尻尾を振って真魚を見ていた。
闇が時を完全に支配していた。
異様なほど静かな夜だ。
そこは海に面した崖の上であった。
「なぁ嵐よ、美しい星空やな」
真魚の足下で、嵐も空を見ていた。
しばらくすると、夜が明けるだろう。
真魚は考えていた。
あの時のことを…
あの体験を…
「まっ、そういうことだな…」
僅か数ヶ月前。
真魚は、星と向き合っていた。
断崖絶壁。
その名にふさわしい場所であった。
虚空蔵菩薩求聞持法。(こくぞうぼさつぐもんじほう)
印を結び真言を唱えていた。
結跏趺坐。(けっかふざ)
岩の上に座ったまま、ぴくりとも動かない。
そろそろあたりが明るくなる頃だろう。
だんだんと小さな星達は消えていく。
だがその星だけは輝きを失わない。
それどころか更に光を放つ。
波の音が聞こえていた。
突然…
真魚の周りから一切の音が消えた。
何も無い空間に浮いていた。
感じているのは、宇珠だけであった。
しばらくして、真魚の身体が揺れ始めた。
それと同時に、眼前の星が迫って来た。
輝きを増し、真魚に向かってもの凄い勢いで迫ってきた。
あふれる光のエネルギーの宇珠。
真魚の身体を中心として、その渦が回転している。
真魚はすべてを受け入れた。
身体がばらばらになり砕け散った。
そこには真魚は存在してなかった。
無限のエネルギー。
人には決して量る事が出来ない。
すべてが満たされた。
空とはこういう事か…
虚空蔵を確かに飲み込んだ。
そう感じた瞬間。
あたりが急に暗くなった。
闇…
何もない。
いや…
ある。
そこには…
闇のエネルギーが渦巻いていた。
同時にすべてがそこにあった。
何と心地のよいものなのか。
しばらくすると、小さな光が所々に現れた。
それが、少しずつ集まっていく。
光の宇珠と闇の渦。
互いに惹かれ、耀いていく。
それがどんどん増えていく。
ひときわ耀く光。
闇の中を、光の渦が切り開いて浸透していく。
その光に小さな光が集まりだした。
どんどん輝きを増す。
それはどんどん大きくなり。
やがて…
爆発して膨張した。
あちらこちらで爆発が起こっている。
そして…
真魚はその爆発の中心に浮かんでいた。
ついさっきまでは、身体の存在にさえ気づかなかった。
光の宇珠の回転が遅くなるにつれ、身体も見える様になってきた。
だが、まだまだ透き通っている。
光の宇珠の中、所々で爆発が起こり、あたりが落ち着くと、身体が実体化した。
それと同時に真魚の身体は、もの凄い早さで引き戻された。
静かに目を開けた。
夢か?
幻か?
いや、違う…
この身体に溢れる物はなんだ!
生命。
感動。
真実。
すべてが真魚の中に満ち溢れた。
「なぁ、嵐よ」
「儚いものだな…」
嵐は真魚を見上げて言った。
嵐がその言葉の意味を、理解出来たかは分からない。
「さっ、行くか!」
そういって崖を降りようとした。
「お前には…無理だな」
そう言うと真魚は、どういう訳か赤い瓢箪を取り出した。
「しばらく、ここに入っておれ」
そう言うと、真魚は赤い瓢箪の蓋を取った。
すると、どういうことか…
嵐は瓢箪の中に吸い込まれてしまった。
「少し窮屈だが、怖い思いをするよりはましだ…」
そうつぶやくと、それを腰に縛り付けた。
「いくか!」
そう言って、真魚は命綱もなしに、その断崖を降り始めた。
普通であれば命がけの作業を、真魚はこともなげにやってのける。
そして、超人的な速さで崖の下に降り立った。
「嵐、しばらくおとなしくしてろよ」
そろりそろりと、あたりの様子を伺いながら、崖伝いに歩いた。
しばらく歩くと、真魚は立ち止まった。
「やはりな…」
岩の切れ間に、小さな光が覗いていた。
