わけあって家を棄てたら魔術師の弟子になりました。
―― 月の明るい晩に、クロエは家と名前を棄てた。
メイドたちも寝静まる真夜中。
裏庭に面した三階の自室の窓を静かに開き、カーテンを裂いて作った紐を垂らす。紐を身体に巻き付け、滑り落ちないように十分に注意を払いながら壁を伝う。
音を立てないように、そっと裏庭へと降り立った。
季節は初夏。
本邸の庭の薔薇園からは、今が旬と咲き誇る薔薇たちの芳醇な香りが漂ってくる。夏の虫たちも鳴きはじめていた。
クロエはすぐさまポケットにしのばせた紙を広げる。月明かりに浮かぶのは、クロエの父であるファーロング伯爵の治める領地を簡略に描いた地図。
その地図をクルクルと上下左右に回す。キョロキョロと周囲を見回しながら確認をするクロエ。だいたいの方角に目星をつけると、もう一度だけ、五年のあいだ住んだ伯爵邸の離れを見上げた。
深く息を吐き出してから覚悟を決めて肯く。
それから両手でドレスの裾をつまみ、捲り上げると ── 隣国へと続く街道を目指して、伯爵家から遁走した。
(あれ? おかしいな……?)
峠道をしばらく走っては疲れて歩き、また走っては歩き、それを幾度も繰り返した。それでもまだ目当ての街道には辿りつかない。それどころか、周囲の木々は伯爵邸の周りを囲む防風林よりも鬱蒼と繁る。街道どころか森のなかに迷い込んでしまったような雰囲気だ。
(こっちの方角で合ってると思ったんだけど……)
木々の途切れた合間を縫って、月光の差し込む溜まりで地図を広げる。
またもや地図をクルクルと回しながら、ああでもない、こうでもないと頭を悩ませて確認をする。
(もしかして……?)
クロエは今さらながらにそのことに気がついた。
地図の東西南北の方角を逆さに見ていたらしい。
「あぁ……!」
額に手を当てて思わず天を仰いでしまう。
クロエは絶望的に地図が読めない。自慢にもならないが。
おそらく今クロエがいる場所は、街道とは正反対に位置するロックジェラルドの森 ── 通称は暗闇の森。
ここからまた伯爵邸にもどれば、もう朝の太陽が昇ってしまう。
クロエはすでに何時間も走ったり歩いたりしている。足も痛いうえに疲労も頂点に達していた。太陽が昇る前に伯爵邸までもどる体力は残ってはいない。
(朝になって明るくなったら逃げ出したことがバレちゃう……そうなると次はない……よね。せっかくの機会だったのに……!)
絶望的な気持ちで思わずため息をつくクロエ。
(どうしよう……お腹も空いたし、喉も渇いたな……。この森に宿屋や民家なんてないだろうし……。でも、一刻も早く森を出なくちゃ!)
そうは思っても気力も切れてしまい、途方に暮れてしゃがみこんでしまう。
ここまでの道には、街道にあるべきはずのそれらしい宿場の村はなかった。それを怪しむべきだったのに……。自分の迂闊さを悔いてもすでに後の祭りだった。
「……珍しい。森に人間がいるなんて」
背後の暗闇から突然に声がした。
クロエは心臓が止まりそうなほどにギョッと驚いて、すぐさま振り返る。
辺りにはしんと月光が降っているだけだった。虫の音も梟の鳴き声も途切れなかった。なんの気配もしなかったはずなのに……!
背後に音もなく忍びより、立っていたのは黒くて大きなひとつの影。
クロエの顔の上にかかる黒い影は月光を遮る。それを見上げながら、クロエはごくりと唾を飲み込んだ。あまりの恐怖に思考が麻痺する。早鐘のように胸の鼓動は脈を打つ。
(逃げなくちゃ……!)
麻痺した思考でもそれだけは身体に命令する。だが肝心の身体は恐怖に強ばってしまい、動かすことができなかった ──
✻
ファーロング伯爵家の次女であるクロエは、ファーロング伯爵の庶子だった。
下町で育ったクロエ。十二歳のときに母親と死別した。
母の葬儀にやってきたのは、その場に似つかわしくない立派な身なりの紳士 ── ローレンス・ファーロング伯爵その人だった。
ファーロング伯爵は悲しみにくれるクロエに「きみは私の娘だ」と告げた。
栗色の髪、灰色の瞳、少し垂れたやわらかな目元。通った鼻筋に口角の上がった口元。
確かにクロエの面差しは、ローレンス・ファーロング伯爵にそっくりだった。
ほかに身寄りのなかったクロエは、そのまま父であるファーロング伯爵に引き取られることとなる。
ファーロング伯爵家にはファーロング伯爵の妻とその子どもたちがいた。つまりクロエの継母と異母姉妹だ。
ヘラ・ファーロング伯爵夫人にとって、夫のかつての愛人であった女の娘であるクロエの存在は、もちろん面白くない。
クロエを引き取るにあたって夫妻の間でどんな話し合いが行われたのかは、クロエには知るよしもない。だが、自分が歓迎されていないことは、ファーロング伯爵夫人のよこす針のように鋭く冷たい視線で理解した。氷のような眼差しは異母姉妹たちも同様だった。
二つ年上の異母姉のルーネは魔術に長けていた。
二つ年下の異母妹のネルロは、切れ長の瞳がファーロング伯爵夫人によく似ていて、容姿に優れていた。
ふたりに挟まれたクロエはと云うと……。
魔術は使えない。父親似の容姿も愛嬌はあるが十人並。唯一の自慢は、身体の弱かった母親に変わって生計を立てるために、近所の雑用仕事を引き受けて走り回っていたことで培われた体力のみだった。
「ルーネお姉様はお父様の魔力を継いで炎の魔術が得意なのに、あなたは火花すら出せないのね」 とはネルロ。
「ネルロはお母様に似て美人だから。いずれは上位貴族のかたに見初められて、伯爵家の役に立つはずよ。それに比べてあなたときたら……」とはルーネ。
「体力だけが自慢なら、庭師と一緒に庭の草でもむしってきなさいな」とは継母。
唯一の味方であるはずの父は女三人の迫力に負けたのか、クロエの味方になることもなく、目を伏せて部屋を出ていくのみだった。
「最低限の教養もない」との理由で、クロエは貴族子女の通う学園には入学させてはもらえなかった。家庭教師をつけられて朝から晩まで貴族の言葉や作法、所作を学ぶ毎日。
ようやく伯爵家に引き取られて二年が過ぎたころには、なんとなく伯爵令嬢としての形にはなってきた。
その二年の間にクロエには語学の才能が開花した。実際には才能というよりも、努力だった。隣国の言葉を必死に覚えたのだ。なぜなら、この冷たい家族もどきから、窮屈な伯爵家から、母のいなくなったこの国から、いつか自由になるため。隣国へと逃げ出すためにだった。
魔術のほうはと云うと……一向に上達はしていない。ファーロング伯爵は王国の魔術師団に属している魔術師。だがクロエは、以前にネルロに云われたように、火花さえも出せるようにはならなかった。
「最低限の教養」を身に付けたはずのクロエだったが、学園に入学することはなかった。
ルーネとネルロの強力な反対に合ったのだ。
「私、こんな子が異母妹だと知られるのはイヤ! お願い、お母様、 クロエを学園には入学させないで!」
「私もイヤよ! クロエと一緒になんて通いたくない!」
ここでもファーロング伯爵は黙って部屋を出ていった。
ため息をついたファーロング伯爵夫人は「わかりました」と一言。
屋敷の離れに暮らすクロエには、引き続き家庭教師がつけられた。
本当のところ、実はクロエも学園には通いたくはなかった。血を重んじる貴族社会。半分だけ血を分けたルーネとネルロでもこの調子だ。学園の貴族のなかに放り込まれたら、どんな扱いを受けることになるのか……。
ルーネとネルロはいつもクロエに嫌なことをするが、このときばかりはクロエは二人を応援してしまった。
そしてクロエがファーロング伯爵家にやってきてから、五年の歳月が経ったある日 ──
「クロエ。あなたの嫁ぎ先が決まりました」
本邸に呼び出されたクロエに、ファーロング伯爵夫人は感情のない声で告げた。
「バージェス侯爵の後添いです。今からひと月後にバージェス侯爵領に向かいます。それまでに荷物をまとめておきなさい」
(バージェス侯爵……って、まさか、あの!?)
