第3話リア視点
──朝。
ゆっくりと目を開けた瞬間、心の中に、彼の気配が戻ってきた。
(……おかえり)
静かで優しい彼は、私の中にいつもいて、
そっと背中を押してくれる。
でも、私は彼の名前を……まだ呼んだことがない。
──
「勝ったのね、ノク」
自然とそう口にしたとき、私は同時に、私の中の彼にもそう呟いていた。
(……ありがとう。助けてくれたよね)
彼は何も答えない。ただ、いつものように静かに微笑む気配だけが返ってきた。
──
訓練場で、私は兄と戦った。
何度も、何度もぶつかり合った。
兄はノクに頼らず、空間を斬り続けている。
私は炎の霊を全開で操り、全力でぶつかる。
(もっと、強くなりたい)
その想いを、彼もずっと見てくれている。
「……きみも、強くなりたい?」
ふと心の中で尋ねてみた。
彼は、ほんの少しだけ温度を宿した気配で、静かに微笑んだ。
(……うん、やっぱり、あなたも……)
私の中にいる彼は、私と一緒に生まれた存在。
転生者じゃない。
輪廻でもない。
ただ、私と一緒に、この世界で“生まれた”人。
ノクと同じで、彼はすぐに喋れるようになって、すぐに成長した。
……だけど、私たちは、まだ「名前」を持っていない。
彼は、ずっと私のことを「リア」と呼ぶのに、
私は、まだ彼の名前を呼んだことがない。
(……私、名前、つけてあげないとね)
心のどこかで、そう思い続けてきた。
でも。
(……もう少し、このままでいいよね)
もし、名前をつけたら。
もし、呼んでしまったら。
たぶん――
全部、変わってしまう。
そんな気がして、私は“まだ”踏み込めずにいる。
──
ミレイナ姉が帰ってきた。
私は嬉しくて、思わず抱きついた。
(……家族だ、私たち)
最近、こういう時間が、すごく増えた気がする。
騒がしくて、楽しくて、ちょっと照れくさくて。
でも、私はちゃんと知っている。
「彼」も、この家族をずっと静かに見守ってくれていることを。
──
ノクが出てきたとき、私はもう、全然驚かなかった。
「出たわね、欲の塊」
呆れたふりをしながら、心の奥では思っていた。
(……ノクと、きみ。やっぱり、どこか似てる)
私の中の彼は、ノクのことを見て、いつも静かに微笑んでいる。
ノクも、たぶん、彼の存在に気づいている。
でも、二人とも、あえて何も言わない。
……不思議だけど、心地いい距離。
──
夕方のダンジョン遊び。
兄とノクは、一つの身体で交代しながら、完璧に連携して戦っていた。
(……ずるいな、ほんとに)
私は、もっと強くなりたい。
もっと兄に追いつきたいし、ノクとも並びたい。
でも、きっとそれだけじゃない。
(……きみにも、もっと近づきたい)
私の中にいる彼は、戦いの中でも、ずっと静かに私を支えてくれていた。
(……名前を呼んだら、きみはどうなるの?)
──
夜。
ノクがいつも通りお風呂で騒いで、私が水をかけて、ミレイナ姉が笑って。
こういう時間が、本当に楽しくて、
私は、ずっと続いてほしいと願ってしまう。
(……でも、たぶん、続かないんだろうな)
どこかで、ほんの少しだけ、そんな予感がする。
──
夜、みんなで一緒に寝る時間。
ノクと私は、ずっと話していた。
カゲナは、いつの間にか先に眠ってしまった。
(……ふふ、やっぱり兄は寝るの早い)
私は、布団の中で、そっと目を閉じながら心の中で話しかける。
「ねえ、きみ……」
「もし、いつか名前をつけたら――」
「きみは、ちゃんと私の名前を呼んでくれるのかな?」
彼は、いつも通り、静かに笑うだけだった。
──
私たちには、まだ名前がない。
でも、いつか、その時が来る。
きっと、その時は――
世界が少しだけ、変わってしまう気がする。
(……もう少し、このままでいい)
私は、そう小さく呟いて、目を閉じた。