真魚は、懐から紙切れを取り出した。
「中の様子を知りたい…」
そう言いながら、紙を指で切り取り、何かをつくった。
「ふっ!」
人には聞こえない声で、使い神の真言をつぶやき、
その紙に息を吹きかけた。
すると、紙切れは命を得た蝶の様に飛んでいった。
真魚は目をつぶり、何か口元で唱えていた。
しばらくすると、先ほど飛んでいった紙切れが戻ってきた。
真魚がその紙を手取ると、ただの紙切れに戻った。
その紙切れを左手の掌に乗せ、右手の掌でその紙をなぞった。
「以外と多いな」
真魚はそう呟くと、腰の赤い瓢箪を取り出した。
「嵐、出番が来たぞ」
赤い瓢箪の蓋を取る。
その瓢箪の小さな口から、ところてんの様に「にゅう」と…
嵐が、その愛くるしい顔を覗かせた。
嵐は目をぱちくりさせていた。
無理もない。
子犬にこの状況を、理解出来るはずがない。
いや、人でも理解できるものは、ごく僅かだろう。
「よく我慢してたな」
そう言うと真魚は、赤い瓢箪の底をポンとたたいた。
にゅるりと、嵐の全身が現れた。
嵐はぶるぶると毛を震わせた。
「ついてこい」
真魚は嵐を連れて、そろりとその場所へ近づいていった。
そこは、隠れ家と呼ぶにふさわしいところであった。
入り口は大きな島陰に隠れており、周りは断崖絶壁。
命綱なしでは、降りることは出来ない。
船以外ではここに近づくことは出来まい。
しかし、船であっても、岩場がその進入を拒む。
秘密の経路を通らなければ、近づくことさえ困難であろう。
船は岩にぶち当たり、波に砕かれる。
知っている者だけが、たどり着ける場所であった。
「隠れ家としては最高の場所だな…」
真魚は、入り口と思われる洞窟に近づいていく。
幸い見張りなども見あたらない。
ここの環境が、油断させていることに違いない。
こんな場所に来る侵入者などはいない。
この男、佐伯真魚以外には…。
洞窟に近づくと、奥の方に所々に明かりが見えた。
真魚は、岩伝いに近づき、そのまま入り口に進入した。
「意外と広いな…」
入り口を入ると、ちょっとした広間のように空間になっており、
岩の壁には、様々な道具がぶら下げられていた。
道具と言っても、そのほとんどが武器と呼べるものの類だ。
奥にいくつかの入り口が見える。
その中は、複雑な迷路の様になっているようだ。
「嵐、いけ!」
真魚がそう命令すると、嵐はある入り口の方向に向かった。
「如月はそっちか」
真魚が向かおうとした時である…
「くせ者だ!みんな出てこい!!」
見つかった。
しかし、真魚に動揺した様子はない。
中からぞろぞろと二十人ほどの男達が出てきた。
そのもの達は、それぞれ手に武器を持っていた。
真魚の手には、いつの間にか例の棒が握られていた。
崖を降りる前までは、持っていたのだが、
ここに来たときには、消えていたのだ。
いつのまに、どこから…
その間を割って一人の男が現れた。
「ほう…」
真魚はそう言って、笑みを浮かべた。
「面白い!」
その男は鬼の面をかぶっていた。
一本の角が生えていた。
鼻から下は肌が見えている。
全体的には瑠璃色。
所々に金の装飾がしてある。
目の部分は穴が開いていて、そこから鋭い眼差しが真魚をとらえていた。
周りの男達よりも一回り大きく、眼光は力強さを感じる。
どうやら、こいつが首領であるらしい。
「その面はどこで手に入れた…」
真魚がその男に尋ねた。
面から不気味な妖気が感じ取れた。
「答える必要があるのか?」
男は鋭い眼光を真魚に向けた。
「ある…」
真魚は迷いもなく答える。
「若造、なかなか度胸がええな」
「気に入った、その度胸に免じて答えてやろう…」