バージェス侯爵はファーロング伯爵よりもかなりの年長だ。粗暴な態度と女好きで有名で、最初の夫人と死別してからすでに五人は夫人を変えているらしい。財にものをいわせて愛人も囲っていて、夫人に飽きると追い出して離婚したり、夫人のほうから出ていったり、なかには行方不明になった夫人もいるとかいないとか……。
社交界に出ることはないクロエでも名前を知っている。メイドたちが噂をするのを聞いていたから。「バージェス侯爵様はまた新しい結婚相手を探しているのですって」と。
クロエは青ざめてファーロング伯爵に助けを求めた。
だが ── ファーロング伯爵はまたもや何も言わずに、目を伏せて部屋を出ていってしまった。
「まあ! あの有名なバージェス侯爵様に嫁げるなんて! クロエ、あなたは幸せ者ね。なんていったって平民が貴族に嫁げること自体が幸運なんですもの!」
「そうよクロエ。よかったわね! これであなたも侯爵夫人なのよ。離縁されないように、せいぜいがんばってね!」
意地の悪い笑みを浮かべたルーネとネルロを黙らせるどころか、ファーロング伯爵夫人はクロエに冷たい視線を向けた。
「もし離縁されても、もうファーロング伯爵家には、あなたのもどる場所はないものと思ってちょうだい」
「はい……」
クロエが嫁ぐことによって、ファーロング伯爵家にはなにかしらの恩恵がバージェス侯爵家からもたらされることは推測がついた。おそらく上位貴族との縁だろう。
その上にファーロング伯爵夫人と異母姉妹たちにとっては、クロエを厄介払いができる願ってもない申し出だったに違いない。
父親よりも年かさの、粗暴なうえに好色と悪評の高い侯爵。その男に、クロエは売られたも同然だった。
クロエはついに決心した。
いつかは今だ。
今こそ、家も名前も、すべてを捨てるのだ。
✻
青白い月明かりの降るロックジェラルドの森のなか、クロエの背後に突如として現れた黒い影と思われたものは、黒いローブを纏ってフードをかぶった長身の青年だった。
パサリとフードをはずすと長い銀髪がこぼれる。月の明かりの下でもわかる薄く青い瞳。不健康そうに青白い面長の輪郭。
薄青い双眸に見つめられて、クロエはゾクリと背中に悪寒がはしった。瞳の色は海の宝石のように美しいが、まるで底のない沼のようにも思えた。
はたして、青年は魔物か幽霊か盗賊の類いか ──
なににせよこんな真夜中に、「暗闇の森」をうろついている輩なんてロクなもんじゃない。
クロエは自分のことを棚に上げて考えた。
青年は上から腕を伸ばすと、クロエからさっと地図を取り上げる。地図とクロエをジロジロと見比べた。
「へえ……。もしかしてファーロング伯爵の屋敷から来たの?」
「あなた……誰?」
やっとのことで声をしぼり出したクロエ。言葉は小さくて、震えていた。
「人に名を訊くときはまず、自分から名乗るものだよね?」
薄青い瞳はクロエを見下ろす。
「わ、わたしは……クロ……クローディア」
クロエは咄嗟に名前を変えた。家を出たのだから「クロエ」という名前は使わないほうが賢明だし、本当の名前は教えてはいけないような気もした。
「クローディア……ね。私はネモ」
「ネモ……あなた……盗賊?」
怯えてネモを見上げるクローディアの問いかけに、ネモは面白そうに笑う。
「盗賊? そんな輩だったら声などかけずにこうだよ」
ネモは親指を使い、自分の首に真横にさっと線を引いた。
✻
「もどったよ」
「お帰りなさいませ。ご主人様」
ネモの屋敷の玄関広間の天井からは、たくさんの蝋燭が螺旋状の円形に吊るされていた。それらは本物の炎ではない。蝋燭の先には魔術を使った光を、まるで昼間の太陽のように煌々と灯していた。
ネモに深々と腰を折ったのはまだ歳若い執事の青年。とはいっても、クローディアよりも少しだけ年は上のようだ。
執事の青年の顔の左半分は包帯で覆われていた。怪我をしているのか、傷痕を隠すためなのか。包帯で覆われていない右側の顔の色は主人のネモと同じか、それ以上にとても青白い。その青白い肌は陶器でつくられているかのように滑らかそうにみえた。
青年が端正な顔立ちをしているということは、包帯に覆われていない右側半分でも十分に判った。
「客人を連れてきた。彼女はクローディア。冷たい飲み物でも頼むよ」
「かしこまりました」
そのときにクローディアのお腹は、丁度よくググゥ~と大きな音を立てた。
クローディアは慌ててお腹に手を充てて押さえてみるものの、すでに遅い。走り通しでお腹も空いていたし、喉も乾いていた。食べ物を催促したようで、クローディアは恥ずかしさのあまり頬が熱くなるのがわかった。
「ご、こめんなさい。ずっと走ったり歩いたりしていたから……」
「こちらこそ気が利かなくて申し訳ないね。なにか食べるものも」
ネモに申し付けられた執事の青年はふたたび「かしこまりました」と肯いてから、客間にクローディアを案内した。
「クローディア様。ただ今お食事をお持ちいたしますので。お掛けになって少々お待ちください」
「あの、ありがとうございます。えっと……」
クローディアはぺこりとお辞儀をする。執事の青年はにこりと微笑んで言った。「私はセシルです」
「ありがとうございます。セシルさん」
セシルが部屋の扉を締めて出ていくと、クローディアは遠慮がちにソファに腰を掛けた。疲れがどっと押し寄せてくるのを感じる。身体が重くて、ふかふかのソファに全身が沈んでしまいそうだ。
(まさかこんなことになるなんて……)
客間の天井を見上げたクローディアは、ほっと息をついた。
クローディアが迷いこんだのは、ファーロング伯爵領の北側に広がるロックジェラルドの森。通称「暗闇の森」と呼ばれる森林地帯だった。その背後には険しい山脈が連なっている。
クローディアが目指していたのはファーロング伯爵領の南側を横切って隣国へと抜ける街道。だが、実際には正反対の峠道を進んでいたらしい。それもこれもすべて、絶望的に地図を読めないクローディアのとんでもない方向音痴のせいだった。
ネモは自分をロックジェラルドの森に住む魔術師だと言った。
今夜は術に使う月の光を集めに、森のなかの月光が溜まる場所にきたという。
「クローディア。なんできみはこんな真夜中にこの森にいるの?」
ネモが盗賊ではないとわかると、クローディアの緊張は少しだけ解けていた。
本当は南側の街道を目指していたのに、道を間違えてしまったことを話した。
「へえ……それはそれは、壊滅的に方向音痴だね」
ネモは気の毒そうにも呆れたようにも取れる苦笑を浮かべてから、「ところで、森にはすぐに入れた?」と訊ねた。
クローディアには質問をされた意味が分からなかった。すぐに入れるどころか、気がついたらこの森にいたのだ。
「なるほど……」
その答えにネモは、顎に指を充てるとなにかを考えている様子だった。
「とりあえず、真夜中の森のなかにきみをひとりで放っておく訳にもいかないな。今夜はもう遅いから私の屋敷にきたらいい。飲み物もある」
ネモに対する警戒をすっかり解いたわけではなかったが、とにかく疲れきっていたクローディア。ここは素直にネモの好意に甘えることにしたのだった。
間もなくセシルがパンケーキと冷たいレモネードを客間に運んできた。
