第5話カゲナ視点
拳を握る。
地を蹴って、風を裂く。
姉のもとへ、真っ直ぐ。
けれど――胸の奥で何かが揺れた。
ノク。
眠っているはずの、あの悪魔の声がふと響いた。
『……まだ、早いよ。焦るな、カゲナ』
懐かしい声だった。
優しくて、どこか切ない。
聞いた瞬間、胸がきゅっと締め付けられる。
ああ、まだこの奥に、残ってるんだ。
あのぬくもりが。あの戦いの記憶が。
伸ばした手は――届かない。
いや、違う。届かせちゃいけないんだ。
闇が広がる。
空間が歪み、足元に黒が滲む。
ノクの力に触れかけた瞬間、暴走しかけた。
制御できない。歯を食いしばっても、止まらない。
俺はまだ、ノクの力を扱えない。
“あの頃”のままじゃ、駄目なんだ。
それでも――叫ぶ。
不完全な一撃でも、俺は振るう。
空を裂いたその手に、ほんの少しの“意思”を込めて。
(俺は……俺の力でやるんだ)
ミレイナ姉の闇が迫ってくる。
でも逃げなかった。逃げたくなかった。
吹き飛ばされても、膝をついても、何度だって立ち上がった。
ノクじゃない。
俺の目で見て、俺の足で進む。
がむしゃらで、脆くて、でも今だけはまっすぐに。
「……いい目をしてるじゃん、カゲナ」
姉がそう言ったとき――少しだけ、心が震えた。
「ミレイナ姉……あの時、どうやって悪魔を……抑えてたんだ?」
口を突いて出た問いは、姉の奥に眠る記憶を揺らしたようだった。
静かに笑って、遠くを見て、語りはじめた。
「……抑えてなんか、いないよ。ずっと、あたしの中にいる。壊せ、戦えってね。もう怖くないけどさ」
“あの頃”の姉。
泣いてたって言ってた。
力に呑まれて、壊すことしかできなくて。
でも、今の姉は――違う。
空を見上げて、静かに言った。
「いろんな世界を見てきた。音楽で魔法が生まれる場所、空を泳ぐ星の記憶たち、風が神の声を運ぶところ……」
その語りに、不思議と胸があたたかくなった。
姉は世界を知っていた。
“相棒”と、共に歩いていた。
「その子はもういない。でも、今もここにいる。あたしが進むかぎり、ずっとそばにいてくれる気がする」
(……ノクも、いつか、そんなふうに思える日が来るだろうか)
姉の言葉が、静かに染みてくる。
「強くなるっていうのは、こういうことなんだよ」
⸻
──朝。風の匂いが変わった。
リアの目が覚め、空気の異変に気づいた。
結界の外。
森の向こうから、影が蠢いている。
上位モンスター。しかも、数が……多すぎる。
そして――雷。
空が裂けた。雷鳴が大地を揺らす。
その中心に現れたのは、神の使い。雷の神獣――ライゼン。
(……何かが、始まる)
その瞳は俺を見ていた。
まっすぐに、真下から見透かすように。
「牙を研ぐ者よ。見せよ……心のままに放つその力を」
雷の気配が、俺の胸の奥に触れた気がした。
――あれは、誰だ?
ミレイナ姉が、静かに言う。
「あの子は、牙を見に来たんだよ」
「牙……?」
「“何を守りたいか”。それが、あんたの“牙”になる」
(俺は……何を守りたい?)
再び雷が鳴った。
でも、その音には、ただの破壊じゃない――優しさがあった。
胸の奥で、何かが目を覚まそうとしている。
それは力じゃない。
祈りのような、静かな衝動。
俺だけの、牙。