男は真魚にその経緯を話した。
「あれは数年前になる…」
「この海の沖に難破船が流されてきた」
「ひどい嵐だった様で、生きていたものは少なかったな」
「その船は異国の船で、様々な品が積まれておった」
「金銀財宝はおろか、教典らしきものもたくさんあった」
「俺らはそんなものに興味はないから、ある商人に流してやった」
「もちろんそれなりの金はいただいたよ。」
「この面だけは気になって、いただいたのさ!」
「その面がどういうものかわかっているのか?」
真魚が話の間に入った。
「わからん!だがな、これを付けていると、力が湧いてくる…」
「どんなことも出来る様な、そんな力が…」
男は自慢げに答えた。
「鬼と間違われても、仕方あるまい…」
真魚は確信した。
「おまえは一体誰なんじゃ?」
低く静かな声で、鬼の面の男が言った。
「自分から名乗るのが、礼儀ではないのか…」
真魚に恐れなど全くなかった。
むしろ、楽しんでいるとしか思えない。
嵐は真魚の足下で、小さくなっていた。
「たいした度胸だな」
「俺はこの熊野一帯の海賊の長だ」
「名はなんだ?」
真魚が聞いた。
「幻龍齋」
「そうか、おまえが幻龍齋か…」
真魚はにやりとほくそ笑んだ。
「知っているのか俺を?」
幻龍齋は驚いた様子でそういった。
「小耳に挟んだだけだ…」
真魚が答えた。
幻龍齋も、恐れは抱いていない。
ただ、不気味に感じているようだった。
たった一人で敵の懐に飛び込んでくる…
この男…
「俺の名は、佐伯真魚だ」
真魚に恐れなどは微塵もない。
元々持っていないかのようである。
「真魚…どこかで…」
幻龍齋も、何かを感じていた。
その意識を振り払うかのように、声を張り上げた。
「真魚とやら、ここに何をしに来たのじゃ!」
「事と次第によっては命をもらうことになるぞ!」
真魚は動じる様子もない。
「如月という女がここにいるはずだ」
「ほう…それで…」
幻龍齋は、左手に持っている太刀に手を添えた。
「その女を返してもらおうかな…」
「なにを!!!」
何人かの男達が声を揃えた。
真魚はにやりとしながらこうも言った。
「その他の女もいただこうか!」
海賊どもは、ざわついた。
周りの男達は、今にも真魚に飛びかかろうとしていた。
「お頭、こいつをどうします?」
中の一人が言った。
「慌てることはない」
更に幻龍齋は真魚に尋ねた。
「どこまで知っている…」
「すべてだ!」
真魚はさらりと恐ろしい言葉を放った。
それは自らの「死」を意味する言葉であった。
男達の緊張が頂点に達した。
「ならば、ここから帰す訳にはいかんな」
そういうと、幻龍齋は太刀を鞘から抜いた。
「それは…どうかな…」
真魚はそういうとなにやら呪を唱えた。
「中に眠る荒ぶる神よ、今こそ目覚めよ!」
「そして、我に力を託せ、ならばその古の封印を解かん!」
そういうと真魚は、足もとでおびえている嵐の背中をたたいた。
一瞬、光がはじけた。
違う。
嵐の目が輝いたのだ。
金色にそれは輝いていた。
そして体も輝いていく。
今度は銀色に。
それと同時に躰が大きくなっていく。
膨れあがるエネルギーに膨張していくようだ。
そのエネルギーで大気が揺らめく。
揺らいだ大気が広がっていく。
更に溢れ出るエネルギー。
その勢いは止まることを知らない。
大気の震えが大地を揺らす。
嵐の躰が真魚の背丈ほどになった時、ようやくそれは収まった。
男達は息を飲んだ。
なにが起こっているのか、全く理解出来なかった。
ただ、どす黒い感情だけが湧き上がる。
恐怖。
不安。
絶望。
感情の渦が辺りに溢れていく。
ただ一人、真魚だけが笑っている。