「お待たせしました。どうぞお召し上がりください」
心地よいソファに身体をもたせてうつらうつらと眠りかけていたクローディアだったが、パンケーキの芳ばしくて甘い香りにぱっと目が覚める。
「わあ、美味しそう。ありがとうございます!」
満月のような色と形のパンケーキにはバターと蜂蜜がたっぷりと掛かっている。ナイフを通すと、表面の生地はさくっと切れて、なかはフワッと柔らかだ。立ち上る湯気さえも微かに甘くて、美味しい匂いがする。
「いただきます!」
さっそくフォークを使って口に運ぶ。蜂蜜の濃密な甘さとバターの旨味、小麦の優しい香ばしさが口のなかいっぱいに広がった。
「美味しいですぅ」
思わず頬に手を充ててうっとりと味わうクローディア。セシルは「私が作りましたので……お口に合ってよかったです」とほっとしていた。
「セシルさんが? 料理人ではなくて?」
今度は冷たいレモネードのグラスを手に取り、クローディアは訊ねる。
「はい。この屋敷にはご主人様と私しかおりませんので」
セシルから聞いたところによると、ネモの屋敷には使用人は執事のセシルしかいないらしい。ネモと同じでセシルも魔術が使える。たいていのことは魔術を使えばことが済むために、ほかの使用人を召し抱える必要はないとのことだった。
「あ、でも、料理だけは私が魔術を使わずに作っているのです」
だからクローディアに美味しいと云われて嬉しかった、とセシルは言った。
クローディアは気になっていたことを訊いてみる。
「あのぅ、この森に住んでいる人がいるなんて知らなかったのですが……」
「暗闇の森」と呼ばれるロックジェラルドの森。
明るくて透明な、燦々とした陽の光にあふれる夏の盛りでも、もちろん灰色の雲が低く垂れ込める仄暗い真冬でも、鬱蒼とした木々が生い茂る森は光を遮断するように、空の下にまるで真夜中のような真っ黒な姿を横たえる。
魔界に通じる森、迷いこんだら魔獣に喰らわれる森、死者の魂が彷徨う森、森に入った人間は二度と帰れない森、近づくだけで錯乱してしまう森 ──
そんないろいろな噂がある森だ。背後には険しい山脈も聳えているために、木こりでさえ、この森には近づかない。
それでもファーロング伯爵家の代々の当主たちは、森の木々を切り倒すことや焼き払うことはしてこなかった。
(きっと誰もロックジェラルドの森にネモさんたちが住んでいるなんて思いもしないでしょうね)
セシルはクローディアの質問に、もっともですと大きく肯く。
「普通の人間はこの森には近付こうとも思わないでしょう。ですので知らなくて当然です。私がご主人様にお仕えして以来、クローディア様が初めてお屋敷にお迎えしたお客様なのですよ」
✻
翌朝にクローディアは、小鳥のさえずる声に目を覚ました。外はすでに明るい。
ベッドを降りてカーテンをひく。窓の桟に止まっていた小鳥たちがぱっと翔び立った。
クローディアは窓を開けてみる。
早朝の森の空気は透明な朝陽を浴びて、涼しく澄んでいる。
目の前に広がる森の緑は濃い色や若葉のように明るい色もあり、緑といってもさまざまな色があることを知った。その美しい濃淡は、時間を忘れていつまでも眺めていたいほどだ。
クローディアは夏咲きの花の香りを含んだ空気を胸いっぱいに大きく吸い込む。青くて甘い、自然の味がした。
(なんてきれいな森。この森にあんなに恐ろしい噂があるなんて嘘みたい……)
森を眺めているクローディアの腕に白い小鳥が飛んできてとまった。さっきカーテンを開けたときに逃げていった小鳥だろうか。
「おはよう。小鳥さん」
ピピピッ。ピピッ。
小鳥はクローディアに応えるように、小さな首をかしげて鳴いた。
身支度を整えて二階の客間を出る。踊り場のある階段を降りていくと、一階の奥の部屋からカタカタとお湯の沸く音がする。覗いてみるとそこは厨房だった。黒いスーツに黄色いエプロンを付けたセシルが、釜戸の火の上でフライパンを振っている。
「おはようございます。セシルさん、なにかお手伝いします」
「おはようございます、クローディア様。お早いですね。どうぞお気になさらず、朝食までゆっくりとお過ごしください」
振り向いたセシルはそう言った。
「いえ、なにか手伝わせてください。昨夜の美味しいパンケーキのお礼もしたいので」
「いえいえ、とんでもございません。クローディア様は大切なお客様ですから」
セシルは忙しそうにフライパンからベーコンを取り出した。卵を片手で器用に割り、次々にフライパンへと落としていく。
「でも……」
クローディアが言いかけると、セシルは「では」と提案した。「ご主人様さまのお茶のお相手をしてくださいますか?」
セシルによると、ネモは夜から朝方にかけて魔術の研究をする。朝はお茶を飲み、軽い食事をしてから夕方まで眠るそうだ。
(あんまり日光には当たらないのね。だから二人とも顔色が悪いのかしら?)
セシルに教えられた食堂を覗くと、すでにネモがテーブルについていた。紅茶の芳しい香りが漂っている。
食堂の壁の一部は温室のようにガラスが張ってあり、朝の光が室内に取り込まれていた。
天井やほかの壁には茎を紐で縛り、束にした植物が逆さに吊り下げられている。
ネモは昨夜の黒いローブではなく、深い紺色のゆったりとしたローブを纏っていた。
「おはようございます」
声をかけるとネモが振り向く。
「やあ、おはよう。昨夜はよく眠れたかい?」
長い銀の髪はひとつにまとめて、耳の横でゆるく編まれている。
闇夜の森では底なし沼のようだと感じた薄青い瞳は、陽光の下では海の色の宝石そのものだった。紺色のローブの色にとても映えている。明るい光の下ではがらりと印象が変わることにも驚いた。
すっきりと通った鼻梁と形のよい唇、細面の輪郭。顔色はやはり青白いが、朝の光の下では彫像のように美しい。
クローディアはネモのやわらかな微笑みに胸がドキっと高鳴ったような気がする。ファーロング伯爵邸の薔薇園に飾られた、美しい天使の像を思い出していた。
「はい。ぐっすりと眠れました。ありがとうございました。おかげさまで助かりました」
ぺこりと頭を下げるクローディア。
ネモは向かいのテーブルを示すと、クローディアに「どうぞ」と着席をうながした。
ネモは長く白い指をパチンと鳴らす。するとテーブルの上の白いティーポットが浮き上がる。クローディアの前にトコトコと歩いたように移動してきたティーカップに、意思を持つようにして紅茶を注いだ。
(本当に魔術師なんだわ)
感心して興味深くその光景を眺めるクローディア。
「ところで……昨夜の話の続きだけど。なぜ夜中に護衛も付けずに、女の子がひとりで南側の街道に向かおうとしていたの?」
「……あの、それは……」
ネモの口角は上がり、唇にやわらかな微笑みを浮かべている。だが、薄青い瞳はじっとクローディアを観察していた。
ネモの口調は穏やかだった。それでも誤魔化すことのできない圧を感じた。
(素直に話すべき? でも、ファーロング伯爵家に連絡されてしまったら……)
クローディアは迷って言い淀む。ネモは続けた。
「クローディア。きみはファーロング伯爵家の令嬢だよね?」
(……どうして……それを?)