「久しぶりの獲物じゃ~」
どこからか声が聞こえてきた。
「しかも、たんまりおるなぁ~」
野太い声。
それは、大きくなった嵐の口から出ていた。
「どうする?」
一応真魚は聞いてみた。
嵐は走った、こう答えながら。
「決まっているだろ!」
嵐は男達に向かった。
獣さえも超えたその速さは、凶器であった。
もぎ取られた。
腕を。
足を。
手を。
男達の訳のわからぬ悲鳴が続く。
あたりは血の海のはず・・・であった。
しかし、もぎ取られたと思っていた腕や足も、ちゃんと残っていた。
だが、嵐に襲われたもの達は、戦意を喪失し、
抜け殻のようになって呻いていた。
もぎ取られたものは、腕や足そのものではなく、
そこにまとわりつく物の怪だった。
それを繋ぎ止めていた、魂の一部が失われた。
男達の悲痛な呻きは、魂の呻きでもある。
正体を現した物の怪は、うごめきながら次々と嵐に食べられている。
真魚は、幻龍齋と向き合っていた。
「お主は…一体…」
「おおおぉぉぉ!!!」
幻龍齋は真魚に斬りかかった。
真魚は右手の棒を振った。
太刀と棒がぶつかる。
と思ったその瞬間…
太刀が折れた。
幻龍齋は前につんのめった。
その太刀は折れたのではなかった。
切れていた。
真っ二つに。
あるはずの衝撃がない。
その反動で、幻龍齋は前につんのめったのだ。
真魚の持つ棒が灼熱に赫き、幻龍齋の太刀を切り裂いたのだ。
更に、真魚の一撃が幻龍齋の腹をとらえた。
腹を押さえたまま、幻龍齋はうずくまった。
「すまぬ、終わりだ」
真魚はそういうと棒を振り下ろした。
幻龍齋の頭部をとらえた。
そのはずであった。
だが、なにも起こらなかった。
いや、数秒後にそれは起こった。
幻龍齋の鬼の面が割れた。
からぁん!
音を立ててそれは落ちた。
幻龍齋はしばらく動かなかった。
真魚は、人差し指を幻龍齋の額に当てた。
「これで呪縛が解けるはずだ。」
真魚は幻龍齋そのものに言った。
「うっ!」
幻龍齋は頭を横に振った。
「おっ、俺は…なにを…」
幻龍齋は夢から覚めた。
悪夢から…
面が外れた幻龍齋の顔は、意外に若かった。
真魚より十歳ほど上だろうか。
この若さで海賊の頭である幻龍齋自身も、相当の器であることは間違いない。
辺りを確かめるように見渡すと、
そこには戦意や生きる力さえ喪失した仲間の姿があった。
しばらくは誰も立ち上がることすら出来まい。
「才蔵!」
「吉助!」
「こっこれは一体…」
幻龍齋は何も覚えていなかった。
「すまぬ、俺の連れがちとやり過ぎたようだ」
真魚は、嵐を見ながら言った。
嵐は満足そうに、舌でぺろっとその口をなめた。
「何せ百年ぶりだったものでな…」
幸いといって良いのか、ただひとりとして命を落としたものはいなかった。
真魚は嵐に向かって言った。
「意外とお人好しか?」
「お主ほどではないわ」
嵐は戒める様に言った。
たった一匹の子犬の願いを叶えるために…
命をかけて…
海賊の隠れ家に来る奴のことを言っているのだ。
しかも、たった一人でだ。
「俺は女が好きなだけだ…」
真魚はさらりとそういった。
「そっ、その棒は…」
幻龍齋が、思い出したかのように訪ねた。
「これか?この瓢箪と一緒に、通りすがりの坊主にもらってな…」
幻龍齋は、真魚の言葉を聞き終わらないうちに手を差し出した。
「ちょっと見せてもらえぬか?」
「これをか?大丈夫かその身体で…」
そういうと真魚は、右手に持っていた棒を地面に立てた。
「決して持ち上げようとは思うな…」
真魚は念を押した。
幻龍齋は、棒に近寄るとそれを持った。
「なっ、なんという重さだ!」
「お主はこれを片手で持っていたというのか!」