「簡単なことだよ。その身なり。どう考えたって平民の娘じゃない。それに、私はファーロング伯爵殿を知っている。きみは彼に面差しが似ているからね」
クローディアが表情だけで訊ねた疑問になんでもないことのように答えると、ネモは「さて、それで」と、さらに続ける。
「私はどうしたらいいのかな? ファーロング伯爵家にセシルを向かわせるべき? それとも南の街道まできみを送るべき? それとも……」
クローディアは観念した。
ファーロング伯爵家を逃げ出した理由。それをとてもじゃないが隠し通せる気はしなかった。ファーロング伯爵を知っているのなら、この森に隠れるようにして住んでいても、ネモはそれなりの情報を持っているはず。嘘をついて理由を隠したとして、嘘がバレたら信用を失ってしまう。すぐにセシルをファーロング伯爵家に向かわせるだろう。
それに昨夜はクローディアを助けてくれた。その恩もある。嘘をつくような不義理はなるべくしたくない。
「きちんとお話しします。だから、どうかお父様……ファーロング伯爵家には連絡をしないでください。お願いします」
クローディアはテーブルに額がつくほど頭を下げた。
「まあ、事と次第によるかな。とりあえず、理由を聞かせて?」
クローディアは顔を上げると、まっすぐな灰色の瞳でネモを見つめた。
✻
「なるほどねぇ……」
クローディアの話を聞き終えると、ネモは腕を組み、なにかを考えるように空中に視線を彷徨わせる。それから「どう思う? セシル?」と、いつのまにか朝食のプレートを銀の盆に載せて運んできていたセシルに意見を求めた。
セシルはハラハラと涙を流している。
「クローディア様がそんな目に合っていらしたなんて……! おかわいそうです! ご主人様! どうかクローディア様のお力になってあげてくださいませ!」
さめざめと泣きながら人差し指をくるりとひと振りするセシル。すると銀の盆がセシルの手を離れ、勝手にテーブルを回る。ベーコンや目玉焼き、焼きたてのパンに新鮮な野菜のサラダが載ったプレートを配膳した。
セシルはチーンとハンカチで鼻をぬぐう。
「あ、あのぅ、セシルさん、大丈夫ですよ。そんなに泣かないで下さい。食事もきちんと食べさせてもらえて、いろいろと学ばせてもらいました。住むところもあって、衣食住には困りませんでした。むしろそのことについてはお父様には感謝をしています」
クローディアのその気持ちに嘘はない。
もし、ファーロング伯爵に引き取られていなかったら ──
まだ子どもだったクローディアは、食べていくだけで精一杯だったかもしれない。住む場所を失くして、路上で生活をしていたのかもしれない。もしかしたら奴隷商に拐かされて、奴隷として売られていたかもしれない。
ただ、クローディアが本当に欲しかったものは、そこに含まれていなかっただけなのだ。
セシルは再びぶわりと大粒の涙を流した。左側の包帯は、もう涙でびしょ濡れだった。
「だけど、今回のことはどうしても……。恩は返せないままですが、もとよりいつかは家を出ようと決めていました。それが今だと思ったのです」
クローディアのその心に迷いはない。
「ふむ……」
ネモはしばらく考えてから口を開いた。
「南の街道から隣国へ抜けても、女の子ひとりで生活していくことは大変だよ? 住む場所や言葉はどうする? 働かなければ食べていくこともできない。当面の生活費はあるの? それに危険なことに対処はできる?」
「……言葉はなんとかなります。勉強したので」
「ほかには? 知り合いがいるとか、なにか仕事や住む処に当てはあるの?」
「それは……」
クローディアは黙りこんでしまった。ファーロング伯爵家に引き取られてからは、外に出たことなどほとんどない。国内にも隣国にも、いざという時に頼れる知り合いなどいるはずもなかった。
「ねぇ、クローディア。私はさっきファーロング伯爵家にセシルを向かわせるべきか、それとも南の街道まできみを送るべきか。それと、もうひとつを考えていたんだ」
「もうひとつ……?」
「そう」
ネモはゆっくりと口角を上げた。
「きみさ、私の弟子になるといい」
「えっ……? 弟子……ですか?」
思いもかけない言葉にキョトンと呆けたクローディアに、ネモはゆっくりと肯く。
「そう」
「え、あの、でも、わたし、魔術は使えなくて」
「クローディア、手をだして」
戸惑いながらもクローディアはテーブルの上に両手を載せた。
ネモの白い両手がクローディアの両手を包み込む。
「あの……?」
「目を閉じて。ゆっくりと息をして。身体の緊張を解いてごらん」
訳は分からないままだったが、クローディアはおとなしくネモに言われたとおりにした。深く息を吸って、それからゆっくりと吐き出す。それを数回ほど繰り返す。
するとだんだんと、ネモに包まれた両手の爪の先から温かくなる。その温かさが腕に伝わり、胸に、頭に、腹部に順番に伝わってきた。足の先へと温かさが到達すると、森の緑の風がさぁっと身体を吹き抜けたように爪先から温度が抜けていった。
(なんだろう……。身体がとっても軽くなったみたい)
「目を開けて」
クローディアが瞼を開くと、ネモは握っていた両手を離した。
「今のは……?」
「魔力の通り道を整理した。きみは魔力の回路が多すぎて複雑に絡み合ってしまっていた。そのせいできちんと魔力が身体を流れていなかったんだ。これで魔術が使えるようになるはずだよ」
ネモはさらりと告げる。
「さあ、私の弟子を断る理由は消えたね」
「でも……ご迷惑では?」
「迷惑だったら最初から提案してないよ。当てもないまま国を出て、結局は娼館の扉を叩くことになるか、野垂れ死ぬことになるよりもいい選択だと思うけど」
(う……。否定できない……)
ネモのいう通りだと思った。
クローディアには手に特別な職があるわけでもない。なにか当てがあるわけでもない。
隣国へと逃げることだけしか考えていなかった。それからどう生活するかまでは案がなかったのだ。
ここでネモの弟子として魔術の修行をつめば、いつかは魔術師としても、一人前の人間としても、ひとり立ちすることができるかもしれない。
ちらりとセシルを窺う。仔犬が嬉しくて尻尾を振るように、首をぶんぶんと上下に振っている。ネモの提案を全肯定だと激しく同意していた。
(今のわたしにとってはもったいないほどのお話よね。だけど……)
クローディアには気がかりなことがひとつあった。それは、ファーロング伯爵家からの追っ手だ。今ごろファーロング伯爵夫人は伯爵邸の者たちに、クローディアの捜索をさせているはず。あの冷たい瞳を思い浮かべると身体が震えた。
ファーロング伯爵夫人にとっては、クローディアをバージェス侯爵に嫁がせることでのファーロング伯爵家への恩恵はもののついで。それよりも、かつて夫の心を奪った憎いクローディアの母親への復讐を、娘に肩代わりさせる絶好の機会なのだ。その機会をみすみす逃すような真似はしないだろう。
隣国へと逃れたのなら見つかる可能性は低いと考えていた。だが、ここはファーロング伯爵邸からそれほど遠くはないロックジェラルドの森。もし、ここにいることが知られたら……。バージェス侯爵に是が非でも嫁がせるために、無理矢理に連れもどそうとするに違いない。それはネモやセシルに迷惑をかけてしまうことになる。
「とてもありがたいですが、ファーロング伯爵夫人が諦めるとは思えません。やはり……」
「おそらくファーロング伯爵家は、きみを探せない」
ネモはふふっと意味深長に微笑む。
「実はね……このロックジェラルドの森にはちょっとした秘密がある。昔からこの森にまつわる色々な噂が流れているのは知ってるよね? 人間がむやみに森に近づくといけないからだけど……。だからよほどのことがない限りは、私の屋敷は一番の安全地帯だよ」
(森の秘密?)
「今はまだ内緒。まあ、そのうちに教えてあげるよ」
ネモは人差し指を唇に充てた。
クローディアはネモの語ったロックジェラルドの森の秘密も気になったが、それ以上に、ファーロング伯爵夫人にはクローディアを探せないという言葉に小さな期待も見いだしていた。
(それなら……お世話になってしまってもいいのかしら?)