幻龍齋は真魚の忠告を無視して、その棒を持ち上げようとしたのだ。
しかし、幻龍齋の力ではどうしようもなかったのだ。
「まぁちょっとしたこつがあってな…」
「まだ使いこなしてはいないがな…」
そういうと真魚はただの棒きれのように、軽々とその棒を肩に担いだ。
幻龍齋は思い出した。
「やはりそうか!それは確か、昔、神が使っていた棒では・・・。」
幻龍齋は聞いたことがあるらしい。
「そうか、これはそういうものか」
「あの坊主が持ってけとしつこく言うんでな」
数年前、真魚は一つの書物を書いた。
『聾瞽指帰』
様々な教えと、自身の思想とを比較した思想論的なものである。
様々と言っても、学んだものは限られている。
奈良時代後期、学問においては遣隋使、
遣唐使が、大きな役割を果たしたことは言うまでもない。
随や唐の学問が、『最先端』として取り入れられただろう。
儒教や道教なども例に漏れない。
その後、これらの流れを汲むものが生まれてくる。
陰陽道や、修験道の中にそれらの思想や考えを見ることが出来る。
それなりに学問には興味があった。
一通りのことは学んでいた。
「だが、もの足りない…」
何を学んでも、この渇きを潤すことなど出来なかった。
少年時代に出会った人々。
そこで感じた思い。
渇きの答えを、今の学問で見つけることが出来ないと思った時…
すでに飛び出していた。
閉ざされた世界には、もう自分の求めるものがない。
ならば…
この世界を飛びだそう。
そこには必ず道があると思った。
だが、そう易々と答えが見つかるはずがなかった。
そんな時。
一人の僧に出会った。
深い山の奥。
狭い道であった。
道に木の根や石ころが出ていた。
遠くの岩陰に一人の僧が座っていた。
瞑想をしているようであった。
長い間、そこにいたような風貌だ。
こんな山奥で人に出会うことは珍しい。
気にはなったが、やり過ごそうとしたとき…
呼び止められた。
「これ、若いの、待ちなさい」
僧は目を瞑っていた。
「俺のことか?」
真魚は、確認するように言った。
「お主以外に誰がおる」
その僧の言葉は深かった。
「お主を待っておったのだ」
「お、俺をか?」
滅多に動揺しない真魚が、この時は戸惑っていた。
「そうだ、お主を待っておったのだ」
僧は目を瞑ったままであった。
その僧に迷いはない。
それは、真魚にもわかった。
『嘘ではない、この僧の言っていることは…』
「迷うておるな…」
僧は真魚に言った。
「捜している…」
真魚は答えた。
「捜す必要などない!」
僧は言った。
真魚は、不思議な感覚に囚われていた。
話している様でそうではない。
『意識で直接会話している』そんな感覚であった。
会話する言葉以外に、その他の情報も意識の中に流れ込んでくる。
「お主の道は決まっておる…」
僧は言った。
「一つだけ聞いて良いか?」
真魚が僧に尋ねた。
「何が聞きたい」
僧は、目を瞑ったまま座っていた。
「どうして俺が来ることがわかったのだ…」
僧は、逆に真魚に尋ねた。
「では、どうしてお主はこの道を来たのだ?」
「!」
真魚は言葉が出なかった。
「それが答えだ」
真魚はこの時初めて、止められぬこの衝動を、
受け止めることの出来る存在に、出会ったのだ。
「さすがにこの俺も最初は苦労したよ」
真魚は、棒を見つめながら言った。
「大事にするんだな。この世に二つとない品だ」
「そうするよ」
真魚はほほえんだ。
その時。
「!」
真魚は、ふと不思議な感覚にとらわれた。
それは、肩に担いでいる棒から出ていた。
微かな振動。
エネルギーの波動。
そのどちらとも言えた。
共振共鳴?