クローディアはネモとセシルを交互に見つめる。家を出るという覚悟は決めていたものの、寄る辺もなく、不安定だった自分の未来。そこに希望という名の種から、ちょこんと芽が吹いた気がした。思わず灰色の瞳が潤んでしまう。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
クローディアはそっと目尻を拭った。
✻
ネモの屋敷に住み込むことになり、魔術師の弟子としての修行をはじめたクローディア。最初に通された客間はクローディアの部屋に割り当てられた。
まず最初は、身体の内にある魔力を全身にくまなく廻らす練習から。それが上手く調整できるようになったら次は魔術式の基礎を学ぶ。
師匠であるネモは夜間に魔術の研究をしているため、クローディアの授業はネモが起きてくる夕方に始まる。終わりはネモが自分の研究室に籠るまで。ネモが眠っている昼間は、魔術書を読んでの自学になる。どうしても分からないことがあるときにはセシルに教えてもらったりもする。
満月や月の光が明るい晩には、ネモはクローディアと出会ったときのように、月光や夜の霧などを集めるために森へと入ることもあった。
今ではときどきは森への採集にクローディアも同行する。
ネモの目当ては「夜光花」だ。月の光が溜まる、森の拓けた場所に咲く花。白い三枚の細長い花弁に月光と夜霧を貯めて、うっすらと光っている。季節を問わずに咲くために使い勝手のよい材料らしい。
夜光花をどこかで見たことがあるような気がしたクローディアは、屋敷の食堂の壁に束にされて吊り下げられていたことを思い出した。
「月光と夜霧はどうやって使うんですか?」
「うん? 例えば治癒薬や回復薬。乾燥させた夜光花ごと少しくわえると、くわえていない物と比べても品質が安定して長く効くようになる。それからほかにも、純粋な月光だけを取り出して炎と組み合わせると、やわらかな光になる。使い方はいろいろあるよ」
ネモはクローディアのするさまざまな質問にも丁寧に答えてくれる。
ネモの指導と本人の努力によって、クローディアの日々の成長は目覚ましかった。今まで魔術が使えなかったぶんを取り戻すように、クローディアはみるみるうちに知識と技術を吸収していく。
ファーロング伯爵と異母姉のルーネは火の魔術を得意としていた。一方、クローディアは土の魔術と相性がよい。
「やっぱりだ。魔術属性との相性は天性のものが大きいからね」とネモ。
「やっぱり?」
「そう。このロックジェラルドの森には古の呪いがかけられていてね、森が自ら受け入れる者を選ぶんだ。森に入ることができるのは、森にかけられている呪いと相性のよい魔力の質や属性を持つ者。それと、めったにいないけど、よほどの執念を持って森に入ろうとする者。それだけだから」
クローディアはあの月の明るい晩に『ところで、森にはすぐに入れた?』と、ネモに訊ねられたことを思い出した。
気がついたらこの森のなかへ迷いこんでいたと答えると『なるほど……』と、ネモはなにかを考えている様子だった。
ネモはクローディアの魔力の適正を見抜いて弟子へと勧誘したのだ。
「ネモさんには初めから解っていたんですね」
ネモは薄青の瞳を弛めると、優しくクローディアを見つめる。それから「私は優秀な魔術師だからね」と微笑った。
ネモに魔術を習い始めてから半年が経つころには、クローディアは土の魔術の基礎概論はほとんど習得していた。
季節はとうに夏を過ぎて、すでに晩秋に変わっている。森の木々の一部は葉の色を美しく燃やして、クローディアの目を楽しませてくれる。
セシルは商人に扮して、年に二回ほど街に出ていた。ネモの調合した治癒薬や回復薬などを騎士団や薬師に卸し、生活に必要な食材や雑貨を調達してくる。しかし森に住む者としてはそれだけでは足りない。これからやってくる本格的な冬の支度をしなければならないのだ。
陽の高いうちは、クローディアはセシルと一緒に森を歩くことが多くなった。
セシルは森の動物を魔術で狩ることもある。だが三人が必要とする以上の殺生はしない。
クローディアは茸や山菜、木の実や果実などの森の恵みを収穫したり、暖炉に使う乾燥した木の枝などを集めた。
「クローディア様、その籠は私が持ちます」
「大丈夫ですよ。わたし、体力だけには自信がありますから」
それでもセシルは籠を持ってくれる。
クローディアは低い木に鈴生りになっていた実を籠いっぱいに収穫していた。実はルビーのように赤く、小指の先ほどの大きさだ。
セシルによると、この赤い実は「ココの実」と云って栄養価がとても高いらしい。
クローディアは試しに摘みたての果実を噛ってみた。ぽよんとした弾力のある果肉はほんのりと甘く、細長い小さな種は実の真ん中にあった。
「美味しい」
「そうでしょう。ロックジェラルドの森の冬にはかかせない食材なんですよ」
煮詰めてジャムにしてもいいし、スープや肉料理の付け合わせにも合う。乾燥させれば冬の間の保存食にもなる。
たわわに実った木の実や果実を目当てに、リスやウサギなどの小動物たちも姿をみせた。彼らはクローディアがおいでと手招きをすると、最初はじっと観察をするように動きを止めてから、ゆっくりと近づいてくる。クローディアの膝の上で木の実を忙しなく頬ばり、甘えるように身体を擦り付けてくつろいだ。
「みんな、たくさん食べるのよ」
ときには大型の獣たちに遭遇することもあったが、それでも彼らはクローディアに危害を加えることはしない。
セシルはその様子を感心したように見守った。
夜光花の採集のためにネモと一緒に真夜中の森に入るときには、厚手のローブが必要になった。吐く息も白く浮かぶ。秋の虫の音色も消えていた。
「ネモさん、ほら、あの木の根元にたくさん咲いてます」
「新しい群生地だ。クローディアは夜光花を見つけるのが上手くなったね」
ネモはクローディアを褒めるときには、幼い子どもにするように頭を撫でた。
「もうっ! 子どもじゃないですってば」
ぷくりと頬を膨らませてネモの手を払うクローディア。ネモはそんなクローディアを楽しそうに笑って見つめた。
雲のかからない夜には、木々の切れ間から空を見上げる。ネモは天に輝く星々の名前や運行、見つけ方、星による占術や方角を知る方法なども教えてくれた。
冷たい夜気にかじかんだ手を擦り合わせていると、ネモは「ほら」と手を差し出す。冷えきったクローディアの手をつないでくれるのだ。
クローディアはもう暗い夜のなかでも薄青い瞳を怖いと思うことはない。
いつの間にかクローディアにとっては、ネモと二人で森に採集に出ることは大きな楽しみとなっていた。
魔術の勉強をしてセシルの仕事を手伝い、夕刻からはネモに教えを受け、ときにはネモと一緒に夜の森へと入る生活はとても充実していた。
ファーロング伯爵家に引き取られて以来、あの家ではクローディアの心は安らぎで満たされることなど決してなかった。常に素顔を隠す仮面をつけ、感情に頑丈な蓋をかぶせた。鋭い棘に傷つけられることから心を守っていたのだ。
ネモとセシルはクローディアを意図的に傷つけるようなことは決してない。
彼らは血を分けた肉親ではない。それなのに森に迷った見ず知らずの赤の他人のクローディアに同情し、弟子として友人として、快く迎え入れてくれた。母を亡くしたクローディアにとっては、人の温かさを思い出させてくれたネモとセシルだけが家族と呼べる存在となっていた。
温かい愛情に護られた生活は満ち足りていた。もう素顔を隠す仮面も、感情を守る蓋も必要はない。クローディアは下町で母と二人で暮らしていたときのように、心からの笑顔を取りもどすことができた。
✻
空一面を覆う灰色の空から、本格的な冬の使者がチラチラと舞い降りたその日 ──
正午の鐘を屋敷の時計が鳴らす前。
玄関扉を激しく叩く者たちがいた。
クローディアは食堂で魔術書を開いていた。同じく食堂にいたセシルと思わず顔を見合わせる。
クローディアがこの屋敷に住み込んで以来、客が訪ねて来たことなどない。
(まさか……?)
一抹の嫌な予感がクローディアの胸を過った。
「クローディア様、大丈夫ですよ。私が見て参りますので」
クローディアの不安を察したセシルは作業の手を止めて玄関広間に向かう。
しばらくすると、聞き覚えのある甲高い声が食堂にまで届いた。
「クロエ! いるのは判ってるの! さっさと出てきなさい!」
苛立ちを隠そうともしない耳障りな調子。ルーネの声だった。
(どうしてここが……?!)
クローディアの顔からさっと血の気が引く。心臓の鼓動はバクバクと早く、強く脈を打ちはじめる。
セシルの声も途切れ途切れに聞こえてくる。だが、話している内容までは混乱した頭には入ってこない。
クローディアは膝の上で両手をぐっと握りこんだ。目を瞑り、深く息を吸い込んでは吐き出すことを繰り返す。
(大丈夫……大丈夫……大丈夫。わたしはもう……クローディアなの)
森での日々を思い返して強く自分に言い聞かせる。
しばらくしてからゆっくりと目を開けた。
クローディアは立ち上がると玄関広間へと向かった。灰色の瞳のなかにはもう、怖れや迷いの影は残ってはいなかった。
なるべく穏やかに速やかに、招かれざる客人にはお引き取りを願おうと、セシルは考えていた。
「ですから、当方にはクロエ様という方はいらっしゃいませ……」
「クロエ! いるのは判ってるの! さっさと出てきなさい!」
辛抱強く同じ台詞を繰り返していたセシル。だが何度目かの台詞のあとに、同じく痺れを切らした客人のひとりが従者たちを押し退けてセシルの前に立ち、言葉を遮った。
おそらくクローディアよりも年が上だろうと思われるご令嬢だ。この者がクローディアの異母姉だとセシルは理解した。彼女の目付きは鋭く、激しい怒りは眉までも吊り上げている。険しい形相は魔界に屯する魔物よりも厳めしい。その後ろには、もうひとりのご令嬢がこちらをきつく睨んで立っている。彼女は異母妹か。
「まあまあ、落ち着いてください」
「おかしなことを言うのね。あなたが早くクロエを連れてくればいいだけの話でしょう?!」
はぁと内心でため息を吐いたセシル。そのときに背後から静かな声がかかった。
「ルーネ様、ネルロ様、お久しぶりです」
クローディアは紺色のローブの裾を摘むと、ルーネたちに丁寧な礼をとる。ファーロング伯爵家での教育の賜物だ。
「クロエ……! やっぱり……!」
クローディアの挨拶を無視したルーネ。目尻はさらに吊り上がり、獲物を捕らえた肉食獣のようにギラリと光る。
「……どうしてわたしがここにいると?」
「フランカに占ってもらったのよ。 よくも勝手なことをしてくれたわね。さあ! おとなしく家にもどりなさい!」
(フランカって……確かよく当たるとメイドたちが噂をしていた街の占い師ね)
ルーネはセシルを押し退けると、クローディアの手を掴もうと腕を伸ばす。
咄嗟にルーネの腕を止めたのはセシルだった。
「お嬢様。ご主人様のお客様でもあり、私のよき友人でもある方に無礼をはたらくのなら、私にも考えがありますよ」
言葉はやわらかだった。だが、目の奥は笑ってはいない。掴んだルーネの腕をギリリと締め上げる。
「痛いっ!」
「お嬢様!」
「お姉様っ!」
ルーネの悲鳴に従者たちとネルロが気色ばんだ。
「おや、これは私としたことが。失礼いたしました」
セシルは微笑んでルーネの腕を離す。
「なにをするのよっ! この無礼者! 私に触らないで! こんなことをしてただで済むと思ってるの?! それになに? その包帯! 気持ちが悪いったら!」
「ルーネ様、お言葉が過ぎます。セシルさんはわたしの大切な友人です。侮辱することは赦しません。謝罪してください」
クローディアは真っ直ぐに背筋を伸ばしてルーネに毅然とした眼差しを向けた。
クロエだったときにはルーネやネルロにどんなに酷いことを言われても、ただ縮こまっていた。言い返したことなどはない。だが、仮面は捨てたのだ。あの頃のクロエはもういない。
「なっ?! クロエのくせに私に指図なんかしないで!」
思いもよらなかったクローディアの反抗に、それでもルーネは驚きながらも攻勢を弱めずに言い放つ。
「そもそもこんな呪われた森に住んでるなんて正気じゃないわ! お父様に言いつけて、森ごと焼き払ってやるんだから!」
(まったく……。クローディア様と半分でも血がつながっているなんて信じられませんね)
セシルは心のなかで苦笑した。
「なんの騒ぎ? おちおち眠ってもいられないよ」
いつの間にかクローディアの隣にはネモが立っていた。眠そうな目であくびを噛み殺している。
「これはこれはご主人様。申し訳ございません」
詫びるセシルに手を上げて「いいよ」と合図を送るネモ。それから「誰?」と視線だけでセシルに問いかけた。
「それが……扉を開けたところ、名乗りもしないで突然に押し入ってこられまして。『クロエ』様という方を出しなさいと騒いでおられるのです。そんな方は当方にはいないと申し上げているのですが……」
セシルはわざとらしく困ったふりをした。
「ふうん」
ネモの冷たく薄青い瞳はルーネを捕らえた。
「随分と常識がないみたいだけど……きみは誰なの?」
「常識がないのはあなたたちでしょ!? こんな呪われた森に住んで、領主の娘の顔も知らないなんて! それに婚約者から逃げたクロエを匿ったのなら、隠匿罪でお父様に地下牢へ入れてもらうわ!」
ルーネのけたたましい叫びに、ネモとセシルは両手で耳をふさいだ。
「恐しいねぇ。もう少し落ち着いたらどう?」
ネモを無視したルーネは再び声を荒げる。
「とにかく! クロエ、帰るわよ! バージェス侯爵とお母様が婚礼の準備をして待ってるわ! 喜びなさい。お優しい侯爵様は逃げ出したことには目を瞑ってくださるそうよ」
クローディアは心の底からぞっとした。ファーロング伯爵夫人はまだしも、バージェス侯爵もまだ自分を諦めてはいなかった。
「嫌です。わたしは婚約を破棄します」
はっきりと意思を告げたクローディア。
「クロエ、ふざけるのもいい加減にして!」
クローディアにセシルが大賛成とばかりに拍手を贈ると、ルーネは射殺すような視線をセシルに投げた。
「やれやれ……話のわからないお嬢さんだね。私の大切な弟子を勝手に連れて行かせる訳にはいかないよ」
「なによ弟子って?」
ネモはルーネの問いには答えない。
「それはそうと……この森へはどうやって入ってきたの?」
「どうやって? そんなの邪魔な枝を焼き払いながらに決まってるでしょ!」
「そうよ! お姉さまは火の魔術が得意なんだから!」
状況にそぐわず場違いにのんびりとしたネモの口調に、ルーネは苛立ちをぶつけた。ネルロはここぞとばかりに加勢してくる。
「まったく……大した執念だね」
ネモは呆れたと云わんばかりに肩を竦めて、パチンと指を鳴らす。次の瞬間にルーネとネルロの口には、背中にたくさんの茶色いイボを持つ大きなカエルが貼り付いた。
「んもっ!? んももももっ!! うもーっ!」
「うがっ?! うもうもっ?! もがっ!!」
「もういい。すこし黙りなさい」
べったりと口に貼り付いたカエルをルーネもネルロも必死に剥がそうとするが、まったく剥がれる気配はない。
(うわあ……ネモさんが怒ってる)
クローディアは身震いをすると、決してネモを怒らせまいと誓った。
従者たちは大慌てで二人の口に貼り付いたカエルを剥がそうと躍起になっていた。だが、カエルの茶色い皮膚から分泌されるネバネバとした粘液で指が滑り、カエルを上手くつかむことができない。
「お前たち!? ここで何をしているんだっ!?」
屋敷の庭土を馬の蹄が勢いよく蹴り上げる音がする。同時に鋭い声が飛んできた。声の主は駆けつけた馬の手綱を強く引いて止まらせると、馬上から慌てふためいた様子で、まるで転がり落ちるかのようにして馬から降りてきた。
「お父様……?」
開け放たれた玄関広間の扉からはファーロング伯爵が飛び込んできた。視線の先にネモの隣に立つクローディアを認めると、一瞬だけ目を見開いた。そしてすぐにネモの前で腰を折る。
「ロックジェラルド殿、誠に面目ない!」
(え……?)