その波動は、別の場所からも伝わってきた。
「ほう…」
真魚がその場所に行こうとすると、その波動は更に強くなった。
そこには、割れた鬼の面があった。
角が折れていた。
その角を、真魚は拾って手の平に乗せた。
その瞬間。
角が溶けた。
だが、それは溶けた飴のように形を留めてていた。
そして、少しずつ重力に逆らう様に玉になって行った。
しばらくすると、親指の先ほどの丸い瑠璃色の玉になった。
「そう言うことか…」
真魚は、これが何であるか理解したようだ。
試しに持っている棒に近づけた。
「ほう」
棒が波打った。
玉を近づけた部分を中心に、表面が水の波紋のように波打ったのである。
棒としての存在そのものは留めたままに…
「あのくそ坊主…」
そう言いながらも、真魚は笑みを浮かべていた。
そして、瑠璃色の玉を、再度棒に近づけた。
そして、躊躇いもなく手を離した。
玉は沈むように、棒の中に消えていった。
棒の中で、何かが発動する。
それが振動となって手に伝わった。
その瞬間…
棒の重さが増した。
「俺になにを…!」
その顔は行くべき道を確信した男の顔であった。
「女どもは返してもらぞ!」
「お主の名は」
幻龍齋が改めて問う。
「佐伯真魚だ」
「おまえのようなやつに会ったのは初めてだ。」
「俺は、唯一無二だ」
真魚はきっぱりといった。
「船を借りる、何人か漕ぎ手をつけてもらえるとありがたい」
「もっていけ!」
「おまえとはこんな形ではなく、友として出会いたかったな」
幻龍齋は笑っていった。
「もう友ではないか」
真魚は当たり前の様にいった。
「そうか…そうだな…」
幻龍齋は、おかしくて笑いそうになった。
「そうだ…」
真魚は念を押した。
女達を船に乗せた。
「おまえはでかすぎるな」
嵐を見て真魚がそういった。
「おい!まさか!おまえ!」
嵐がそういうか言わないかのうちに、真魚は真言を唱えた。
「おい!ばか!やっやめ~~~~」
その悲鳴とともに、嵐の躰が元に戻っていった。
子犬の嵐がそこにいた。
「この世には、不思議なことがあるものだ…」
幻龍齋はつぶやいた。
「なあ真魚、我らが必要な時はいつでも言ってこい!力を貸すぞ!」
別れ際、幻龍齋は真魚に言った。
「その時が来ればな!」
真魚は笑っていた。
真魚達の船が小さくなっていく。
「佐伯真魚、世の中には面白い男がいる…」
「世もまだまだ捨てたものではない」
「あんな男がいる限り…」
幻龍齋は船が消えるまでずっと見ていた。
岩陰。
幻龍齋のすぐ後ろの岩陰。
そこに、陽炎のように揺らめく闇があった。
それは、ゆらゆらと周りの空間と干渉していた。
「見たか?」
「ああ見た」
「見たぞ!」
「あれか?」
「あれだ、あれが佐伯真魚じゃ。」
「面白い」
「あれは面白い」
「早く会うてみたいものじゃ。」
闇の中。
幾つかの光る目が真魚を見ていた。
しばらくすると、陽炎が消えるようにその闇は消えた。
七里御浜。
十キロにも及ぶ砂利の浜だ。
五色の玉砂利が、小気味よい足音を立てる。
熊野灘の海のうねりが、荒波を巻き上げる。
その波の中を、泳ぐ魚が見える。
不思議な取り合わせであった。
一人の男と銀色の子犬。
お礼はいらぬから、子犬をくれと言った。
如月は残念そうであったが、目覚めたこいつを手に負えるはずもない。
「腹減ったなぁ~」
子犬がしゃべった。
「俺がこんな失敗をするとは…」
真魚は後悔していた。
嵐の中の荒ぶる神を目覚めさせた時…
目覚めさせた神と、意識がつながってしまったのである。
一度同調した意識は、そう易々と切れることはない。
「しっぱいしたなぁ~」
「腹減ったなぁ~」
「あそこでなぁ~」
「腹減ったなぁ~」
「なぁ真魚、これからもよろしくな!」
「うるさい!」
真魚はなにやら真言を唱えた。
「くっ苦しい~っ!おっお前いつの間にこんなゲェ~!」
嵐の首には金色の妙な形の首輪が巻かれていた。
「あのくそ坊主…」
「でも、これは使えるな!」
一人の男と銀色の子犬。
一人と一匹の奇妙な旅。
波の音はすべてを暖かく包み込んでいた。
第1話完
-この物語はフィクションであり、史実とは異なります。
実在の人物・団体とは一切関係ありません-