「久しいですね。ファーロング伯爵殿」
「いや、本当に、お元気そうでなにより。いや、それよりもその……このたびは家の者が大変なご迷惑をおかけしたようで……。なんとお詫びを……」
「もが! んががががががががが!」
「んがっ! もももももっ?!」
「お嬢様! 動くと剥がせません! 少しの間、辛抱してください!」
「……詫びは後ほどうかがうとして。取りあえずその小娘たちを黙らせてもらえませんか? 先ほどから煩くてかなわないのです」
後ろで騒いで暴れているルーネたちを顎で指し、辟易とした様子でネモは顔をしかめる。
「そ、それは申し訳ない! 直ちに……!」とファーロング伯爵。
「お前たちっ! 静まりなさい! 一体なんてことをしてくれたのだ……! ヘラからお前たちが森へと向かったと聞いて、まさかと思い急いで来てみれば……! 森へは近付くなとあれほど言ってあっただろう! なんでこんな勝手なまねをした!? ここは誰の屋敷か知っているのか!? この罰当たりがっ! 下がりなさい!」
顔を真っ赤に紅潮させたファーロング伯爵からは、稲妻のような一喝が落ちた。
ルーネとネルロはその剣幕と怒声に驚いてしまい、固まった。結果として騒ぎはピタリと止む。
ファーロング伯爵のこれほどの剣幕はルーネとネルロはもちろんのこと、クローディアも目にしたことはなかった。ファーロング伯爵はいつも黙って目を伏せて、部屋を出ていくだけだったから。
再びネモに向き直るファーロング伯爵。さらに深く頭を垂れる。
「ロックジェラルド殿、誠にお恥ずかしい限り。申し訳ない!」
(さっきもロックジェラルド殿……って。森の名前と一緒だわ。ネモさんは一体? お父様ともどんな関係なの?)
なにがどうなっているのかさっぱり要領を得ないクローディア。ネモとファーロング伯爵をただただ交互に見つめるしかない。
それはルーネやネルロ、従者たちも一緒だった。
時を少し遅れて護衛の騎士たちが数騎ほど、ファーロング伯爵の跡を追って屋敷へとたどり着く。ファーロング伯爵はまだ謝罪めいた譫言を繰り返し述べていた。
「この不始末、我が娘たちながらなんと情けないことか……!」 「誠に申し訳ない」「すべては私の不徳の致すところ」「ロックジェラルド殿のお怒りはごもっとも。お叱りは甘んじて受ける所存」「娘たちの無礼の責はすべてこの私にある故、厳しく言い聞かせたうえで十分な罰を与える」「ですから、どうかここはひとつ、それに免じて穏便にご容赦願いたい」
ファーロング伯爵の嘆願にネモは不機嫌さを隠そうとしなかった。
「……また随分と勝手な都合の良いことを仰りますね。ファーロング伯爵殿の監督不行き届きはもちろんのこと、己が家の役割をまさかとは思いますが、お忘れなのでしょうか? このロックジェラルドの森に人間を近づけないようにすること、森の守護と管理、それがファーロング伯爵家の存在理由のはずですが……。務めを怠り、自らの血の者がそれを破るとは。永い時のなかで貴国の王と我が王との盟約をお忘れに?」
「め、滅相もない! そんなことは断じてない!」
ファーロング伯爵の顔色は、途端に青を越えて蝋のように白くなった。額からは脂汗が滲みだす。事を大きさを今さらながらに自覚したらしい。
「次代の嗣子に己が家の役割さえも教えることができないのならば、義務を放棄する……と見倣さても仕方がないと思いますが」
「そ、それは誤解だ。まだ時ではないだけで……」
「時ではない? では何時ならその時だとお考えですか? この愚かな小娘たちが、さらに取り返しのつかないことを仕出かしてからでしょうか?」
「……ロックジェラルド殿、今回の件は確かにこちらの落ち度だ。しかしそれはさすがに侮辱が過ぎますぞ……!」
「侮辱ですか……。これは笑止な。それならば私からもう一言申し上げましょう。ファーロング伯爵殿はなにかを勘違いをされているようだが、貴殿が詫びて赦しを乞うべきなのは私ではありません。貴国の王と我が王とに自ら任務の失態を詫びるべきなのです。それにさえも考えが及ばないというのなら、それこそが両国の王に対する侮辱では?」
「……っ!」
薄青い双眸はさらに冷えてファーロング伯爵を見据える。
「それに……恥知らずなそこの小娘たちと己の保身ためには弁が立つようですが、彼女……クローディアのためには何かをしようとは思わなかったのでしょうか?」
ネモの言葉にクローディアの胸はズキリと傷んだ。
「そ、それは……ロックジェラルド殿には関係がないことだ」
途端にしどろもどろになり、端切れも悪くなっていくファーロング伯爵の目は泳ぐ。
クローディアは理解していた。ファーロング伯爵がかつての愛人との間に産まれた娘を引き取ったのは、世間への体裁だけのためだと。それでも目の前で改めてその現実を突きつけられると、やはり心は痛い。
(もう大丈夫だと思っていたのに……お父様には……なにも期待しないと決めていたのに)
ファーロング伯爵夫人やルーネとネルロの心ない仕打ちに、幼い心を痛めていたクローディア。幾度となく、その灰色の瞳でファーロング伯爵に助けを求めた。だが、そのたびにファーロング伯爵は黙って目を伏せた。
「クローディア様、大丈夫ですか?」
クローディアの傍に寄り添ったセシルがそっと囁く。
「はい……大丈夫です」
クローディアは気丈に微笑む。
血の繋がりなどないネモやセシルでもクローディアを気遣ってくれる。それに引き換え血を分けた実の父は、クローディアが本当に欲しかったもの ── 温もりや優しさ、愛情と呼べるものだけは与えてはくれなかった。ほんの僅かでもよかったのに。
ネモは深いため息をついた。
「これ以上の話し合いは無駄なようですね。非常に遺憾ですが、この件は然るべき手続きを踏み、国に報告を致します」
「待て! それだけは待ってくれ! ロックジェラルド殿はなにか誤解をしている!」
「まったく見苦しい……これ以上私を苛立たせないでほしいものだ。貴殿にできることは、己の所行を振り返り、おとなしく沙汰を待つことだけです」
「そんな……!」
「それから、クローディアには今後一切、いかなる理由でも拘わるな。もしも手を出そうものなら……。私が黙っていない。わかっているな?」
「……」
ファーロング伯爵はがっくりと肩を落とし、深く項垂れて膝をついた。
「セシル」
「かしこまりました。ご主人様」
嬉々としてセシルはくるりと円を描くように指を回す。
セシルの魔術によって、口にカエルが貼り付いたままのルーネとネルロたちと一緒に玄関広間から叩き出されるまで、ファーロング伯爵はとうとう顔を上げてクローディアを見ることをしなかった。
(さようなら。ファーロング伯爵)
クローディアは今度こそ、本当にすべてを棄てたのだ。
✻
ファーロング伯爵家は帯剣貴族だった。
初代ファーロング伯爵となるライオネル・ファーロングは、元々は騎士の出身。そうはいっても、ライオネルが得意なのは剣よりも火の魔術だった。
建国当初の国はまだ安定しているとは言い難く、国境での他国との争いは頻繁に起こっていた。それらの争いで武功を立てたライオネルは、魔術の才を認められて伯爵位を授かり、貴族へと取り立てられたのだった。
ライオネルの魔術を見込んだ国王は、ファーロング伯爵家にもうひとつの役割を仰せつける。昔も今も、国王とファーロング伯爵家の当主と、一部の者だけが知る約定。
それは現在のファーロング伯爵領に広がるロックジェラルドの森の管理と守護だった。
ネモが言っていたようにロックジェラルドの森には秘密がある。
森の奥のさらに奥には、隠されるように洞窟が存在していた。その洞窟は魔界と人界とをつなぐための門だ。
この周辺地域をまとめて国を興す際に、初代の国王が魔族の造った門を偶然に発見したことが始まりだった。国王は門を通って魔界へと赴き、魔族の王と約定を結んだといわれている。
『魔族の往来と人界への滞在は、人族に危害を加えない限りは自由に許可をする』
『門は厳重に管理し、魔族と人族からそれぞれに管理者を出すこととする』
『人族には然るべき時がくるまでは、公には魔界や魔族の存在は知らしめないこととする』などなど。
ファーロング伯爵家は代々、ロックジェラルドの森に人間が入り込まないように監視し、森を守護し、門を管理する役割を担う人族側の家系だった。
ちなみに森へとかけられた呪いは、魔族の初代管理者が施したものである。
森にかんするさまざまな恐ろしい噂は、ファーロング伯爵家が流布していた。
ネモから語られる昔話は、クローディアにとっては初めて聞くことばかり。
「ええと、魔界……魔族……門……。じゃあ、ネモさんは魔界からきた魔族で……その門の管理者?」
「まあ、そういうことだね」
秘密を明かした薄青い瞳は悪戯っぽく光る。
「あ、私も魔族です」
食堂のテーブルでティーポットを操り、ティーカップにお茶を入れさせていたセシルも名乗りを上げた。
(魔族……。でも、人間と変わらないわ。ふたりとも顔色は青白いけど)
「いきなりこんな話を聞かされても驚くよね。でも、これがロックジェラルドの森の真実だ」
「真実……」
ロックジェラルドの森の真実。
あの恐ろしい噂はすべて、門に人族を近づけさせないために流されたものだった。
実際の森は実りも豊かな美しい森。
クローディアはそのことを嬉しく思った。
「それからもうひとつ、言っておかなければならないことがある」
「なんですか?」
「人族側の門の新しい管理者にはクローディア、きみを推薦しておいた」
「えっ?!」
思ってもみなかった突然のことにクローディアの声は裏返る。
「まあ、門の管理者とはいっても難しいことはないよ。ファーロング伯爵家にもどる必要もない。ただこの森で今までと同じように生活すればいいだけだ。たまにくるヘンな侵入者にはカエルでもお見舞いして追い出してやればいい」
ネモは笑って片目を瞑った。
「賛成です!」とセシル。
「いい案だと思うけど、どうかな?」
「その場合はネモさんもセシルさんも一緒……ですよね?」
「もちろん。きみが嫌でなければの話だけど」
「嫌なわけないです!」
思わず勢いこんで答えてから、はっと気がつく。
「あの、でもその場合は、ファーロング伯爵は……?」
「さあね? 私は正式に上に報告をした。魔界からもこちらの王家へと抗議がいくだろうし。もしかすると約定の見直しや、魔界や魔族の存在を公表するような問題にまで発展するかもしれない。ファーロング伯爵家の存続は人族の問題になるけど、この不祥事は大きい。……心配?」
「いいえ……と答えられたのなら楽なのでしょうね」
ファーロング伯爵家を進んで助けたいとは思わない。だが、惨めに没落することを望んでいるわけでもない。
「きみは優しいね」
クローディアは首を振ると、ネモの言葉を否定した。
「優しいわけじゃないです。もしかしたら……わたしのせいかもって」
「どうして?」
「わたしがこの森に留まってネモさんの弟子になったから……」
ネモはそっと首を振った。
「クローディア、それは違う。『もし、わたしが道を間違えなければ』『もし、わたしが家を出なければ』『もし、わたしが引き取られなければ』。そんなことを辿っていったなら切りがない。世界の始まりまで遡ってしまう。すべての結果は日々の選択の積み重ねによるものだ。つまり、物事はそう成るようになっているんだよ」
ネモはクローディアの手を取ると、やわらかく微笑んだ。クローディアが映る薄青い瞳は美しい海の宝石の色。透き通っているが冷たい色ではない。
「ありがとう……ネモさん」
(不思議……。ネモさんは人間じゃなくて魔族だってわかっても。でも、この温かさはなにも変わらないのね)
足音を忍ばせたセシルが気を利かせて食堂を出ていったことに、まだふたりは気がついていなかった。
✻
こうして、かつてはクロエ・ファーロングだった少女は、数年後にはクローディア・ロックジェラルドと名乗ることになる。
ファーロング伯爵家の不祥事の後に、魔族の王と人族の王の話し合いがもたれた。
古の約定は徐々に改定され、魔界と魔族の存在も少しずつではあるが明かされることとなっていく。
クローディアは人族と魔族の架け橋となり、土の魔術師としての高名も大陸全土に広がった。
忙しく駆け回るクローディアの傍らには、いつでも美しい魔族の夫が地図を片手に寄り添い、ロックジェラルドの森の奥にある屋敷からは、子どもたちの賑やかな声が聞こえてきたという。
だけど、それはまたいつかの別のお話 ──
読んでくださってありがとうございます。
★本文中では説明が不足しているかもな箇所の補足です。
✼フランカ
街で評判の占い師。実力は本物だが、町娘や令嬢たちには恋占いで人気がある。フランカ本人は恋占いには飽き飽きしているが、商売のタネなので文句は心の中だけで消費する。
クローディアの行方に埒のあかなかったルーネたちは、クローディアの捜索をフランカに依頼したものの、フランカにもなかなか特定できずに時間がかかった。フランカ曰く、「久々に燃えた依頼だった」らしい。
✼魔族
姿形も思想も人族とほとんど変わらない。魔界と呼ばれる世界に住んでいるが、昔から人界に渡り住み着いている者もいる。
王族や上位貴族の一部には「魔界」「魔族」の存在は知られている。民衆の混乱を誘発しない為や、むやみに魔界へ渡る者を出さない為に、一般には存在を正式には公にしていない。噂程度は昔からある。
現代でいう宇宙人とかのような存在……かも?
人族には「魔族」という恐ろしげな名前で定着しているが、特に狂暴なわけでも、恐ろしいわけでもない。ただ単に、人族よりも魔術が優れている者が多いための呼称である。
✼帯剣貴族
戦などで武功を立てて爵位を得た貴族。
✼ファーロング伯爵家の後日談
ルーネとネルロがネモに貼り付けられたカエルは、丸一日唇から取れなかった。その後、しばらくの間は唇が腫れ上がってしまい、人前には出られなかった。
カエルたちはそのままファーロング伯爵家の庭に棲み着き、たまに二人の前に姿を見せて威嚇しているとか、いないとか。
ファーロング伯爵は、養子に迎えた妹の息子に家督を譲り引退(なかば強制)。今までの当主たちの働きに免じて、伯爵家の取り潰しは免れたものの、領地のほとんどは王家に接収される。
ファーロング伯爵家は門の管理者としての権限も取り上げられ、クローディアが引き継いでいくことになった。
ヘラは今回の処分でついに堪忍袋の緒が切れる。ファーロング伯爵に対する愛情よりも、長年の積もり積もった恨みと憎しみが大爆発。財産の半分を勝手に持ってネルロを連れて実家へと帰った。だが、実家での肩身は狭い模様。
ルーネは意外や意外(?)、バージェス侯爵と意気投合。その後ちゃっかりと侯爵夫人におさまった。
ネルロは姉の夫であるバージェス侯爵の褒められたものではない人脈を頼り、高位貴族の優良令息を探し中。だが見込みは薄い。














